まだ見ぬ友人へ
取り急ぎ書きたくて仕方ないことがあるが、そちらは体力と時間が必要なので、今は少々君に伝えておく。
良い兆しあり、これは役立つ経験となりそうなのだ。
神経症が完治した瞬間を見た。
それはほんの一瞬で、見た目には何も変わらない。
この瞬間に何が起きたのか、それすら殆どの人がわからないだろう。
その経験を得て、君にひとつ伝えられることができた。
味方と敵は、自分で決めているのだ。
「自分が人に対してどのように接するか」で決まる。
例えば僕は、人を敵として扱わない。
「どう扱うか」なのだ。
自分への扱いが他人への扱い
自分を味方にしている人は、他人を味方として扱う
自分が接する時の扱いしか、選べない。
自分が相手に対してアクションを起こすときに、どのように接するかなのだ。
相手をなんとして扱うか、それで「自分にとって相手が味方か敵か」が決まる。
この人は味方にしておいたらいいな、と思う人には味方として接する。
相手を味方として扱うということだ。
自分から誰も敵として扱わなければ、自ら敵を生むことはない。
自ら敵を生むためには、自ら敵意を持って人に接すれば良い。
非常に簡単なことだ。
自分で決められる。
もちろん、自分からは味方として接しても相手が味方として扱ってくれるかは決められない。
自分から接するときに相手をどう扱うか、そして誰かが接してきたときにどう扱うかだ。
非常に単純なことなのだ。
人は大勢いるが、直接接点を持つことはまずない。
全人口のうちの、どれだけの人と人生で出会うだろう。
そしてどれだけの人と実際に接するだろう。
損をしないためには、この人は優れている人だとか、話を理解する人だとか、何かあらば助けてくれる人だとか、そう思える人には特に味方として接することだと思う。
人は実際に目の前で接してみないとわからない。
僕は超一方的に母親に批難されることがあったが、僕には僕の理由があるのに聞いてももらえなかった。
故に、今何をしていても、また過去に何をしていたとしても、本人には本人の理由あってのことだと考える。
大切なことは、自分に対してどう接してくるかであって、これまで何をしていたかではない。
僕が弟と呼んで可愛がっている少年も、ネットの掲示板で炎上しては喧嘩になっているような子だった。
だが、弟には弟の理由があったし、一度は学校を辞めたもののがんばって模索しながらあれこれと努力はしていた。
今も可愛い弟だ。
まず世間から見ればあまり良い子ではないだろう。
だが、それなりの理由があるのだ。
どんなにまずいことをしていたとしても、本人には本人の理由がある。
まずいことはまずいことに代わりないが、それなりの理由は誰にでもあるのだ。
僕は自然の流れを大切にしているので、僕が選べない他人からの扱いについてはこう考える。
もし相手が好意的に接してきたならば、僕が何かしてあげられることのある人だろう。
もし相手が敵意を持って接してきたならば、僕にしてあげられることはない人なのだろう。
ある時期になると、いつも考えることがある。
多くの人が権威や役職を絶対のように考え、「~が言ったから正しい」なんて思いこむものだ。
しかし、社会的には僕より遥かに良い経歴と役職に就く方々の中に混じるにつけ、師の仰った「どんなに学歴があっても地位があっても、その見えないものを見る目だけは滅多に持つ人がいない」という言葉を思い出す。
彼自身「心理学者でありながら…」というくだりを著書に書き記していたが、確かにと納得したのは自ら経験をした時だった。
話を聞いていると、治療にあたる人の息子が完全にノイローゼ。
何をしたいかわからないと言い出すのだ。
それをどうしようもなく困ったことのように扱いながら、「どれだけの金がかかってると思っているんだ」とこぞって社会の理想に倣わない子供たちを批難する。
そりゃあそうだなと思う。
それなりの地位や学歴を持った人々からすれば、せっかく援助してやるというのに言うことを聞いて「感謝しない」など恩知らずなことだ。
僕のように自由にして良いと思う人間は少ないし、とても正しいことだと言えないだろう。
だが、正しいかどうかではない。
本人がどうしたいかなのだ。
かつては僕も「治療者でありながら」と思った。
しかし、そうではないのだと思いなおした。
僕より遥か経験ある先生方のこと。
差し出がましい考えだ。
何よりも、人々が求めるのだからそれでいいのだ。
神経症は遺伝の病。
全体がそうなのだから、権威や役職を信じる人たちとて、自らの親たちと同じだと思えばなんともないことだろう。
何よりも、理屈で間違ったことはしていない。
きちんと必要なことはやっている。
神経症の人は心を見て欲しがっているようで、実際のところは誰かの判定を欲しがっている。それもできるだけ強い権威からもらいたい。
なので、別に権威ある人々に従ってうまくいかなくとも、怒ることもないだろう。
何を信じるかは自分が決めたのだから。
あまり医者や学者を絶対だと思わないでほしい、とハーバード大学心理学者のランガー教授は言う。
私たちにもまだわからないことは沢山あるし、絶対とは言えないのだからと。
そりゃあそうだ。人間がやっていることだ。
仕事でも問題が発生したら、今できる限りのことをするしかない。
わからなくとも、どうなるか知らなくとも、今最善を尽くすしかない。
失敗したらしたで、しょうがない。
困ったことに応じて必要なものがわいてでるわけではない。
困った困ったというならば、誰かができなくともなんとかしなくてはならない。
できなくとも、なんとかしなくてはならない。
心理学は奥の深いものだ。
学んだだけで自分自身が変わるならば、全員が悟りを開いている。
僕は僕で正しいと思うことをするが、今の世には必要ないと思うこともある。
決まったことを一番できるかできないか、それはどこまで上に行っても同じことなのだから。
そしてそれが悪いわけでもない。間違ってもいない。
悪意もない。
どこまでも利権が絡んでくることも、この社会を考えれば当然のこと。
奉仕活動ではないのだから。それはみな重々承知だろう。
権威主義の父を恨んだような人は、社会に出て外面の父親のような人を絶対視する。逃れられない連鎖だ。
僕が不思議なのは、権力が絶対、社会の理想が絶対になってきたら、自分がそうなれていない人から劣等になるのに、自分がそうでない人がなぜそんなものを崇めるか不思議だ。
自分が絶対に持てないものを持つ人を崇め、その力を使うからには
自分がその分、価値を低くすることは当然のことだ。
比較して上にしているのだから、比較して自分がより下になっていく。
ある社会心理学者の先生が、生徒たちにこう聞いた。
「タバコは実のところ絶対に癌になるという根拠はまだ見つかっていません。
可能性が高くなる、というだけで、そうなると決まったわけではありません。
なんとなく「危険性が高まる」と書かれればそうなるように思いこむだけです。
そして今、この話を聞いてどう思いましたか?」
まあ、色々な関連性を考えればリスクが高まることは間違いない。
しかし、似たようなリスクで言えば酒も同じことだ。
更に酔っぱらった人は事故を起こすこともあるし、暴れることもあるし、依存症にもなる。
養老先生が皮肉るのもわかる。
そうすれば、欲求不満の人々が叩く的も作れるし、電子タバコも売れる。
世界的シェアの98%が日本だ。
つまり、日本人から企業が儲けられる。
僕たちは基本、休む間もなく働いて企業に金を落とし続けていればいいだけなのだから、別に問題ない。
僕のように流れに乗らない人間は、非国民だ。
良い学校を出て、高い学歴を持って、良い企業に入り、一般的理想の人生をいかにして送るかの競争なのだから。
その競争がしたい人だけが、そこからはみ出して劣等感を持つだけだ。
僕は自分がその流れに乗りたくないので、はみ出した人をなんとも思わない。
だがはみ出した人をなんとも思わないようでは、立派な大人とは言えないのだ。
好き好んでやりたい人だけがやっている競争なので、僕は気にしない。
そんなことよりも自分が楽しい時間を過ごしていることの方が大切だ。
仲間と共に苦楽を共にする人生の方が大切だ。
僕のような書き物をしていれば、僕が気に入らないので敵になりたい人もいる。
同時に、「どうしたらいいでしょう」と相談をしてくる人もいる。
最近は、相談してくる人々が次々良い流れに乗っていくのでうれしい限りだ。
味方、敵、スパイ、というものはスパイ家族に生まれてしまうと区別がつかないようだ。
自分に好意的に対応してくれるのが味方。
自分に敵意を持って接してくるのが敵。
自分の味方のように接しながら、実際には無関心なのがスパイだ。
いきなり噛みつく人もいるが、それが敵だ。
初っ端から支配と服従の関係にならねば、始まらない。
とはいえ、味方にしたいか敵にしたいかは本人が決めることなので自由だ。
争いを少なく生きるためには、自ら誰かに敵として接しないだけでも十分だ。
なので、自分から相手に直接アクションを起こすときには、好意的に接する方が得だろう。
他人は自分のことを知らない。
過去も、今も、全く知らないところから始まる。
だから初めにどう接するか、そこからどう接していくかで相手との関係性は変わるのだ。
自分次第。だから他人は良いものなのだ。
親なんて自分がどうあろうとも、変わらないものなのだから。
それにしても、最近はこと良い兆しだ。
春めいてきたことだし、良い流れが来そうだ。
君がもし、今不満な人生を送るならば、良い流れに乗っている幸せな人たちの中に入れてもらうといい。
幸せなんて、即なることも可能だ。
何かが起きてなれるものではないのだから。
何かが起きないと幸せになれない、と思っている人は
それが幸せではなく腹いせであることに気づいていないのだろう。
勝ち誇った時には、誰かの恨みを買っている。
ある外科医師は
「生きたい」というのは嘘で、それは「死にたくない」なのだ。
と言ったそうだ。
その通りだと思った。
「幸せになりたい」という人も本当は「不幸だと気付きたくない」と言っているのだから。
君よ、つらいことがあろうとも、苦を捨てることのないよう。
苦しみがなければ、喜びというものは存在しないのだから。
最上 雄基