この勘違いは、親子関係から始まるのだろう。
他人同士の場合はこうである。
異性に好意を示される。
そこで何かの理由を話し、付き合えないとか、そんな気持ちはないとか、これがあるからとか、とにかく断る。
この付き合い方は、密に接したくない、親しくない間柄の場合である。
社交辞令の関係と言えば良いだろうか?
傷つけないようにと配慮するものだが、とにかく「付き合いたくない」という意味だ。
それを結論だ、と思う場合もあれば、じゃあどうすればいい?と解釈する場合もある。
間接的にしか言葉を発しない人は、誰に対してもこのやり取りをする。
無理、できない、わからない、やりたくない、など、当たり前だがその反対のことと同じだけ、無理なことできないこと、やりたくないことなどがある。
全て「良し」にしたがる人は、「駄目なところがあったら良いところに直そう」とする。
断られたら断られないにはどうしたらいいのか?と考える。
その場合時間軸の考え方としておかしい。
「もう断られた」のだから、「なぜ断られたのだろう」と考えていくのだ。
結論はもう出た。
それは親子関係も同じである。というか、そこから始まったといって良い。
「どうしてあんたはこんなこともできないの!」
「あなたのしていることは悪いことなのよ!」
と怒る親がいる。
「どうしてなのか説明しなさい!」
いつも怒っている。
親は最初から「この子では駄目」なのだ。
心理的には「子供では駄目、親になって欲しい」のだ。
結果はもう出ている。「この子じゃダメ」なのだから、もう一生無理だ。
この親には自分では駄目。ということだ。自分でなくても駄目なのだが、「親でなくちゃダメ」なのだ。
「装って言う事を聞いたら我慢してくれる」ので、親に我慢して親でいてもらうために、子供も我慢しているようなものだ。
気を使って「良いとされること」をやり続けていれば、表面上の自分は望まれた子供になれる。
決して素を出してはならない。本音を出してはならない。
親に我慢してもらうためだ。
「こんな子供でごめんなさい」
という気持ちになるだろう。
「こんな自分では駄目なんだ」
という気持ちになるだろう。
そのままの自分で生きて行ったら、常に「こんな自分では駄目なんだ」と思うだろう。
言われた通りにしなくては、と思って生きていたら、外に出て何かある度に「これでいいの?」「これじゃダメなの?」と不安になるだろう。
自分で考えて決めたことでない限り、誰に教えてもらおうが不安になるのは当たり前である。
「これではいけないから」は「特に悪いことをしたつもりがない状態」のことを指している。
そのままの自分のことを指している。
そのままの自分のことを「そのままでは駄目だ」と言われてきた。
ということは?
「お前では駄目だ」である。
「お前が駄目」なのだから、自分である限り無理である。
生まれてから死ぬまでこの自分は変りないのだから、一生無理、という意味である。
絶望的に感じることはない。
親が言っていることの本質的な内容は「お前では私の親になれない」なのだから。
なれなくていいし、なりたいと思わないだろう。
こうして親の親に成り代わって生きて行った人は、すっかり疲れ果ててしまう。
そして子供ができると「お母さんだってやられたんだ」とやっと安心して子供の頃の欲求不満を吐き出す、ということになる。
「やられたことだから、安心してやれる」となってしまうのだ。
ならば、自分の親も安心してやっていたことだろう。
「安心してやれる」とは、自分で自分を肯定できるという意味である。
やられた側からは相応の反応が待っている。
「やられたんだからやってもいい」は自分自身の行動に対する判断である。
「私もやられたことだから、私がやっても許される、私も許してきたんだから、私も許される」
「べき」とつく。
ただの正当化である。
単に我慢した欲求不満のはけ口に対して、吐き出し続ける理由をつけているだけである。
人は卑怯なことでもやりたくなることがある。
そんな時、自分の行いが正しいと理由づける説明を自分の中に作ると安心してやることができる。
やられた私の中でだけ通る理屈であって、やられる側には通らない理屈だ。
欲求不満を吐き出すためには、どうしても他人と現実に接するわけにはいかないのだ。
「でもやられた方はどんな気持ちになるだろう?」
「やられた方はどうなってしまうだろう?」
と人のことを思いやってしまうと、自分自身の欲求不満をぶつけられなくなる。
「やっても良い」という理由付けを自分の中でして、安心してやれるのだ。
他人にとって決して望ましくない、自分に対しても危険な感情を持たれるであろうことをしたくなったらどうしたらいいのか?
「自分一人で理由を全部作ってしまう」のである。
この時、現実と自分の世界を断絶していくのである。
「やられた方は嫌に決まっている!やってはいけない!」
と思いとどまれば現実と触れ合って本当に人と仲良くなってはいける。
だが、欲求不満を吐き出して、更にそれで許されるという「ありえない世界」を生きたい場合は、他人の現実を排除していく。
一人で全部決めつけていくのだ。
欲求不満を吐き出して許されているわけがない。
自分が我慢したように、今度は他人に我慢をさせている。
それを他人にやったらどうなるだろうか?
見えないところで何が起きているだろうか?
想像すれば簡単な話だが、その現実は自分にとって望ましくはない。
だから現実は「そんなこと起きてない」ことにするために、一人で決めつけた世界に「いる」と思い込んでいくしかないのだ。
実際にはそんなことは起きていない。
一人で理由を全部作っても、現実に本当に過去まで変えて生み出せたわけがない。
自分が神様になれた気分でいれば、他人におかしいとか酷いとか言い続けていられるが、そんな世界に生きているわけがない。
そんな力があったら、それ以前にもうなんにでもなってなんでもできている。
唯一使える魔法の力が、脳内で思い込むことなのだ。それは誰でもできる。
起きていることを起きていないと思い込む力。
その思い込みを激しくすることによって、一人で現実から切り離されていく。
他人を攻撃しながら、自分が被害者になりながら。
現実には被害者ではない。思い込みの世界にいるのだから、全て思い込みである。
「そんなことしたら、当然相手はそうなるんじゃない?」
ただ現実に起きたことだけ考えたら、誰でもわかる簡単なことである。
だが、自分だけは欲求不満を吐き出しても許される世界に行きたいのだ。
自分も許せていないのに、自分は許されたいのだ。
人間に八つ当たりをしなければいいのだが、どうしても現実に同じモチーフを作りたいのだ。
不当なことである。
ただ、一人で思い込むのは勝手だが、現実は起きたことのままの結果しか出てこない。
怖いのはこれからなのだ、と忘れてはならないが、そもそも思い込みの世界に生きているのでこれから起きることも予測などできない。
予測しようとしたら現実を見るしかないのだから、これから何が起きるか全くわからない世界を生きるしかない。
やられて嫌なことはやらない。
それが道理である。
しかし、やられて嫌なことを「私は我慢してやったのだから」という気持ちが、他人を攻撃することを「自分一人の中で」正当化してしまうのだ。
他人にとっては不当である。自分の思い込み世界では正当化できるのだ。
それがいじめをする人である。
簡単なことである。縁を切ればいい。
文句を言われたらなんとかして話し合って、結論を一致させなくてはならないと考えている人がいる。
依存している側である。
相手がいなくともいい、と思える人は、話し合って解決しようとしない。
「話し合って解決したい」のは「これからも仲良くしたい人」と「相手に認めてもらいたい人」だ。
「この人に認めてもらえなくても別に気にならない人」は、そのまま破綻してもいいのだ。
なぜならば、普通に仲良くできている人がいるからだ。
既に、愛し合う関係を持っているからだ。
「この人と仲良くできなくてもいい、他がいるから」
人に言いがかりをつけたり責め立てる人は、親と同じことをすると他人が自分と同じ反応をすると期待している。
親子ではないのに。
親子や夫婦の関係と、そうではない関係を同等に考えている。
つまり、その人にとって親子と他人の関係に区別がない。親子関係には他人と同様の価値しかない。
自分中心に考えているからだ。
自分が何をどうしているかではなく、相手の立場の方を考えるものだ。
説明して関係を成り立たせる人がいるが、説明して「こうするものなの!」と言い張ってやらせる関係を「ごっこ遊び」と呼ぶ。
人生が全てごっこ遊びになっている人もいる。
「こうしなくてはならない」と、そんなこと現実の世界で決まっているわけがないのに、一人で思い込んで生きている人だ。
現実にそんな決まりなんてない。
「しなくてはならない」という決まりに沿うのが自然界の掟なわけがない。
もし僕が親に言われた通りに生きて、親に望まれた時の良い子になっていたとしたら、皆さんは「言われた通りにしていてこの人は偉いな」と思うだろうか?
僕を褒めてくれて、うまく行かない時は「あなたは偉かったのに相手は酷いねえ」と慰めるだろうか?
それでは、死ぬまで子供である。
それも皆がお母さん代わりである。
「まだお母さんに褒めてもらえていないから、まだ一人で続けているだけ」だ。
もうやらなくていい世界にいることはわかっている。
そんなことしている場合ではないし、しなくていいのは当然だ。
他人から見れば「なんでそんなことしてるの?」にしかならない。
それでも、母親の扱いに傷ついたから、その傷ついた気持ちの表現として外に出ても意地になって続けているだけなのだ。
「こんなにちゃんとやっている!」という生き方を選んでいるのは、「こんなにちゃんとやっているのに」という恨みなのだ。
「なのにお母さんは、僕を可愛がってくれなかった」
もう終わったことなのだ。それもわかっているのだ。
ただ、傷ついたから、そのショックを受け入れて「もう諦めて普通に生きて行こう」とするのが辛いのだ。
誰にもどうにもできないことなのはわかっているのだが、誰にもどうにもできなくても「この辛い気持ち」を自分でどうにもできないので、「こんなにきちんとやっている」をやり続けることにしたのだ。
自分さえそれを続けていれば、いつか親が変わってくれるという期待を捨てずに済むから。
親への期待を捨てる時、「自分は愛されなかった」と過去形で現実を受け入れなくてはならない。
もう終わったことなのだと。
終わったのだから、諦めるしかなくなる。
その現実に直面しなければ、「まだなんとかなる」と期待を持って生きていた方が楽なのだ。
我慢さえし続けていれば、親に言われたことさえし続けていれば、いつまでも心は親と一緒にいられる。
「自分が我慢してやり続けているから、大丈夫!」
と、自分都合で他人を動かせる気分を持ったまま、生きていけるのだ。
では、現実には自分が我慢し続けていることで、思い込んだとおりに「親は変る」のだろうか?
勿論答えはノーである。
我慢し続けようが、我慢しなかろうが、愛されなかった事実は既に結果なので、今後一切変わることはない。
過去に起きたこと、過ぎたことである。
もう結果が出ているのだから、後は自分がどうするかなのだ。