「生きる」ということを誤解させてしまう親子のコミュニケーションがある。
自分はこれでいいのかどうか、と常に不安になってしまうのだ。
「批難されないように」
「皆と同じになるように」
「立派だと認められるように」
それは、「やりたい!」から生まれてくるものではない。
「お前はダメだ」と言われないためだ。
それも、対象者が特定できない。
知らない人にも、今出会った人にも、「みんな」にだ。
ではあなたに問う。
向こうにあなたの知らない人がいる。
彼がどんな人か、プロフィールを教える。
そして、これから接してみて彼とのやり取りを体験して欲しい。
最後に、あなたは「彼がこのままでいいのかどうか」を判断して欲しい。
彼が今の人格で間違っているかどうか
彼は今の生き方でいいかどうか
何よりも「彼は今まで正しかったのかどうか」をあなたが判断して欲しい。
彼は、あなたに「それであっている」と認めてもらうように接してくるから、「それでいいのかどうか」を判断して欲しい。
それが、神経症の人の他人に対する接し方だからだ。
彼は親に言われた通りに育った。
望まれたことができればあっているし、できないなら敗者。
人生の勝ち負けは親が決めていて、親に認められた人が勝利。
というゲームをしている。
彼は「あっているはず」「頑張ってきたはず」なのに、まだ親が「お前は勝利した」と認めてくれない。だからゲームが終わらないのだ。
頑張っているのに、いつまで経っても終わらない。
それどころか、認められるためにやりたくもないことをし続けていて、生きているのが楽しくない。
一人が認めてくれても、また別の人は認めてくれない。
だから限りなく続いていく。
より多くの人が自分が「これでいい」と認めてくれるように、できるだけ一般的に認められそうなことをしている。
そうこうするうちに、人格は親にそっくりになっていた。
さて
彼の生き方は、これであっているのだろうか?
あなたに決めて欲しいのだ。
あなたに責任があるのだ。
なぜならば、彼があなたに期待しているのはそれだからだ。
そしてあっていたならば、彼は正しいと思えたならば、それを認めてあなたが「ご褒美」として、親にもらいたかったものを代理で与えて欲しい。
最終的には親が認めてくれるまでの、間つなぎである。
言い出しっぺが親なので、親が決めてくれるまで彼はどうにもできない。
始めたのは親なので、親がやめてくれないと彼は自由に自分で考えて決められない。
これまでも、沢山の人たちに支えられ、彼はいつか親に認めてもらってゲームを終了してもらえる日を待っている。
親子で初めたゲームは、まだ終わっていないのだ。
彼の中での勝敗の基準は、今も始まった時のままなのだから。
彼は他にも多くの人を知り、体験をしてはきたが、彼は親が始めたゲームが終わるまでは、自由に次にいけないのだ。
彼だけが一方的に諦めて、そのゲームを放り出すわけにはいかないのだから。
なぜならば、彼は今まで負けてきた分を、取り返さなくてはならないからだ。
判定は全ての他人がするのだが、やはり最終的に親が認めなくては終らないのだ。
このゲームの言い出しっぺもルールを決めたのも、親だったのだから。
とはいえ、それをゲームのようにとらえているのは「すっかりその気になった子供の方」だけであり、親はただ単に、その都度虐めていただけなのだ、と彼は知る由もない。
つまり「認めてもらう」は最初から存在しないし、「認めてもらえたら欲しいものがもらえる」も最初から無い。
それが、見捨てられているのに、愛されている立場として解釈してしまった子供たちの、大きな勘違いなのだ。