今、僕は成田にいる。
時々、意識して遠くまで行くようにしている。
遠距離を移動することで、考えが進むからだ。
そして君よ、わかったぞ。
なぜいつまでも自分が救われないのか。
僕が今まで教えてきたことは、正しい。
それはわかっている。
何ができないのか、心の中で。
それがわからなかった。
他人がわからないのかと思っていた。
だがそうではない。
僕は自分の心の中に発生するものを、全く恐れない。
だからそこはもう考えなくていいものだと思ってしまっていた。
自分自身に「こうあって欲しい」という願望が、僕にはない。
子供の頃も、自分がしていることを全部自覚していた。
心の中に発生するものを、心の中で形にできない。
それが原因なのだ。
怖いのだろう。
恐らく、自分が恐ろしいのだろう。
それでは、毒親と呼ばれる親の元に生まれたら、自分の意思で生きられる日など死ぬまで来ないだろう。
自分の心が恐ろしい。
そんなことがあるのか。自分なのに。
そしてそれはただの心の中なのに。
そうだった。
スーザン・フォワードの行うセラピー。
あれはそういう意味だったのか。
全くわからなかった。
「欲求不満」という意味なのだと思っていた。
恨みつらみの親への手紙を書くという方法。
そうではないらしい。
そういうことか。
自覚できない敵意。
子供は親に対して敵意を自覚できないという。
なぜ?
それがレジリエンス・パーソナリティなのか。
みな親なんていない、というような境遇で生まれ育っている。
僕たちは恐らく全員、親と敵対することを恐れていない。
だからなのか。
グズグズと恨み言を言い続ける人に僕がイライラしてきたのは。
友達にも昔からイライラした。
相手にむかつくことも批難することもなんとも思わない。
気迫が足りない。
恨む。許さない。という強い憎しみから来る気迫が足りない。
生半可な気持ちで、人を悪人に仕立て上げる。
それが許せなかったのだ。
人間と人間が争いになることを、なんとも思わない。
その争いを生み出す精神が嫌なのだ。
半端。
恨むでもない。憎むでもない。
好意でもない。
なんなのかわからない。はっきりしない。
好きなのか嫌いなのか何もはっきりしない。
だから僕は何かイライラしたのだ。
これが「甘え」というものなのだろうか。
好きでも嫌いでもない。
好きと言いながら気に入らないと許さない。
要は、誰も好きではない。
でもハッキリ嫌う人もいない。
ただ辛い辛いと嘆く。
自分が辛い、痛い、苦しい。
それ以外にない。
そしてそれは誰でも同じだ。
心の中では「良い子」が親にやられているのではないだろうか?
そのままなのではないだろうか?
だとしたら、納得がいく。
心の中で自分はいつまでも良い子。
良い子ってなんだ。
良い子って。
そんなものはいない。
いい人も悪い人も心の中にはいない。
激しい憎しみ、怒り、敵意、嫉妬。
それでこそ人間だ。
他人に親を求めるという行為。
僕には無い。
他人の女に母など求めない。
他人に親など求めたいやつは、「親子」という関係に最悪なイメージがついていない人間だ。
僕は親子になりたくない。
他人に母になってもらいたくない。
優しい素敵な女なら、女であって欲しい。
なんでも許してくれる、わかってくれる、そんな母親代わりは要らない。
母親が要らないからだ。
二度三度親子関係などあってたまるか。
人はひとつしか親子を体験できない。
そしてそれが自分にとって唯一の親子だ。
僕は親子がそんなにいいものだと思っていない。最初から思っていない。
それなりのいい思い出でもなければ、親子なんて関係は、二度と作りたいと思わないだろう。
まして親代わりになってもらって許された時、向こうからは自分が子供に見えている。
せっかく見つけた素敵な女がいたら、僕は相手から子供に見える男でありたくない。
だが、大多数の人は他人の目に子供にうつりたがる。
つまり、大事な人としては決して選ばれることのない、他人なら「要らない」存在になりたがるのだ。
親子でどんないい思いをしたら、他人にまで親を求めるのか。
僕にとっての親はそんなにいい存在ではない。
ひとつしか体験できない親子の関係で、親子は最初だけで充分である、と僕は思った。
もう一度…と求めたくないくらい、もううんざりだ。
それが僕にとっての親子なのだ。
いつまでも思い出して時間を過ごしたくないほどに、あんなものは一度で十分だ。
君はどうだ?
もう一度、自分が頑張って他人とでもその関係を作りたいか?
うまくいくならば、やり直したいほどならば、君は既に相当恵まれているぞ。