「神経症者は他人のお気に入りになって乗り越えようとする」
という事実について。
どういうことか説明する。
神経症者とは、まだ自分の存在が無い人のことである。
母子一体化、他人との一体化を求めている人である。
例えばこのような違いがある。
もし僕が神経症者であると、ある女性に好意を持った際、その女性に気に入られる男になろうと行動する。
幼児的執着である。
「この子がいい!」と気に入る子を見つける。
そしてその子とうまく行くように、その子に気に入られようとする。
ここで、相手に同意する、迎合、利用価値のアピールなどが始まるのである。
そしてその時の自分の労力に応じて、自分自身が妥当と思える好意を持たないと相手を恨むのである。
つまり、完全に一方的な好意とそれに伴う行為により、相手に対して見返りを強要してしまうのである。
この時期の関係性の成功は「安心」である。
自分の存在を自分で確認できないため、相手に気に入られて得る体感は「安心」である。この安心感を「愛されている」と思うのだ。他者と一体化することを求めている時期なのだ。
これは独立したものではなく、完全に与えられる側に立った見返り要求の愛着である。
例えば、もし僕が好意を寄せた異性に気に入られようとする。
相手が気に入りそうなことをどんどん行い、それに応じて結果を期待する。
その期待に沿わない結果である場合、不当だ、または不幸だ、などと感じる。
これが未熟な状態の人間関係である。
そして心理的に自立している場合。
同じく、好意を寄せた女性がいたとする。
ただ知る。その人が話しやすいよう話を聞き、理解に努める。
相手の目的を知る。その気持ちを理解する。
その人と自分の違いを知り、相手の視点や物の見方を知る。
相手が見ている未来と同じものを見たいと思う。相手の視点になってみたいと思うので、相手がしていることと同じことをしてみたいと思う。
どんな気持ちになるのか知りたいということだ。
違いが嬉しいことなので、「俺も同じ」と迎合することはない。
話を合わせることもない。
気持ちに配慮しても、話を合わせて嘘をつかない。
話を合わせるとは、平たく言うと嘘をつくことである。
気持ちに配慮するとは、嘘は言わないが相手の気持ちを考えて表現を工夫することである。
「傷つけない言い方」を考えるものである。
また、相手が好きであるならば、自分を知ってもらいたいと思う。
自分を知ってもらいたいので、普段の自分通りにする。
違うならば違うと言う。思わないなら思わないと言う。
同じ!が良いことだと思っている人は、本当に同じ部分は同じ、違う部分も同じとなり、違いの無い人間になってしまう。自我拡散するわけである。
違いが個別化に必要なことなのだから、好きな人を見て自分との違いを知るのである。
好きな人に出会えば、自分をより知ることができる。
自分が何に憧れ、何を自分のマイナス点だと考えているのかもわかる。
この時期の成功は「驚きと感動」である。
「こんなことがあるなんて」「こんな人がいるなんて」という感動。
初めて出会う人なのだから、驚きがある。
誰に出会っても驚くが、その驚きが自分にとって嬉しい驚きなのである。
俺も、という姿勢は甘えである。
相手にくっついて可愛がられたいという感情である。
好きな人に対して「自分もー」と言って同じになりたがる。
同じになれて嬉しいという気持ちが、誰かとの一体化で安心感を求めている状態である。
好きな人に対して「自分と違うな」と自分の中で確認し、黙って驚き続けるのが独立した自分自身になってからの好意だ。
自分を受け入れていると、誰にもなりたくない。
自分でありたい。なので誰にも迎合しない。
自分を失いたくないからである。
自分を軸にして人を好きになるので、自分と同じ人を求めない。
この「自分と同じ」を求める者同士が安心感を得て、結婚する例が多い。
この時期の成長度の人にとっては、「愛」が親に対する愛着のことであり、存在に不安を抱く人にとっては「安心感」以外に求めるものはない。
故に、違うから好きになるという逆説的なことは理解できない。
自分が成長しなくては、その感覚を体験しないからだ。
同じだから安心。それは、自分が独立した存在としての不安感を抱えているからである。
自分で自分を育て、他人との関係を構築していくのが自分の人生である。
他人と一体化することを求めていたら、逆に誰とも人生を共に進んでいくことはできない。
母親に抱っこされた子供が母親と一緒に人生を送っても、それぞれの人生にならないのと同じだ。
他人の一部なのである。
気に入った人のお気に入りになり、その人にくっついて人生を進んで行こうとする行為は、物理的なことで言うならば「もう一度赤ちゃんから好きな親の元でやり直したい」というものである。
自分だけの人生を欲しがらず、ついて行く他人を求めている。
年齢に関係なく、心理的な問題なのだ。
心理的成長と肉体的年齢は一致するものではない。
年齢には
肉体的年齢、社会的年齢、心理的年齢
の三つがある。
この中で、肉体的年齢は勝手に成長する。
社会的年齢は、形の上でだけならば成功する人と失敗する人がいる。
心理的年齢は、本人が心理的努力をしなくては成長しないものである。
現代社会では、心理的成長を無視し社会的な立場ばかり気にするようになっている。つまり、社会的に成功しているかどうかが、人間の価値を決めるような考え方になっているのだ。
他人のお気に入りになる、という考えも、結局は人間を道具にするという点において社会的なことが全てだと思う考え方である。
何が気に入られるか、という内容が、結局「社会的に良いとされること」に依存しているからである。
心理的に自立するとは、他人に左右されない存在になることである。
他人に気に入られようとする行為は、自分自身が誰か好きな人を見つけ、その人にくっついていくためである。
しかしそれでは好かれたとは言えない。
この姿勢で人と接していると、他人を便利に使いたいマザコンのような人を捕まえることになるだろう。
本当に相手に好かれたい人は、相手に合わせて動かない。
相手から見た時に自分を消してしまうことになり、相手が存在に不安を抱える時にのみ相手に安心感を与える結果となるからだ。
マザコン的な人を捕まえたくないならば、安心させてあげる同化行為は行わない。
同化はやりたい人とそうでない人に、明確に分かれている。
自分でありたい人は望まないので、自分の存在に不安を抱える人のみ互いに喜ぶ。
例えば僕は既に独立した存在になっているので、他人が自分に合わせて動くことに安心感を持たない。
連動する行為とは、自分の手足になろうとする行為である。自分の存在がどこまでで、相手はどこからなのか明確に区別していると、それが不安を生む行為になる。
元々不安な人は「この人は自分」という安心感を持てるが、元々安定している人は連動されることにより不安になる。
親の母親をしてきた人は、他人を全員自分の子供のように考えている。
僕は友人の親子でそれを目の当たりにするが、子供は心理的に成長できない。
子供が自分の好きな何かの話をする。
母親はその子の話を聞き、好きなアニメのグッズを買ってくる。
母親が子供の願望を叶えてやるのだ。
それは幼児の時までだ。
段々とだた話を聞き、そうなんだ、とそのままにしておくものである。
その母親の母親は、死ぬまで幼児であった。
母親は幼児の面倒を見る母親のように人と接する。
先日その子供の方が、母親のいないところで家での話を教えてくれた。
「有難いんだけど、気持ち悪い」
という感想を述べた。
いつまで経っても子供扱いなのである。
僕も一瞬その違和感を言葉にできなかったのだが、僕の娘が即言葉にした。
「親にそんなことされたくない」
ああそうか、と納得した。
プライバシーの問題なのである。思春期になった子供は、もう幼児ではない。
一人の人間として、大人と同じくプライバシーを守られて生きる権利がある。
もう幼児のような扱いが要らない。
だが、死ぬまで母親の母親をしていたその親は、どうあっても他人を幼児扱いすることしかできないのである。
他人との接し方は親子関係で決まる。
その母親にとっては、「良いこと」はまず相手を幼児として見立てた場合なのである。
しかしその行動は表面的であり、本質を伴うものではない。
部分部分のことなのだ。
「何かしてあげなきゃ」と思った時にだけ、幼児を喜ばせるようなことをする。
本人ができることは本人にやらせていく、というのが自立させていくことである。
そして、大人は他人を育てる必要はない。
それはその人の親がやり、その後はその人自身が行うものだ。
誰だって自分を育てているのだから、他人を育てる必要はないのだ。
少なくとも「育てている他人」とは、自立した人間関係を築けない。
親子は他人ではない。他人と親子の関係になるということは、他人ではないということになる。
その関係性は、他人同士の中には存在しないものなのだ。
友達でもない、恋人でもない、伴侶でもない、何かわからないものになるので、友情や愛情は感じないのだ。
僕の娘はまだ十代だが、娘より心理的に成長している大人もなかなか見ない。
僕の思う子供とは、僕の娘である。
もし僕が誰か異性を好きになるとしても、僕と対等に子供の母親ができるということが最低限の基準になるだろう。
自分と同レベルでないと夫婦になれない。
別に自分より優れた人を求めてはいない。
自分より優れた妻に面倒を見てもらおうとすることは、妻の幸せはどうでもいいということになるからだ。
劣っている方は得ばかりかもしれないが、そもそもその考え方では相手を好きなわけではない。女性側からしたら、そんな男はお断りだろう。
だが、実際「自分は人とうまくやっていけないけれど、仕事は頑張るからこんな自分を分かってくれる人がひとりでもいてくれたら」と女性を求める人は多い。
しかし「誰とも親密になれない自分を分かってくれる人」と言っても、誰とも親密になれないのに他人である異性とどうやって親密になるのだろうか?
完全に最初から依存する存在を求めているのである。
自分自身の人生を諦めた、ということだ。
自分は諦めるが、相手が自分の欲しいものを全部なんとかして与えてくれる。という関係を求める。
相手はいい迷惑である。
子供の頃、自分がこんな家なので相手は愛ある家族の人がいいと思ったことがあった。
だが、愛ある幸せな家族の中に生まれた人は、僕より当たり前に愛ある幸せな家族の中に生まれた人を選ぶだろうし、それが当然のラインなのだからそれ以下は相手にとっては「今までより不幸」になってしまう。
家のことまで出されたら無理だが、僕の人格的にはそのラインに到達している必要性がある、と思った。
それ以上の人格を備えれば、要は、うちには無かった寛容な精神や人間としての徳の高さを備えていたら、万が一にも可能になるかもしれない、とは思った。
人生は最初から可能な道を最低限考慮するものである。
スタートしてからでは遅いからだ。
最初の条件を考えると、社会的に成功という「お受験ブーム」当時のものは得られる可能性が無かったので、そこは切り捨てて考え、それでも尚選ばれる可能性として人格を選んだというわけだ。
他人のお気に入りになろうとする行為は、既に自分を諦めた行為である。
相手の「お気に入り」ということは、ペットのような、愛人のような人になろうとする行為であり、間違いなく誰かの下になることを余儀なくされるだろう。
ペットを伴侶にする人はいない。
人間は自我がないと「自分のしようとしていることは一体何なのか」を考えずに行動するらしい。どういう思考で動くのか正直僕にはわからない。
本来、子供の方に母親が合わせてくれる。
だから子供が母親に合わせてやる必要性はない。
だが子供が母親の昔話や事情を聞き、母親に合わせてやることを余儀なくされていた。
必然的に、人との接し方は相手に合わせて気に入られるように動く、というものになったのだろう。
人間は他者を介してしか、自分を確認できない生き物である。
他人と自分の違いを知り、そこから自分が一体どうであるのか確認する、ということだ。
動物の赤ちゃんの動画を見ていて、どんな生き物がそこにいても「自分も同じだ」と思って行動することを確認していた。
「みにくいアヒルの子」の話である。
周りがあひるばかりなので、自分もあひるだと思い込んで生きている。
しかし、自分は実はあひるでは無かった、と気付くのだ。
子供は母親が自分なのだと思い込んでいる。
「自分はこの人と同じなのだ」と思っている。
同じになっているつもりなのだが、あれこれケチをつけられる。
頑張って同じになろうとしている。だが、実際には同じになっているのに、矛盾している母親は子供が自分とそっくりになっていることがわからない。
自分を勘違いしている母親は、自分そっくりな子供が自分とは違うと思い込むのだ。
子供は母親そっくりになって矛盾した人格を抱えるが、その自分のまま一体感を満たすために他人と一体化しようとしてしまう。
すると、自分自身が既に矛盾しているために他者との一体感は得られない。
今度は自分自身が他人に矛盾を強いながら、いや、この話はもうやめよう。
長くなるし、どうせ次の講座で話す矛盾の話だ。
愛されたい、は願望であり、自分の好意ではない。
そして愛されたところで愛しているのは相手なのだから、自分は幸せにならない。
愛するということが幸せということだ。
愛されたい人は、誰も愛していないので幸せにはならない。
幸せは「~してもらえた」ではなく、ただ幸せを感じるというだけの小さな話なのだから。