三度の飯よりいじめ好き。
いじめることで生きている人がいる。
どんな人か?
自分が不味い事態になると、相手を悪者にする。
この時、如何に本人が後ろ暗いのかわかるバロメーターのようなものがある。
「相手がどれだけ背景引き連れてくるか」である。
まずいことがない人は、堂々としている。
「お前が悪いからだ、酷いからだ、傷つけたからだ」
ということは理由にならない。
「相手をどれくらいの力で黙らせなくてはならなくなったか」
は、本人の自覚するところに比例する。
つまり引き連れてくる人数、力が多いほど、相手にとってまずい事態だ。
勿論最初から相手を利用するつもりなので、信頼関係は不要だ。
如何にして相手を騙し、自分の都合いい形に持っていけるかが目的である。
形さえでき上れば、相手が自分をどう思っていようが関係ない。
いじめをすることで生きる、と決めた人は、こうである。
「最も大事なことは、自分について意見させない、人を黙らせることである。」
酷いと思うだろうか?
いいんじゃないだろうか?カッコいいと思う。
僕はやらないし、やれないので、カッコいいとさえ思える。
いかにも昔の少女漫画にいた「意地悪お嬢様キャラ」のようで、いてほしい人物だ。
引き立て役としていてほしい。
世界は地獄と天国に分かれているので、天国のお姫様の引き立て役というか、ライバル役としていなくてはならない存在だ。
そして地獄のお姫様はちゃんとやっている。
文句を言うと、「ごめんなさい!」とすぐ謝って周りをウロチョロしてくれる、舎弟のようなメンズがいる。
イライラしているお嬢様は、舎弟には厳しい。
気に入る男が現れると、手のひら返しでぶりっ子する。
という映画かドラマか、何かを見たのだが一体なんだっただろう…。
嘘。思い出した。
ゲキレンジャーのメレだった。
悪役の側のヒロインである。やはり、悪役側のヒロイン、性格が病んでいる。
その分、美人でスタイルがいいからファンもつく。
女王様に踏みつけてもらいたいようなメンズがよく似合う。
病んでる系ヒロインは、舎弟を足蹴にして憧れの人には尽くす。
地獄に生きる人は、この手のヒロインの「過剰に尽くす攻撃」でメロメロになる。
ご褒美欲しさについていく。
だが、地獄のヒロインは決して靡いては来ないのに連れては歩いてくれる、サディストっぽい男子が好きだ。
つまり追いかけても追いかけても追いつかない人を、追いかけたがる。
天国に生きる人は、この手のヒロインを「怖い女」と思う。
素直なヒロインを選んでいく。
互いに追いかけて追いつく、振り向いて抱き合える人を選ぶ。
しかし地獄のヒーローも、病んでいる。
過去が辛い。ダークヒーローだ。
そして今も暗い。過去を引きずっている。
基本、復讐に生きる系男子しかいない。
地獄では、幸せとは復讐を果たすことと相場が決まっている。
天国では、幸せとは争いのない世の中である。
この境目が、「復讐を果たした時に変わるもの」ではないと知らない人が多い。
争いを捨てれば地獄から天国に行く。
だが復讐をしたい人は、天国に興味がない。
とにかく「これまでの人生」をなんとかすることが「残りの人生」なのだ。
この生き様は、過去によって未来が決まる生き方なので、もう未来は地獄しかない。
地獄から天国に転じることは可能だ。
そこに「根拠はない」のだ。
根拠なく、突然変わるんだよ、という話は23日の高田馬場でもする。
来てくれる方々に「相変わらず告知の説明が悪いよね」ということを先に謝っておく。
切り口はどこでもいいのだが、とにかく「幸せは突然根拠なく行ける世界」なのだ。
「こっち側の幸せ」が復讐の成功でしかない地獄だが、地獄に生まれた人は過去と未来を「繋げない生き方」にしなくては、未来を幸せにしていけない。
地獄系ヒロインの幸せは、
「こんなに辛い私を救ってくれる人に出会い、そしてその人に尽くして生きる」
である。
それが、臨獣カメレオン拳使いメレだった。
先生は、チャイナ服の似合うスレンダー美人のメレが「傍で見ている分には」好きだったが、あれは実際にやられると辛いキャラだと知っている。
他人事で見ているとあんなに面白いキャラなのに、どうして対象者が自分になると苦痛になるのだろうか?
不思議なくらいである。
性格的な問題だろう。噛み合わないのだ。
噛み合わないのは自分のせいなので、いる分にはいてほしい。
外側にヒロインが二人いる。
片方は素直で、片方は病んでいる。
この違いあって「自分が好きなのはこっち」が生まれてくる。
だからとりあえず、区別していくためにも全ての人が必要だ。
違いが明確にあるから「自分と合うのはこっちだな」とわかるのだ。
「自分と合う人」を選ぶだけで、メレ的なヒロインが「自分に合う人」である人もいる。
目的が一致しないと、同じ列車に乗れない。
復讐とは、詰まるところ「排除」が目的である。
何かの消滅を目的としている。
幸せな人は、行き先が「創造」である。
何かを生み出すことを目的としている。
排除行きと創造行きの目的地違いのキャラは、同じ列車に乗ると喧嘩になる。
本人の生き方の問題だ。
行き先を変えると、途端に路線変更できるから不思議だ。
これまでの人生はどうにもならないが、どうにもならないまま「新しい道が生まれてくる」のだ。
途端に今楽しい。そういう人生の転換がある。
本当に、「あの人生がコレコレなって…」という過去からの理由が全くないまま、突如の幸せに見舞われる。
それが、方向転換だ。
地獄に進む人は、東海道本線各駅停車に乗っているところを、こだまに乗って幸せに変わる気分になる。
だがこだまに乗ってもまた不幸になってくるので、今度はひかりにさえ乗れればと思うようになる。
さあ、変な例えが始まったが、気にしないでほしい。
じゃあ、かがやきに乗ればいいのか?はやぶさに乗ればいいのか?
そうではないのだ。
乗らない。
何にも乗らない。
今ここで、少しずつ作り始めるのだ。
それで幸せになれる。
希望というものが生まれてくるから。
どんなに速く走っても、何かの力で流されるだけでは不安にしかならない。
「きっといつかは」の願望しかない。
だが、少しずつ今積み上げていれば、「これならきっと!」という確信と共に希望が生まれてくるのだ。
こだまの中で喧嘩している夫婦は、もっと速く、せめてひかり程度に飛ばしてくれればうまくいくと争う。
いかない。
何をしているのか、気づかなくては変わらないのだ。
何をしているのか、何に向かっているのか。
たった今の苦から逃げれば、未来は新大阪でもなく地獄にしかならないのだ。