久々にYouTubeにもアップしています。
会話でのコミュニケーションの常識とは。
話は相手のことを考えて、「相手のためにするもの」ということ。
自分のために自分が話したいから勝手に話していいわけではありません。
タダで自分の話を聞いてくれる人なんて、お母さん以外いませんよ。
友人なら友人で、誰でも話す内容程度に限られます。
相手にとって得が何もない、知りたい聞きたい、役に立つ、何も利がない話なんて他人に聞かせるものではありません。
自分が話したいことを聞いてくれるなんて、そんな親切は暇を持て余した人かうわさ好きの人、または自分について関心があり自分のことを知りたい人、相手は限られます。
話を聞くくらい!
と思う人は勘違いしています。
聞き手が一人なら、話したい人が何人もいたらどうするのでしょうか?
夜のお店のお姉さんだってお兄さんだって、お金を払っているから話を聞いてくれるのです。
自分の話が相手に対してそんなに得する、聞きたい話だと誤解してはいけません。
他人が自分の話なんて聞きたいわけがないのです。
役に立つ何かでも盛り込まないならば、誰も聞きたくありません。
注目を浴びたい人たちは、自分に関心を持ってもらえていると錯覚しながら接してもらうために、社会の注目を浴びれそうなあれこれを必死でくっつけているのですから。
自分が話したい話は「きいてもらえる?」とお願いする立場で。
どうしても話したいならば、お金を払ってお店にいくか、またはカウンセラーの元にでもいくか、まともに信頼関係ある「お互い様」の友人や恋人に聞いてもらうしかないのです。
しかしどちらにせよ、聞きたくない話を聞かせることなど無理なのです。
「話を聞く」ということ「話をする」ということ。
どれほど難しいのか思い付きを話している人にはわかりません。
ものすごく集中力を要します。
本人が一方的にいい気分になる話のために、無駄な労力を使う人などいません。
話を聞かせる、話をさせることは、「多大な集中力を要する頭脳労働をさせているのだ」と踏まえたうえで、互いにきちんと意志の疎通が図れるよう、一回一回を無駄にしないこと。
生きているうち、一緒にいるうちしか、伝えることも聞くこともできないのです。
一方的なコミュニケーションばかり取っていたら、目の前にいた人のことも
「きっとこうに違いない!」
「絶対こうに違いない!」
「多分こうだと思う!」
なんて、馬鹿なことを後から言わねばなりません。
目の前にいたのだから、何を考えてどう思うかくらい、確認していなければ一緒にいた意味なんて何もないのです。
目の前にいるから確認できるのです。
相手が自分と理解し合いたいと努力しているうちだから確認し合えるのです。
目の前にいるときに互いに意志も気持ちも確認せずに「きっとこうに違いない」のまま生きているなんて、生きていないのも同じです。
いるから確認できるのです。
死んだらすべておしまい。
別れて会うこともなくなったらおしまいです。
「きっとこうに違いない」は現実に出会うまでの話。
実際目の前に相手がいたら、言葉でも言葉でなくても、実際のところはわかります。
決めつけではなく「こうだったんだ!」という確認もなしに、他人と接したなんて言えません。
それでは現実には誰とも出会っていないのと同じなのです。
実際にコミュニケーションが取れるということが、どれほど大きなことなのかさっぱりわかっていない人がいます。
そのような人が、我が子のことでも「こんな子だと思わなかった」と言います。
一体誰と接していたのやら。他人が実在した意味、まったくありませんね。