僕は今こうしてインターネットを利用した活動をするわけだが、色々と思考錯誤している。
そこでふと気になったのだ。
僕はあくまでも仕事なのでこうして書き物をしているが、勿論日常でこんなことはしない。
人に「こういうものなんだよ」と教えるからには、そこに「僕の経験上そうだと思った」なんてあやふやではなく、根拠がある。
そういう個人的に思っただけのことは「僕はそう思うなあ」程度で収めるもので、他人に「こうなんだよ」と教えることではない。
そこまで教えたいならば、教える立場になれるようにそれなりに知識を身に着けていかねばならない。
好き好んであれやこれやの学術をやりたい人はそんなにいないと僕は思っている。
どうしてそう思うのか?と聞く人がいるが、個人の口から出てくることは「個人的に思っただけのこと」だと勘違いしているのではないだろうか?
それとも、本人はそんな無責任なことを平気で人に言ってまわるのだろうか?
今の立場を考えれば、何をすべきかは決まってくる。
僕自身も「なぜそんなことがわかるんだろう?」と疑問に思ったから、心理も精神分析学も学ぶところとなった。
教える人たちは時間や労力や金銭を費やしてその知識を得て、教えるようになっている。
知りたいならば同じことを学べばよい。
「なんで?」と聞く人に以前は説明したが、同じ知識のベースがないのに「なんでそう思うの?」と聞いてくるのだ。呆れたものだと思った。
僕がどうしてそう言っているかを知らねばならないのではない。
それが必要な人が得ればいいだけだ。
勉強をしたことがないのか、子供が聞いているのか、よくはわからない。
同じ知識を得たいのかなんなのか、言っている意味もよくわからないが、日本語として立場や言葉の使い方も間違っている。
根本的に勘違いしている人も多いのではないだろうか?
この社会の理想が「良いか悪いか」を論じているつもりで話している人がいるように見える。
そんなものは「論じる必要がない」ので論じない。
「そうなった」は「そうなった」でしかない。
そこから生まれてくる社会的現象、またなぜそうなったのかは知る必要がある。
更に、その環境下の中でどう生きるか、自分にとって何が「良い」のかは各自考えて決めることだ。
社会の理想自体は何が良いか悪いかなど、論じる必要もないほど全員がわかっている。
必要な人だけ、やりたい人だけたまたまそれに沿った生き方をする。
それだけのことだ。
今の日本は昔と違い、自由に選べるようになった。
「こうするのが良いこと」と決められてそれに従うわけではない。
良いものも変わったが、各自考えて選ぶ時代となった。
社会の理想はそのままただ知るだけだが、その中で各自考えて選んだそれぞれの理想の人生がある。
それは当たり前のはずなのだが、個人が社会の理想が良いか悪いかを論じ(もう決まっているのだからそんなことをする必要はないのに)、更には良いことになったら社会の理想の方に従うものだと勘違いしているのではないだろうか?
大昔と同じだと思って、勝手に従われても社会は責任を取れない。
そんなものは勝手に自分で選んだだけなのだから、「従ったのに!」なんて言いだすのは我儘もいいところだ。
「選べるようになった」のだから。
その分、選択できるもの、自力でやれること、沢山増えた。
考えなくても「こうできたらいいなと最近は言われているよ」という形はある。
それがいいなと思う人はそうなればいいし、それは選べないまたは選びたくないならば選ばなくてよい。
社会の理想は「どうしてそうなったか」知るだけだ。
自分が決めたのではないのだから、必要性あってそうなったんだよな、ということはわかる。それだけだ。
「ふーん、そういう社会になったんだな。」
で、自分はどうしようかなあーと考えれば良い。
正に自分で切り開く人生。
そうした点では、自由度が高くそれぞれの才能や個性を発揮できる世の中になった。
それぞれがバラバラにしていいだけに、違う人もいるからあれこれ言ってくる人もいるだろう。
そんなものはなんでもないことだ。
自分がそれぞれ選んだのだから、違うものには「それがいいとは思わない」のは当たり前だ。
同じものを良いと思うならば、同じものを選んでいる。
または「いいなあー自分もそうしたかったなー」と思うだろう。
だからなんなのだ。
と不思議に思う。
個人の思想は自由だが、自ら人に話しかけて個人に対して発言したり、個人の意見を使って意見したりするならば、下手なことはできない。
例えば、Twitterならば一人でつぶやいているうちは自由だが、誰かの発言に対して意見するならば目の前にいても堂々と言える程度の内容である配慮が必要だ。
マナーというものがわからない人が「ネットなら誰かわからないから好きにできていいよね!」と言っていた。
別に見たくないならば見なければいいから、確かに一人で何を言っていても構わないかもしれない。
だが、対象者がいるのにそんなことをしていいわけがない。
その人が言うには「もし相手が怒ったとしても、ネットから消えれば平気だから」なのだ。
何が平気なのか。
「自分は何も危害を加えられない」という意味なのだ。
つまり、危害を加えたくなるようなことを、その人はやりたいと思う人なのだ。
そして危害を加えたくなるようなことを人にしたいが、やる一方で隠れたいということなのだ。
もっと単純化すれば、一方的に安全なところから人をいじめて嫌な気分にさせたい、ということだ。
その場では「そうなんだ」と聞いているが、勿論それっきり接しなくなった。
そんなすごいことを言いながら、「いじめって隠れてするのがいいよね!」と思って接しなくなっても、相手も気にしないだろう。
そもそも、そこまでして他人を批難したり監視したりするために労力を費やす理由はなんなのか?
先に書いた通り、僕は仕事だからやっている。
Refreherぷらすの方には、どこまで何を書こうかなと考える。
受け売りの教えなどどこに行ってもあるのだから、学んだことから生み出した独自のものでなくては僕がやっている意味がない。
変な人は「誰誰が言っていることは正しいか間違っているか」を討論したがる。
討論なんかできるわけない。
変な恋人は、「一般的に言われているこれが正しいか間違っているか」を討論しようとする。
それを最初に言った本人がいないのに、無関係な者同士で討論になるわけがない。
他人が言った他人の経験上の正しい、または他人に必要性あって良いとしたものを、全く関係ない人と討論して、関係まで決裂する。
余程その一般的思想を教えた人の大ファンだとしか、言いようがない。
最初から「自分の意志なく何かに従って生きるのが大前提」なのだ。
つまり、他人の褌で相撲を取る気しかないのだ。
何か勘違いしてるんじゃないの?と思った。
他人がなんと言ったかはいいとして、自分はどう思うの?という点だ。
これが「良いと思う」は実行前、それなりに人生を生きたら「これが良い方法だった=正しい」「これは失敗する方法だった=良くない」の結果となる。
人生の前半は、言われていたこと、または考えたことが実際にどのような結果になるのか実践する時期だ。
実践してみてどうだったのかは、それぞれバラバラの人生を歩むのだからそれぞれが結果を得ている。
バラバラの環境下で違う人がそれぞれの欲しいものを得るために進んだのだから、違う方法を取ることも当然だ。
そして欲しいものが違うならば、考え方や良いとすることが違うのも当然だ。
違うものが欲しい人と、方法の討論などできない。
更に最近思ったことがある。
好きな人に好きになってもらうこと自体は簡単なことだ。
相手の気持ちや背景や状況、相手側の全てを正確に見極め、その中で自分が「良い作用」をもたらす存在になれば良い。
好きになってもらうために自分の背景や気持ちを語る人がいて、それをナルシストと呼ぶのだがそれは「自分のことを好きな相手に対して、どうしたらもっと自分があなたを好きになれるか」を説明しているに過ぎない。
さすがナルシストと思える。
「してほしい」ことを「してあげたい」と思って欲しいわけだが、それ以前に「なんとかして好かれることをしてあげたい」と相手が既に望んでいる必要がある。
あまりにも自信満々なわけだが、必死で説明しても正当性を主張しても、どうあっても向こうがなんともしてくれないならば、単に「そこまで相手が自分に好かれたいと思っていない」だけだ。
自信がないと口にする人の方が、自信がある行動を取る。
本当に自信がない人は、相手に好かれるように行動する。
あなたが人を好きになるときに、自分のことを考えてくれて、自分の状況や気持ちに対して良い作用をもたらす人を好きになるだろう。
あなたの状況や気持ちを無視して、向こう側の状況や気持ちを説明して「~してくれ!」と求めてくる人は迷惑でしかない。
とても簡単なことだ。
好かれたい、と言いながら、「~してほしい!」を前面に押し出す人がいる。
「好かれる」ことを捨てた人だ。
また更に、「好き」だから「~してくれる」というマニュアル人間もいる。
実際に向こうから好きになられた時は、色々なことをしてもらえるかもしれない。
だが相手の考えや発想、そして状況があるから、「こうしてくれたら嬉しいな」なんてことをしてもらえることはまずない。
相手なりに何かをしてくれるものだ。
勘違いしている人は、「モテたら望んだことをしてもらえる」と思っているのだろうと思う。
オーダーを聞いてくれる召使ができたのではない。
好きになられたのだから、相手が「してあげたい」と思ったことをしてくれるだけだ。
その「してあげたい」が自分の「してほしい」にピッタリ合う人が、相互性が成り立った人だ。
してあげたい と してほしい の場合は、行動するのは「してあげる側」となる。
故に、「してほしい側」は何もできないのだ。自然に任せるしかない。
「してあげる側」としては何かしてあげられるが、それはやりたい相手にのみだ。
してあげたくない人にはしてあげない。
行動はする側に選ぶ権利があるのだから、してほしい人に一切の選択権はない。当たり前だ。
自ら要求してしまったら、それは「してもらえたこと」ではなく「やらせたこと」になってしまう。
僕も色々と女子からプレゼントをもらったことがあるが
「これ欲しかったんだ!」
なんてものをもらったことは、数えるほどしかない。
十回に一回も起きない。自然にしていればそんなものだ。
ただ、「思ってもみなかった嬉しいこと」はある。
うまく行く恋愛において「嬉しいこと」は全て「思ってもみなかったこと」だ。
自分が「この人が好き」と人を好きになったのだから、相手が考えてくれたことは嬉しいことが殆どに決まっている。
その人が好きなのだから。
人格が好きなのだから、その人がしてくれることは嬉しいことばかりだ。
自作自演で何かを「やらせている」人は、実際のところ相手が自発的に何かをしていたら、どんな恋愛になったのかすらわからないのだ。
ただ、今まで思い描いていたことが起きたか起きないかということしか考えない。
だがそんな人に限って、「こんな人がいたらいいなあ」と思う異性とはまるで違うのだ。
当然な気もするが「私の理想になってよ!」と、誰かに求められたい人はまずいないだろう。
理想の人を探している時点で、誰の理想の人にもなれないのは当たり前だろう。
こと人間関係においては、相手が何をしてくれそうな人かできそうな人かはどうでもいいのだ。
「自分でも何かしてあげられる人」が自分に合った人なのだ。
自分がしてあげることを嬉しいと思う人。
自分の性格が好きな人。
今のままの自分でいいと言ってくれる人。
それが最高だと思う人は多くいるだろうが、つまり自分自身が相手に対してそうなれる場合が良い関係になる「可能性がある」のだ。
この人がしてくれることが嬉しい。
この人の性格が好き。
今のままのこの人でいい。
と思える相手が自分の好きになる人であって、偶然にも相手もそう思ってくれたならば、両想いということになるのだ。
ロマンの欠片も無い人は、両想いを「操作して作ろう」とする。
乙女チックな夢も見られない人だ。
不安になったりドキドキしながら待つということはない。
どうなるか一切わからないから夢があるのであって、「どうしたら思い通りにしてくれるか」なんて一人の時間に画策し始めたら、恋愛ではなく戦争だ。
もっと平和な関係の方が好きな人は、そんなことはしない。
後から疑われたりバレたりしたら争いの種にしかならないようなことを、仲良くしたい人はしない。
勿論のことだ。
これから仲良くしていきたい、愛し合いたい人を相手に、今後バレたら困るようなことは、自ら作り出さないものだ。
人が気になるのは過去だが、それは過ぎたことなのだからしょうがない。
ただ、出会ってから「ばれたらまずいこと」なんてしないのは当然だ。
もし相手と本当に仲良くしていきたいならば、の話だ。
そうでない場合は、その限りではない。
人は本当の目的を自らに誤魔化すことで、自分がやろうとしていることとやりたいことを勘違いして生きるものなのだ。
自分がやっていることと、「こうなりたい」と言っていることが矛盾している。と子供の頃に気付いた僕は天才だったのかもしれない。
かもしれないが、僕が思うにそれは考えれば誰でもわかることだと思う。
「僕はこうなりたいのに」
ならば今までの自分の行動は、本当にそうなれると思える方法だろうか?
真剣に考えるだけで直していける、うまくいくことだ。
本当にこれから得られるものを得たい人は、真剣に考えるだろう。
僕の場合は呆れたことに、真剣に自分自身の行いをどうするかなど、欲しい欲しいと願っているわりには全く考えなかったのだ。
きちんと真剣に考えれば、大抵のことはなんとかなっていくものだ。
僕はよく「みんな自分の人生を大事にしてほしい」と言う。
本当にそう思っている。
僕も私生活は私生活で、問題も多々あるが楽しみもある。
私生活では楽しいことは沢山あるのだが、「これは何かの役に立つだろうか」と考えて時々ブログに書いている。
人の役にも立たないことは、いちいち見せるものではない。
特に誰かとの思い出や、自分自身の楽しい時間のことは、人に教えたら減るのだ。
大事なもの、良いものは、そっとしまっておいた方がいつまでも良いものとして育っていってくれるのだ。
好きな人との関係でも、愚癡を言いたくなることはある。
だが、なんだよ、全く!と不満に思うことがあっても、好きだからそんなこと他で口にはしない。
好きだから目の前でしか言わないのだ。
好きじゃなかったら、目の前で不満など言えない。
嫌いな人の不満なら、他で言えるから気にならない。
好きな人に不満が出てくるから悩むのであって、それでも好きだから結局は考えた末素直に相手に言うのだ。
すると、こうして書きながら脳裏に思い浮かぶ過去の映像に、それだけで胸が温かくなる思い出ができるのだ。
好きな人の悪口だけは他人に言えないなと思う。
好きだからだ。
好きな人を本当のことを知りもしない人に悪く思われたくないし、それを思わせるのが自分でありたくない。相手にとって害ある存在になりたくない。
好きな人を遠ざけることになるから、相手を孤立させたくない。
そんなことをしてしまって、孤立した相手に救いの人が現れたらあっと言う間に消えてしまうだろうから。
好きな人を嫌いだと他人に思われたら、他人がどんどん悪くなる方に押し上げてくれて、周りはそれを自分が望んでいると勘違いしながら、別れの方に手を貸してくれるかもしれないから。
周りが練った作戦を実行してしまって、もし駄目になったら後悔してもしきれないから。
全部自分で決めて実行したのでなければ、失敗した時に後悔するから。
だから人生そのものも、後悔したくないので自分で決めて実行するのだ。
「自分の話」と言う噂話だけを聞いた、相手を知りもしない他人が考えた方法を実行し、そして愛する人と破綻していったら目も当てられないなと思った。
当然そんなことは経験がないが、もしそんなことになったらどうにもならないなと思った。
うまく行きたかった意中の人はいなくなる。
協力のつもりでやってくれた友人などにも不満は言えない。
仕方ないので「それでよかったふり」「そうなりたかったふり」をして生きるのだろうか?
そんなことになりたくないが、そもそもそんなことまで考えなくても常に自分で考えて実行してきている。
だからいいのだ。人生は。
本当に愛する人との関係や思い出は、失うこともないのだから。