これまで、いくつか確認したいことがあった。
経験の浅い僕が確認しなくてはならない、実際に体験しなくてはならないことは沢山ある。
もうあらかた確認し終わった。
僕の想像をはるかに上回る結果だった。
コロナのことはいいきっかけだったのだろう。
母も亡くなり、僕も今日々が通常通りではない。
数年前からの予定通り、また師の進め通り、僕は教えていくだけに専念して行こうと思う。
今後は、オンラインの配信や書くことが中心になるだろう。
僕は神経症というものがどんなものなのか、実際に体験しなくてはわからなかった。
僕自身が正反対に向かう人格なので、全く理解できていなかった。
また、一般的にどう理解されているのか知りたいこともあった。
常識についても知りたかった。
何をどう誤解したのか知りたかった。
現実を直視すればするほど、心理的には健康になる。
また、社会的なこと。苫米地博士が言う、お金教信者。
世界一の拝金主義国家となったこの国がなぜここまでおかしくなったのか。
それも知りたかった。
なぜそこまで金に拘るようになったのか。
離婚できない奥さんの多くが、経済的自立が困難であることを理由に離れられずにいる。
本来ただの役割であるはずの力を、支配力として使われてしまうのだ。
マネーパワーである。
悪用することのできる力というものがある。
そのひとつがマネーパワーだ。
日本人は金というものの力に魅了されてしまった。
金さえあれば、という社会になっていくのは、金があることを支配力に変えてしまう人がいるせいだ。
離婚できない奥さんは、この見えるものが持つ「見えない力」によって支配されている。
金という力は、非常に簡単に欲求を満たすことができる力である。
だから恐ろしいのである。何もかも金ありきなのだから、一旦いい思いをしてしまうと、金が手放せなくなる。
日本は元々みな親切で温厚である。
海外の人が日本に来て、サービスの良さや親切心に感激する話はよく聞く。
だが、今はそれが強要になってきている。
お客様は神様という考えを、間違った方に使っているのである。
苫米地博士は宗教についてそれを指摘した。
金を出して神様に言う事を聞かせようとするのは、神様を奴隷扱いしているのと同じだ、という指摘である。
その通りである。
金を払ったら言う事を聞いてくれる、そんな神様はいない。
二十歳の菩薩道、と僕は呼んでいるある青年がいる。
ユーチューバーとして活躍している、スーツ交通という男性である。
どうしたらその年でそこまでの考えを持てるのか、と驚くほど、自らの経験からより良い発展を遂げている。
彼は鉄オタという立場で配信をしているが、サービスを提供する側に対して客があれこれとケチをつける行為について否定的立場を取り、お客様は神様、という言葉について、こう述べている。
お客様は神様だからこそ、神様は小さなことで腹を立ててはいけない。
神様はもっと寛容なものだ。
彼は、自分の立場についてよく理解している。
彼の言う事は最もなのだが、これがわからない人たちについて、なぜなのかを考えた。
「お客様は神様です」
というフレーズは、ただのキャッチコピーである。
サービスを提供する側の言葉である。
それだけの気持ちを持って丁寧に尽くそうという姿勢である。
しかし、これは受け取り側が「俺たちは神様なんだ」と受け取れば支配力にされてしまう。
悪用されればの話である。
スーツ交通と称する彼は、マネーパワーを全く悪用しなかった例である。
「金を払う」という立場を利用しなかったのだ。
金を払う、という立場。
それはサービスを受ける側であり、労働させる側である。
労働する際は、金をもらうために働く。
それだけが理由ではないが、金という代償が発生するから職業なのであって、それがないとボランティアになる。
この場合、立場としてはサービスを提供する側であるが、形の上では一旦集まったお金を上から配分される形になる。
万が一、職場で身の程を弁えぬ輩が頂点に立ってしまったならば、集まったお金を自分一人のものだと勘違いしてしまうだろう。皆で得たものを配分する役目にいるだけである。
そのマネーパワーを使い下の者たちに服従を強要するならば、それは労働者の奴隷化である。
ちなみに、サービス業でなくとも何かを生み出し、人々に提供することに変わりはないのだから、立場としては同じである。扱うものの違いがあるだけで、本質的には社会のためになんらかの役割を担っている提供側である。
そしてその労働を経て賃金を得ると、今度はサービスを受ける側として金を払うことになる。
金を払う側になることで、マネーパワーを使える側になるのだ。立場上サービスを提供する側より優位に立つ「ことも可能になる」のである。
お店では「社長さん」と呼ばれるかもしれないが、それはあくまでもサービス内での話である。
マネーパワーによって納得がいかない労働に堪えている人は、この「サービスを受ける側になった際に感じる快感」がやめられなくなっているのではないだろうか。
我慢して労働していれば、金を払ってよい扱いを受けた時の快感はより強くなるだろう。
これが悪循環を生んでいるのではないか、と僕は考える。
マネーパワーによる奴隷化の加速を生んでいる。
強い力を持つ者は、その使い方を誤ってはならない。
そのような教育が、昔はあった。
少なくとも武士の教育の中にはあった。
お百姓さんの方が偉いんや、という僕の家で受けた教えもそれである。
士族にも色々いて、それは藩によって違う。優秀な一人がいて、一代限りの雇われ武士の場合もある。加賀藩においては、勘定役に雇われ武士が存在した。
僕の家は勘定役ではなく、「武士が金勘定をするな」とよく言われていた。物事をなんでも金銭に換算することは、品性下劣と教えられてきた。
その中でも「力を維持する状態」を継続していた一族には、少なくとも「力を持つ側の態度」に関わる教育があったと推測される。
僕の家がそうだったからである。
それなりの立場にあれば、この教育は徹底しなくてはならないと僕は思う。
力あるものが弱者から吸い上げる真似をすると、全体は一気に衰退していくからである。
江戸時代を成り立たせていた社会の教えは、全体の繁栄のために今も必要なものである。
西洋貴族化された社会になると、この思想は一気に崩れる。
それが問題だ。
僕が確認したところ、そもそも家庭内教育を全く受けていない家の人が多いようだ。
僕が教わってきたものは、一般的に「家訓」と呼ばれるもののようだが、親が子供に家の中で教えることを「家訓」だと思うことはなかった。
昔からそう教えているのだとだけは知っていた。
だが、その内容には「家と外の区別をしろ」というものが多くあった。
「家の中でなら何があっても生きてはいけるが、人様に恨まれるようなことになれば一族が滅ぶ」
そして、現代社会の多くの人は、一族を解体し、人様の恨みを買い、マネーパワーなしでは生きて行けない生き方を選んでいる。お金の奴隷である。
「外に出てからの作法」を学んでいない。
これは家の中で子供の頃に徹底的に教育されるが、一族が生きるためなので、外部に漏れていくことはない。外に出れば全ての人が「よそ様」であるのだから、他人の前ではただその教えを実行し、自分の身や一族を守るのである。
身を守るとは、「人様と敵対しない」ということである。
自らが敵対しようとしないのである。戦うという姿勢は万が一対立してしまった際に必要なだけで、敵対することがなければそれは必要ない。
他人は自分次第で敵にもなり味方にもなる。だから徹底的に「他人と敵対しない生き方」を教えていくのである。
万が一の時のために、誇りを守る覚悟も決めさせる。
切腹の覚悟である。
切腹の覚悟は、同時に戦う覚悟でもある。
武士が刀を抜く時は、死を覚悟した時だけである。
できるだけ抜かない武士の方が、強い武士なのである。
敵対しないためには、己の中での戦いに勝利している必要がある。
そのための精神鍛錬、精進である。
金という力は、使いようによっては支配力になってしまう。
相手の生活を揺るがすからだ。相手の生命の維持に関わることである。
それを使って行うのが、上司のパワハラであり、夫の経済的DVであり、また客の過剰なクレームや要求である。
「金を払わないぞ」
という力を支配力に変えるということだ。
人の命を軽んじる行いである。他人のライフラインを握ろうとするのだ。
なんらかの要求と共に、金銭のやり取りが打ち切られる結果を提示する。
これでハラスメント成立である。
この時が「戦わなくてはならない時」なのである。
ここで精神鍛錬の成果が発揮されるのである。
僕はこのマネーパワーを使った支配が嫌いである。
武士の生き様が正しいと思うし、それで世の中は良い周り方をすると既に知っている。
昔から続くやり取りをほんの少しだが、幼児期に見ていた。
あちこちの店に行き、買い物をする際に話をする。
買う側が頭を下げるのである。
お百姓さんの方が偉いんや、という考え方では、「売ってくれる人がいるから買えるのだ」という考えになる。
労働しているのは、売っている側である。
だからこそ、買う側は低姿勢なのである。
上に立つ者、この場合は買い手側が頭を下げるのである。
マネーパワーを使っているのだから、自分たちが頭を下げなくてはバランスが取れないのである。
横柄な態度で接したり、また媚び諂う態度で売ってもいないものを要求すれば、それは支配の意図となり対立を生むだけなのである。
前者は泥棒の家の者、後者は乞食の家の者。僕の一族の中ではそう分類される。
どちらも「力を持つ器ではない」のである。
金を払うことは、株を買うように「その店を応援している力になるのだ」ということを理解する必要がある。
その考えがない、力を持ったことが一度もない家では、金というものの力を誤解してしまったのだと思う。
元々九割が農民層である。
誤解している人がいるが、だからと言って残り一割が今僕の言っている「武士」ではない。
その中の一部。つまり全体の数パーセントだけが実際に上と下を繋ぐ維持を教えられた人々である。
僕の一族自体は、僕が残ったものから確認するに、最低でも加賀藩に利家公が入城した当時から続いている。少なくとも、そのくらいの長期の維持を可能にした教えだったと考えられる。
家庭内教育は現代社会で言うところの「エリート教育」ではない。
外に出てからの作法を身に着けさせるものだ。
そうしたものさえ、例えば僕がたまたま士族の家だからそれを受けたと言えば、「偉い人の家だからだ」と思うような思い込みをして、自分が思う「すごい人がやってそうなこと」を連想するかもしれない。
内側を知らないからである。
その立場はなってみないとわからない。
なったことがない人は、外側からの勝手な想像で中身を決めつけるだろう。
元々、力があるという立場を知っていた家の人間の中に、今もその力を持つ家、そしてない家が。
その立場を知らない家の人間の中に、今は力を持つ家、そしてない家が。
大きく分けるならば、四種類ある、と言えるだろう。
僕の家では、外に出た時に金をケチるな、と言われていた。
人との交流の場の話である。
人様と席を同じくする時は、その場での交流が大切。
人前で金勘定をするような真似をして、場を台無しにするようなことがあれば、人間としての品性を疑われ次はもう呼んでもらえない、という話だ。
一時の微々たる金を惜しんで、人様の信頼を損なえば後々の損なのだ、という教えである。
こんなものは自分の家で教わると「教え」とすら思っておらず、やはり「常識」と考えていた。
だが、このような「すっかり忘れていたけどよく言われた、人様から教えられるようでは困る常識」を、一切教えられていない人もいるのだと知ったのだ。
よく見る光景のひとつがある。
この教えは「僕が少しだけ分けるもの」なので、覚えておいて欲しい。
人様が会計や手続きで何かを書いている際に、近づいてはいけないというものである。
これは「疑わしい行い」なので、してはいけないのである。
人様が内内のものを出す場である。そのようなことは、作法なのである。
疑われることを避けるためにそうするのであって、疑われることをしているかしていないかとは、全く関係ない。
これが、「身を守るための作法」というものである。
会計の際ならば、人様が財布を出す場面である。
そのような場に近づかないようにするのは、人の財布を覗き見るような輩だと誤解されないためである。人様の大切なものである。そのようなものを出す場にやたらいることは「危険」なのである。
相手の財布に大事な何かが入っているかもしれない。
人様の懐をやたら気にするような真似は、無礼な行いである。
近づいておいて疑われたら「そんなこと思ってない!」では泥棒の行いになってしまうのである。
盗人猛々しいという言葉がある。万が一疑いをかけられた際は、そのような行いを取った自分に非があるが、それでももしそんなことになったならば、猛々しく反発することで更に疑われることになる。
そんなことにならないよう、トラブルを避けるため作法を身に着けるのである。
また、そのような疑いをかけられた時は、即非礼を詫びるのである。
これもまた、トラブルを起こさないためのものである。
自分の行いが無礼かどうか区別もできないならば、それは論外である。
「他人に教えてもらえることですらない」のだ。だから家庭内で教えるべき教育なのである。
他人様と争って良いことはない。
自分は悪くない!と相手を批難すれば、人様の恨みを買う。
恨みを買った人間は、その後仕返しをされるか、されなくても良くしていただくなどあり得ないのである。
ここで自分の「可哀想な事情」をダシに許されようとしたら、それは「乞食の家の者」の所業である。卑屈になることで免れようとする、人としての誇りを捨てた行いである。
「既に他人様の中に一人でいるのだ」という区別が必要なのだ。
家族の中では家計も同じであるが、人様が相手の場合は違う。
一人で外に出ることになれば、争いを起こさないように生きねばならない。
一族の命運にかかわるからだ。
そのようなことを教育するために、家の中でもその作法を実行させる。
それが、「家庭内教育」なのである。
明るく羽目を外したり、冗談を言って笑い合うことも大切だが、それ以前に守っていなくてはならない「他人様と付き合う時の作法」なのである。
そのような当たり前のことを知らずに、ただ形だけ「優等生」になっていても意味はないのである。
内と外の線引きもわからないような人間は、「人様の内側に入れてもらうことはできない」のである。
既にできているから、「この人は安心だ」と信用を得られるのであって、現にできていないならば、どんな理由があっても人様に安心していただくことはできないのである。
人としての品性を磨くためには、家庭内教育は絶対必要なのである。
外では決して教えてもらうことができないことなのだから、家を出て自分の家の看板を背負うからには、外に出た時既に「〇〇家の人間」として振舞うのは当然なのである。
僕は、そもそも日本の階級制度について、専門家であっても誤解して語っている人が多いと思う。
正しいと思えることを言う人には、武田邦彦先生や、苫米地英人博士がいる。
「家の中にあったもの」を知らない、つまり「無かった人」は、外から見て西洋と同じだったと誤解しているようだ。
書物で学んだとしても、実際それを経験している家の人間かどうかで話は違ってくる。
歴史は常に、勝者のもの。残される記録は強い者にとって決して都合が悪いものとはならない。
だからこそ、記録だけいくら学んでも「想像できるだけの経験」が無くては役に立たないのだ。
人様が自分の家で行うべき教育をしてくれると思うのは間違いだ。
そもそも自分自身が他人に信用されるだけの振る舞いをしていないならば、自分自身が警戒されるだけである。
「自分がどんなつもりか」は関係ない。
やってしまったらお終い、ということがある。
知らなくても責任がないわけではない。
だから家庭内で教育されるのだ。
「知らなかった」で済むのは、「親が責任を取ってくれる」からだ。
これが通用するのは、保護者同伴のうちだけだ。
身の程を知らぬということは、大変なことなのである。
身の程を弁える、という意味を誤解している人は、偉い人の言う事を聞くのが正しい、と思っている人である。奴隷根性である。
それは上に対しても言えることで、例えば会社は皆の力で成り立っているのに、自分が社長だからなんでも許されると思っているような輩にも言えることだ。
下の者の恨みを買いながら服従を敷いて働かせるような会社は、栄えない。
一国一城の主となるには、それなりの人徳が必要である。
稲穂は実るほど頭を垂れるもの
それは、上に行けば行くほど謙虚な姿勢が必要であることを指している。
労働者にはした金を拾わせて雇うような真似は、労働する者に対する侮辱であり、下の者たちから誇りを奪う行いである。
このような真似をする上の者は、自分自身が未だに支配欲を満たしたい誇り無き人間なのだ。
支配欲を満たしたい人は、とかく傲慢である。
自分の都合で優遇されようとすることを「諦めない」のである。
世を乱す行いである。
差別は良くないが、区別はしなくてはならない。
区別が無いならば、違うものを同じと扱い、誰かが迫害されたり虐待されたりする結果となるからだ。
昔の農民は、金を持つということは殆どなかった。
誰もがマネーパワーを使うようになったのだから、誰もが上に立つ人間になる場合があるのだ。
自分が如何に自信がなかろうが、客として行けば自分はサービスを受ける側である。
提供する側には提供する側の、サービスを受ける側には受ける側の、作法というものがある。
いつまでも子供でいたくとも、現実には子供ではない。
親もそうだが、先生と言う名を小学生の頃と同じように扱う人もいる。
義務教育時の先生は、僕のような先生や塾の先生たちとは違う。
また、医者も弁護士も先生と呼ばれるが、それもまた違う。
大人になれば自分の目的に合わせて必要なものを得に行くのだから、自分が不要だと思うならばやめるだけでいい。
僕は常にいくつかの店を選び、付き合いを続けている。
ご機嫌伺いに行き、世間話をして品物も買う。
これが応援である。
この人は良い女将さんだと思った店で長く通い良くしてもらっていたが、いつも少し多めに支払っていた。個人経営だからできることである。心づけである。
昔からの習わしだ。
マネーパワーを使う方が強い立場になる。
カウンターの向こうにいる時、女将さんは僕には気を使ってくれる。
それを見越して「この人は良い人だ」と思うから通うのだ。
「金が無くて困った時は、これで飯を食わせて欲しい。」
と言って少し多く支払う。そうしないと、向こうが受け取れないからだ。
それを支配力に使い、「こんなにしてきてやったんだから」と言い始めたら「泥棒の家の人間」なのである。親切に対して見返りを要求したら、それは脅しである。
これを人様にやれば、信頼は失墜するのだ。
女将さんは、あくまでも飲食店の女将さんである。
その代わり、急遽場が必要になった時に電話一本ですぐに用意してくれたことがあった。
その時はその時で、僕は別の集団の中にいて、その時の集まりのために力を尽くさなくてはならなかった。
そうして協力を得て成り立っているのだ。
後で「助かった、本当にありがとう。」と礼を言った。
「いつも良くしてもらってるから、いいのよ。役に立てて良かった。」と快く力を尽くしてくれた。
女将さんには女将さんの家族がいて、店の女将さんをやっているのは社会的役割である。
要求できるのは、あくまでも「相手の社会的役割の範囲内」である。
それ以上をしてもらえるのは相手の親切心でしかなく、施しと同じなのである。
施しの強要をすれば、それは脅迫となる。
金を持つ人間は、マネーパワーを知らなくてはならない。
近年では仏教や寺の在り方もおかしくなってきた。
拝む方も信心はなく、仏や坊主を崇拝することで「だからなんとかしろ」という強要になってきている。
恐ろしいことである。
「お前ならできるだろ」という脅迫は、よくあるいじめである。
他人に完璧を求め、その代償として先に何かをする。
泥棒の家の人間の行いである。
バレたら自分の致し方ない事情をつけて逃げるのが、乞食の家の人間の行いである。
そして、そのような下卑た生き方をしないよう、「人間に教育する」のが家庭内教育である。
人は放置すればただの動物と同じである。
言葉も教えない、なんの教育もしない、で放置すれば、人間であるという行いさえできない。
人間社会に送り出すのだから、人間として教育するのは親の役目である。
それは決して自分たちだけが社会で優遇されるためでも、偉くなるためでもない。
いずれは他人「だけ」の中で生きていくのだから、人様と争うことないよう、協力して幸せに生きていくためなのである。
苫米地英人博士の言う事は、最もだと僕は思う。
例えば離婚できない妻は言いたいことも言えずにいるが、実際に離婚に至るかもわからないし、生きて行けないということはない。
お金さえあればすぐに離婚する、という妻は多い。
夫を恐れているのではなく、お金の力を恐れているのだ。
人が本当に恐れているものはなんなのか?
現代社会では、お金である。
お金さえあれば幸せになれる。
なぜならば、自分が服従しているそのマネーパワーを使って、人を黙らせて優遇された立場を維持できるからだ。
金を払う立場にありながら、弱者になろうとする。
それが脅しなのである。
「良い人を装いながら、人を支配する」のである。
金を差し出す以上、「そんなつもりはありません」では済まない。
それこそ、悪徳商人のような真似なのである。
この資本主義社会にならずとも、金を払う立場になる意味が、理解できている人は理解できている。
マネーパワーに支配され服従を強いられた人間も、他でその力を使うならば同じ穴のムジナだ。
向こうでの被害を理由に、こっちでの支配をしようとする。
それが卑怯な輩である。
そのような人間は、まず人としての在り方から考えねばならないだろう。
その時その時、自分の立場は変わる。
「私」という存在は社会にいないので、常に自分はなんらかの立場を獲得している。
その立場の力をよく理解し、上に可愛がられ、下の者を大事にすることで社会は平和になるのだ。
「お金なんてあっても」「自分はお金にはこだわらない」
言葉としては格好がいいのかもしれないが、本当にそうなれている人間など殆ど存在しない。
支配とはなんらかの力によって強い立場を獲得し、人間の自由を奪う行いである。
人は自由を奪われれば、確実に不幸になる。
自分が人間を好きに使いたいと思えば、必ず誰かを不自由にしようとし、人を不幸にするのだ。
自分の中でどんな綺麗ごとを理由につけようが、人間の自由を奪おうとして天国に行く人はいない。
親の教えはともかくとして、自分が今置かれている立場、つまり自分自身が今社会に対してどんな立場でいるのかくらいは、自分で考えて自覚していないと困る。
お客様は神様です。という姿勢でサービス提供側にいることを悪いとは思わない。
だが、サービスを受ける側が提供側の誇りを損なうような真似をすれば、サービスをする側も提供をやめてしまうのだ。
「そこにないと困る」からこそ、買いにいく側も相手を応援する姿勢で感謝をして頭を下げるのだ。
快く働きたいならば、快く働けるような場を用意するのは客になった時の使命である。
客になった途端に我儘になり、丁寧な対応をしてくれる店で無いものを当たり前のように要求する。
それはもう金の支払い外の話である。
そこでサービス提供終了である。
そのような人が多いほど、大きな力を栄えさせ、個人の力を消していくことになるのだ。
個々にやっていることは、大きな力には敵わないことも多い。
だがそれは応援する側の責任でもあり、人を育てるのは個人だけではなく、社会そのものでもあるのだ。
提供側の際の誇り、提供される側の際の誇りがある。
配慮しなくてはならないのは、相手の誇りを貶めないことであり、人の誇りを貶めながら満足する人は、傲慢さが増すだけなのである。
モラハラをしている人は、本当に良いことをしているつもりなのだ、と加藤諦三先生が書いておられた。
「良いとされる言葉」を言えば良いことをしている人になれるのではない。
その言葉を使う時、自分が一体何をしているのか、それすらわかっていないのがハラスメントを当たり前にやりながら、自分が正義だ被害者だと妄想している人である。
一言で言えば、バカなのである。
「人様にはこうしろって言われたのにね!」
と他人様に言いながら何をしているのか。
「人を思いやらなきゃいけないんだよ!」
と他人様に言いながら、自分は今誰に何をしているのか。
教えは身に着け実行するのみ。親に教わったならば、自分の子供に教えるのみ。
他では実行するだけなのだから、人様がそれをできていない時は「できていない人を見た時、やられた時の作法」に乗っ取って、自分がまた実行するのみなのだ。
自分が存在していない時はない。
「存在しない時間はない」のだから、一人の時以外には常になんらかの立場としてあることを肝に銘じ、常に自分が自分として誇りを持てる行いを実行しなくてはならない。
自分自身の価値を誰が一体高く扱ってくれているのか。
誇りを大事にしてくれる人が誰なのか。
真実を見抜かなくてはならない。
金銭的価値が気持ちを換算しているわけではない。
僕の場合ならば、有料会員として遠方でも長くご支援くださる方々を最も価値を高く扱ってくれている方々と考えている。
至らぬこともあり、自分でも教わることなく挑戦していることなので、どうか長い目で見てご支援いただきたい、と最初に述べて始めたことである。
ご支援くださる方々の住む土地にできるだけ足を運びたいと思っている。
同じ立場の全員にできないことを求められるのは、価値を安く扱われている時である。
願望が要求化するのが神経症者ではあったとしても、それがビジネスの一部である限り、マネーパワーを使った脅しになるのだ。
現代社会の人々は、黙って金を渡し、その力の威力を無意識に自覚しながら支配と服従を繰り返している。
これはその昔日本が行っていたやり取りではない。
融合されて、悪質なものとなった。
このやり取りをするならば、アメリカ人のようにハッキリ何かの際に「いくら?」と即金銭の話をするべきだ。
それを良しとしないならば、見えない力を使う立場をよく理解することだ。
人は弱者の時は被害者にもなるが、立場が強くなった際の態度の方が重要なのだ。
「文句を言わせない立場」になった時、その人の人徳が如何なるものかは発覚する。
そしてそれはどこに行っても誰であっても、この社会では必ずなるものなのだから、自分自身の行いに気をつけねばならないのである。
僕は何年も前に、恋愛的要求をされ「僕はホストではない、そのような要求は他のところでしてくれ」と仕事の場で述べたことがある。
今は家の中で夫に虐げられた妻が、ホストに入れ込むことがよくあるのだと聞く。
ホストクラブで親切にされて「お金のためにやってたなんて!」と嘆くのもどうかと思うが、実際、キャバクラに行きそこでの対応の良さに「恋人になれるかも」と勘違いしていたオッサンが早朝のレストランで「色よい返事が来ない、あんなこと言ったら期待するに決まっている」と男友達に嘆いているのを聞いたことがある。
男友達は呆れたように諭していた。
「お店の女の子なんだからさあ。」
男は納得がいかないようで、「でもこんなこと言った」と期待できる言葉を女の子が述べたことを理由に、たかが二十歳の娘が言ったことを酷い冷たいと批難していた。
たかが二十歳、と述べたのは、それを嘆いていた男がどう見ても六十代だったからである。
僕はその時、隣の席で精神分析学の勉強をしていた。
聞きながら立場と勘違いの内容、人格を分析していたので、よく覚えている。
このような男は「妻だから言えない」がわからない男なのだろう。
「その立場なら今の自分にどう対応するか」がわからない。
区別がないのだ。
すごい夢を見ている男がいたものだ、と横で聞きながら呆れていた。
僕たちの先輩は、このような発想のまま社会にいるのか、と思うと、若輩として今後の困難に気が重くなったものだ。
幼いころから、「この子はできる子だから」で押し付けられてきたものの、流石に社会でそれは困る。
天才ほど一人ではなんの役にも立たない人間はいない。
最初の一点を生み出すことはできても、それ以降ができないのだから。
だからこそ、聞いて理解できる人、それを形にする人、形にするため実行するひと、と役割があるのだ。
ナルシストの「欲しい」はおもちゃを欲しがる子供と同じである。
外から見て価値あるものを、自分のものにしたがるのだ。
だが、相手が人間であれば人間として扱わねばならない。物ではない。
そして物や金も、どこから来てそこにあるのかを知らねばならない。
「今いきなり目の前にきたんやない。なんもかんも、全部お前の目の前に来るまでに色んな人の力があってそこにあるんや。」
幼い頃教わったことである。
しかし、如何にそのような教えを受けた人々でも、自分が誇りある扱いをされなければそのうち嫌になるだろう。
だからこそ、誇りある人間の社会を望む人は、断じて屈してはならないし、人を貶めてはならないのだ。
侍の魂は、風前の灯火である。
僕も時々諦めそうになるが、遠くで頑張っている人々を見るにつけ「俺もやらねば」と思えるのだ。
人に服従しないためには、「諦める」ことが必要である。
自分に服従を強いる人は、必ず何かを同時に差し出してくる。
それを諦める。
あらゆる欲を諦める。
「その人から得ることを諦める」のだ。
屈してしまい惨めになるならば、何かが無い不安を突かれたのだ。
自分自身の弱点を突かれたのだ。
自分自身の弱さを知り、不安と向き合うことで自尊心を保っていけるのだ。
現実の世界では、見えるものと見えないもの、全てセットで「渡されているもの」だということを忘れてはならない。
誇りを貶めない受け取り方は簡単に教えることはできないが、よくわからないならばとにかくトラブルを避け、自分の誇りを貶めない生き方をすることだ。
とはいえ、その作法たるものも教わったことがない人が多いと知ったので、人として生きる作法を僕も教えて行こうと思った。
コロナのことがあり、僕も予定をだいぶ変更しなくてはならなくなった。
今はみな困っているが、この社会に対してどう生き残りながらお役に立っていくかは常に考えねばならない。
形態を変えていく際は都度前もって告知をするが、オンラインについては今まで通り、またはそれ以上にしていくので会員の方は安心して欲しい。
侍はここにいる。まだ残っている。
侍は魂を受け継いでなるもの。
例え社会のかたちが変わっても、受け継がれる教育も魂も、変わることはない。
なんのためにあれが存在していたのか。
その本当の理由を知る人が、想像がつく人がいなくなった時に、侍の魂も消えるだろう。
僕は社会の仕組みや政治的なものに強い関心を持っている。歴史は真っ先に関心を持ったことだった。
なぜかわからなかったが、お役目を考えれば政治を行っていた家の人間の一人なのだから、それも当然なのかもしれない。
神経症的行いの中には「他人に優越したがる」というものがある。
しかし、これほど危険で損な行為はない。
張り合う限り、自分が完璧でなくてはならない。
親の教育も完璧でなくてはならない。
戦いになることは必至なのだから、戦う覚悟もしていなくてはならない。
勝つ、ということは「負かしてしまう」ということなのだから、その行いが相手のためになるわけでもないならば、必要性のないものだ。
日本国中が、その昔の「負けた」という悔しさと恨みを背負っている。
だがそれは決して内側に向いてはいけないのだ。
内側でやり合うように仕向けられたとしても、それをやってしまうことこそ思う壺だと知らねばならない。