体罰は良くないことです。
とは言っても、一概にそうとは言えない。
「体罰は良くないこと」なので、「体罰をしたら悪いこと」。
これは、道徳性発達段階で言えば「最低」と言える。
まだ状況に応じた判断ができない、二分割思考の幼児の発想である。
僕が子供の頃に、どんな生徒も平等に扱い大変慕われている先生がいた。
その先生は、体罰を行うこともあった。その先生だけではなく、昭和の時代には普通にあった。
だが、その先生の体罰は父親が窘めて殴るように、愛情深いげんこつであった。
いつものこと。冗談のノリで、でも叱られる時には「もうするなよ?」と平等に罰される。
先生のげんこつは痛かったが、クラス全員が何かの折にされた体験があった。
その先生を嫌う子はひとりもいなかった。
他のクラスの子からいいなあーと羨ましがられるほど、その先生は人気者だった。
だが、お受験ブーム以降、そんな愛情深い先生が上から指導されるようになった。
誰かの母親が学校に訴え、先生は罰され、それまで先生が独自に考案してやってきた「皆が楽しみにしている活動」が無くなってしまうこともあった。
みんなは先生を庇った。
「あいつの母親がチクった!」
「お前のせいだぞ!」
正義漢ぶって学校に乗り込んだ母親の子は、クラス中から恨まれることとなった。
そんなことがあった。
そして僕たちは、当時でも既に親さえしてくれないようなことをしてくれる大人を失った。
遊びを教えてくれたり、探求心をくすぐる体験をさせてくれたり、熱心な先生は義務ではないところでも生徒たちのために色々と考案してくれた。
他のクラスの生徒に羨ましがられていた活動は無しになり、チクった母親の子が他のクラスの子たちからも噂された。
状況がわからないのに、エリート教育に熱心な教育ママは、「殴ることは良くないこと!その教師は暴力教師!」と判断したのだ。
子供はどう考えても母親の気を引いて心配してもらいたい子だった。
甘えが満たされていない。
結果、母親に学校でのことを自分が如何に大変か誇示して話してしまい、そうなった。
「皆の楽しみを奪ったやつ」
「皆の大好きな先生を罰させたやつ」
「全部そいつのせい」
友達にしてみれば、そうである。
教育ママは良いことをしたと思っている。自分は正しいと思っている。
そんなことは、僕が子供の頃に何度か起きた。
違う学年の子でも知っているような人気者の先生たちが、次々罰された。
バブル崩壊の時期である。
先生たちは、マニュアル通りに教えるようになった。
それが多くの母親の望みになったからである。
だが、そうすると子供たちの教育の内容は、一身に母親の責任となってくる。
教科書で教えないことは、親が全て教育で身につけさせなければならない。
例えば、好奇心を育てる。探求心を育てる。道徳性を養う。信頼感や連帯感を体験させる。など。
人気者の先生たちは、それらを教えてくれた。
仲の良い子も悪い子も、みんな一緒に楽しく活動できる「学校で用意してもらえない場所」を用意してくれた。
先生にしても、給与外の仕事である。
全部子供たちのためにやってくれていた。
だが、下手に決められていないことをすると自分たちが罰されるかもしれないと先生たちも恐れるようになった。
だからこそ、先生たちは決められた通り決められたことだけ教え、批難されないように気を付けている。
これからの時代の教育の責任は、全て母親となる。
人は過去の責任を取っている。
自分たちの母親がしたことが未来の状況を作り、その子供たちが責任を取る。
今の状況は過去から作られている。その状況に必要なことをしていくのが、今を生きる人たちである。
僕が教室でくだらないとも思えそうな遊びをするのもそのためである。
しっかり勉強して、良い大学に入り、良い企業に入り、家もあり家族もあり、なぜか崩壊していく。
その理由が「きちんとできていないから」ではないとわかっていない。
「何がしたい?」と聞かれても、「何がしたいかわからない」と大人が答える。
子供は即やりたいことを答える。
子供の頃にできたことが、できなくなった。
「好奇心や探求心が無い、良いことに従う子」に育てたからだ。
良いことに従った子に、好きなものもやりたいことも、あるわけがない。
「自由だよ」と言われて、何をしたいのかわかるわけもない。
頭の中は、真っ白だ。
決まりだけが自分を動かしていたのだから。
「責められたくないから」
これが、道徳性発達段階第一の段階。
未発達な段階の思考である。
状況も知らず、理由も考慮せず、「〇〇するのは良くないことです!」という判断ばかりしていけば、みな身を守るために決まり通りに動くようになる。
そのような社会を望んで作ってきたのが、「この人は〇〇していました!」とチクってきた人たちである。
過去の多数の活動があり、皆の力で作った状況なのだ。
子供たちに言わせればこうである。
「大人のくせに自分の好きなこともわかんないの?」
「大人のくせに自分で考えたこと言ってないの?」
「大人のくせにまだ教えてもらってんの?」
「大人のくせに子供に守らせたことやってないの?」
「大人のくせに自分で決められないの?」
「大人のくせに人のせいにしていいの?」
子供たちは親が言うのだから、大人は全員できている、と考えている。
「大人なのだから」
知らないけれど、自分たちが教えるのだから自分たちはできているに決まっている、と思っている。
僕たちもそう思っていたのだから。
「自分ができもしないことを人に言うものじゃない」
と、子供たちは教えられているのだから。
「教えてるんだから、全部できてるんでしょ。できてなかったら教えてるわけがない。」
子供の考え方は単純で、正しい。
自分ができもしないことを子供に叱りながら教えられるわけがない。
言えたご身分ではない。
だからこそ、決まりに従っている親はこう言うのだ。
「言われた通りにしていればいいんだ!」
つまり、自己肯定するため。
子供の生き方そのものが、親が間違っていないと証明するための確認材料なのだ。
自分を真似た子供を肯定することで、自分の人生そのものを肯定しているのだ。
自分が安心するために、子供に決めた通りの人生を進ませているのだ。
死ぬまでは親の言うとおりにして、安心させてほしい。ということだ。
「死んだら後は好きにしていいから」
親が死んだら、後は自由に好きな人生を歩んでも文句は言われない。
責められないのだから、恐れるものはない。
ただ、その時自分の意欲や意思が残っていればだ。
ただし、大人になるとそのうちこんなこともある。
「どうしたらいいの?」
「そんなことは自分で考えろ!」
考えたら批難されたので、言う事を聞いた。
言う事を聞き続けて次はどうしたらいいのかわからなくなったら、自分で考えろと言われた。
頭がパニックになる。
「君はどうしたいの?」
「何がしたいのかわかんない。」
これが、過去の大人たちが残した現代社会の結果である。
そして今は既に次世代に突入している。
「この子はおかしいんです。発達障害なんです。」
もう子供たちに逃げ場はない。
大人たちの全責任を、子供がその小さな身で負っているのだ。
「僕がおかしいから、皆が困ってるんだ。」
これで自殺が増えないわけがない。
若者たちの死亡原因のトップは、自殺だ。
コロナなど比較にならないほど、自殺者数もインフルエンザの死亡者数も多い。
そもそも、コロナウイルスは風邪のウイルスである。
それすら知らない人が殆どなのである。
ハーバード大学のある研究者も、新型なのでまだなんとも言えないが、二年後か三年後程度に冬の風邪になっていくだろう、と様々な方向から考え予測していた。
既にイギリスのある大学の研究チームが、ロックダウン後の欧州30か国を対象に調査し、外出禁止は効果なし、寧ろ感染者は増加した、と結論付けている。
効果があった内容は休校など他にいくつか挙げられていたが、ここでは長くなるので書かない。
この事実をいち早く日本国内で言っていた武田邦彦先生は、三十年前のダイオキシン問題の嘘の時のように、いくら真実を話しても叩かれていた。
並外れて賢く正しい人の言う事を、聞き入れる人も減ってきた。
少なくともこの事実を早い段階で知っていた人々、勿論僕もだが、それを知らない、自力で判断できない、そもそも判断材料を持っていない、自力で探して検討できない、という人々では、不安の度合いも内容も、大きく変わってくる。
ただ、教えられたことと違うことを批難して、安心するだけ。
ついに集団ナルシシズムの社会も大詰めである。
「言う事を聞いていれば大丈夫」
これは、自分の未来のことではない。
「怖い目に遭わないから大丈夫」
つまり、責められるのが怖い。
責められるのが怖いから我慢して従って人を責める。
そしてまたひとり、またひとりと責められないように従う人たちを生み出していくのだ。
いつしかたったひとつの意思によって全体が動くようになる日まで。
これは、ただ起きている事実である。
そして僕個人の意見はこれだ。
「よくここまで持って行った。危うく騙され続けるところだった。」
30年前の俺。深く考え続けてくれてありがとう。
20年前の俺。テレビを捨ててくれてありがとう。
世の中は思うより、遥かに恐ろしいところである。
人間はある方法を取れば、このような動きをする、と知っている人がいて、それを知る人たちがその方法を、必ずしも皆の幸せのためには使わないからである。
大変口惜しい思いである。
よくここまで持って行った。社会全体を。
よくここまで気づかずに生きてきた、過去の自分。
愚かだったと反省している。
だから今後何が起きても、それは自分自身の不徳の致すところ、というやつなのだ。