先日、テレビで放送されたアニメ映画「未来のミライ」をお勧めします。
自分探しをする人に丁度良い、自分探しをしている話です。
四歳の男の子が主人公です。
妹が生まれ、父や母、そして祖父母の注目をさらわれていく時期の孤独や喪失感をうまく描いています。
この幼児の様子が本当に素晴らしく「幼児」なので、お勧めします。
神経症の人は、この時期から周りを受け入れずに「形だけ大人になった」と言えるでしょう。
未来の妹が、主人公の見ようとしなかった世界を見せに連れて行ってくれます。
思い通りにならずに「見捨てられた」と感じて泣きわめく主人公。
他の子に張り合って無理して同じことをしようとする主人公。
注目されない腹立たしさで生まれたばかりの妹に意地悪をする主人公。
自分だけが可愛くないのだと泣く主人公。
自分だけが注目されている世界でなくては、「幸せではない」時期の物語です。
この喪失感は誰もが乗り越えて人との共存に向かえます。
何よりも「自分を自分で証明しなくてはならない」というシーンが最も重要かもしれません。
アイデンティティのことを言っているのです。
皆さんは、自分で自分が何者なのか証明できるでしょうか?
人はどうあっても、外側にあるものを介してしか自分を証明できません。
名前のことではありません。それでは誰かわかりません。
名前は自分の存在を表しているわけではなく、ただの呼び名です。変えることも可能ですから。自分ではありません。
僕の場合ならばこうなるでしょう。
「加賀は百万石の前田家に永らくお仕えした、武士の一族の嫡男です。」
このように、自分が何者として存在しているのかを自覚してから「ではどう生きるべきだろうか」が始まります。
何として生を受けた人生なのか。
自分は「現世において何者なのか」をハッキリ自覚している。
自分の構成要素を自覚できているかが、非常に重要なのです。
人との違いを受け入れる度、「自分は~なのだなあ」と少しずつ自覚していくのが恐らくベターです。
自分が我慢した、頑張った、など自分の理由で周りを拒否することで、自我はどんどん拡散し、「自分がなんのために生まれたのか」がわからなくなります。
受け入れる度に「これは全て違いなのだ」とわかっていくのです。
「私は~だったのに!」
「俺はそんなつもりじゃないのに!」
そうして他人を恨んでいる人は、この世に生を受けた意味に近づけないどころか、どんどん遠ざかっていくのです。
自分の作る世界は、歴史がありません。
自分が生まれる前は自己中心的な世界には何があったの?と聞かれてもわからないでしょう。
突然始まった世界に、全部用意されていた———それが幼児の生きる世界です。
生まれた方から見れば確かに「そう見える」ものですからね。
幼児の世界では両親にも過去はないのです。聞いても現実のものとして想像できません。
過去の無い世界に生きているので、言い訳ややり直しをするのです。
「一度やったらもう終わり。」
「現実に起きたらもう結果を消すことはできない。」
「事実そうでないなら存在できない。」
ということも、まだわからないのです。
大丈夫だとわかって自分が安心したら「なーんだ、じゃあ…」と行動していればいい、という気分です。
「本当に大丈夫なんだよね?」
と心配になったら疑いを口に出し「大丈夫だよ」と保証してもらってから「じゃあ信じる」となるのです。
現実には、その言葉ひとつでもう疑われて終わりです。
ひとつでも行動した途端、結果は変わっていきます。
そして事実そうでないのに、思わせて結果が出てくると思えるところが「実在している感覚がない」理由です。
どんなに良いことを言っても、実際にそう思っていなければ何の意味もないのだとわからないのです。
本当に心から思っている、真実である、ということに全く意味がないと思えています。
恐らくはまだ、「自分が本当は何を思っているか」を確認したことがないのだと僕は考えています。
自分の心を確認せずに、他人の反応だけ見ながらスラスラと喋っている時期があります。
その状態なのだろうと推測できます。
「仲良くしようと思ってたのに!」
「親切でやってあげたのに!」
なんて心の中でぶつくさ言っていることがありますね。
でも、そのうち確認するのです。
「本当にこれが親切かな。僕は心からそんなこと思っていたかな。」
親切ってこういうもの?こういう気持ちでやるのが親切なの?
この僕が、「優しい人」という人間なの?優しい人って僕みたいな人のことを言うの?
こうして、自問自答して確認し始めます。自分で自分の嘘を見抜くようになるのです。
実際にそうでないんだから、結果が出てこなくて当然だな、と思えるようになって、現実の世界に出ていきます。
周りも一緒に動かして、望んだとおりの展開になるよう期待した。
口先で説明して、思い込ませて人を動かそうとした。
体裁の良いことを口走り、期待通りに褒められれば「よし、やった」と満足する気分になり、一人でいい気分を味わいます。自分はすごいんだぞ!優しいんだぞ!と自画自賛するのです。
それがナルシシズムです。
そういう時期が誰でもあります。
それが今回お勧めしている映画の主人公です。
お父さんならわかる。お母さんならできる。
そういう感覚を大人になっても持ち続けたら、神経症です。
「みんな人間なんだ。できるかわかるかなんて、本人にだってわからない。」
と思うものです。
以前から廃仏毀釈の話などをしていますが、アイデンティティを我々が自ら消し去ってしまったことは、多くの人々にとって生き方をわからなくした原因のひとつでしょう。
江戸時代ならば士族でなくとも全員わかったはずのことですから。
我慢した人も、周りに言う事を聞かせてしまった人も、みんなみんな、自分がわからなくなるのです。
この世に起きたことには全て理由があるのに、自分の世界に合わせて現実を変えてしまったからです。
褒められて、優しくされて、満足して、現実から遠ざかる。
映画では、自分を失った人は列車に乗って「ひとりぼっちの国」に行くという話でした。
わかっている人が描いたのだなと思いました。
こんなに良い話だとは知らず、僕もテレビで観て驚きました。
細田監督の作品は、「サマーウォーズ」も本当に良い話でした。
自己の同一性、自分の根源を知ることがどれほど大切なことかよく知っているのだなと思います。本当に素晴らしい作品を生み出しておられます。
サマーウォーズを観た方は多いかと思いますが、本当にうまくやれている旧家ならばああなるでしょう。
本家と分家の立場が親族でも違う。
本家の当主が指示する立場です。
あれそのものが、小さな城ですからね。
一族の団結とはそういうものです。
僕も世が世なら、あのおばあちゃんのように当主として生きる人間だったでしょう。
それぞれが分担し、役割を担う。
そのようにできています。
元気がない時はとりあえず皆で一緒にご飯を食べる、という教えも「正しいな」と思いました。
昔からそういうものです。
とりあえず、食事を出すものだなと思います。
一族として団結していくことは大切なことです。
それが生きるために必要であり、最も大切であることを現代社会の人々は忘れました。
現実にそのままの自分で生きていれば、苦しい人生は終わります。
やりたくないことをやらねばならないのは、思ってもいないことを自分が口走っているからなのだ、とわかるからです。
現実には存在しない、自分が自画自賛できる「理想の人」として生きるにしても、実際の自分はそうでないのだからやりたくないことをやり続けては「しかし結果が出ない現実」の後始末に追われるだけになります。
子供はみんな自分のことを可哀想な子供だと思うのです。
最初は必ず思うのです。
その悲劇から脱した人と脱しない人がいるだけで、誰もが最初は不幸で可哀想な世界を必ず生きるのです。
「未来のミライ」を是非ご覧ください。