変な人と一緒にい過ぎると自分もおかしくなっていくので、変な人から離れて欲しい。
その「変な人」が親であるから困るのだが、とにかく離れていかねばならない。
変な人と離れるために別の人に救いを求めると、次の関係も同じになっていくか、またはまともな人なら離れていく。
そんなわけで、とにかく変な人と一旦離れて、単独の思考を持ってほしい。
頭の中が混乱している時は、まともな人の話を聞き続けて欲しい。
それは本であったり、何かを教える人であったりするだろうが、とにかくそうした人たちもそのためにやっているので、道理の通った思考をしている人たちの考え方を聞いていて欲しい。
ちなみに僕も変な人と密に接すると変になっていくので、そんな時は離れて単独の思考で考える。
心理的に健康な人と不健康な人の二種類に分かれていて変わらないのではなく、心理的に健康な人も心理的に不健康な人と一緒にいれば一緒に病んでいく。
なので、心理的に不健康な人はまず単独の存在として思考することが先なのだと考えて欲しい。
心理的に自分が不健康な時は、誰と接してもうまく行かない。
自分に合わせられる時点で、相手も病んでいる。
病んでいる人と病んでいる人が一緒になって、「安心な不満」の関係を作るのだ。
心理的に不健康な人は、他人に親を求める。
だが、心理的に健康な人は他人の親をやらない。
他人の親代わりをやろうとするのは、心理的に不健康な人なのだ。
心理的に健康な人は他人は他人だと知っているので、友人には友人を、恋人には恋人を求める。
そして友人や恋人は心理的関係のことであり、まずなんらかの現実社会での立場の関係性が成り立っていることが友人や恋人になっていくためには必要だ、と知っている。
心理的に不健康な人は「一目惚れ」で夢のような関係を作れると思い込んでいる。
そんな漫画みたいな話はない。
現実に一目で他人がわかるわけがない。
ちょっと良い面を見ただけで、相手に対して信頼感や強い友情が生まれるわけがない。
色々な場面を乗り越えていくから、心理的に堅固な信頼関係が作られていくのだ。
気に入られることをし続けて仲良くしようとするのは、奴隷願望の強い人である。
自分を商品として売り込み、買い取らせようとする。
買取の価格は「自分が求めている代償」である。
ところで、僕は最近驚くことに気付く。
色々と気付くが、ちょっとこれを読んでいる人に聞きたい。
皆さんは、「これをしたら仲良しだ」「これをするのが恋人だ」と思っていないだろうか?
「こういうのが仲良し」と言われていることを我慢して、または意識してやったならば、仲良しになったと思っていないだろうか?
「こういうのが仲良し」は確かにあるが、それはあくまでもお手本なしで、自然にただ思ったようにそれぞれが動いていたら、たまたまそうなった、という場合にのみ「仲良し」となるのである。
友達や恋人と「仲が良いのかどうなのかわからない」人がいる。
他人からはまるわかりだし、実際にどうかは既に答えが出ている。
だが、それがわからない人がいる。
「~しているから仲良し」
そんなわけがない。
形で中身が決まるわけではないのだから。
例えば、「こういうのが仲良しだ」と思って意識してやっている人が一人でもいたら、それは仲良しではない。
「仲良しの形」にするために、意図的に行動している人が一人でもいたら、その関係はお終いである。
不自然に作られた時点で、もう中身はない。
なので、仲良しにはならない。
うわさ好きのおばちゃんというのは昔からいるが、情報をやたら知っていることが仲良しだと思っている人がいる。
子供を小学校に通わせる奥さんには、ママ友の中にやたら人の家のことを聞きたがり、また知っていて話してくる人がいると話す人がいる。
根掘り葉掘り人の事情を聞くわりに、実際の相手の状況についてであるにも拘わらず、まるでゴシップネタでも聞いているように、「大変ねー」「大丈夫ー?」などとネタにしている人がいるのだ。
この行為自体が、相手を傷つける。
本人は当事者なのだから、話すだけでも気が重いことがある。
人の話を聞くという事は、相手のデリケートな部分に触れるということだ。
余程自分自身が高いコミュニケーション能力を備えている自信でもなければ、他人の背景などおいそれと聞けない。
他人の個人的事情は、最も扱いづらいネタであり、下手な反応をしたら相手を傷つける内容である。
だからこそ、そんな話は普通聞きたがらないし、話したくもない。
だが、「人のことを知っている」のが安心と言う人がいて、相手のことをよく知っているから仲良しだと勘違いしているのだ。
少なくとも、もし自分が友人のことを悪く言っていたら、当然向こうにも同じことをされて文句は言えない。
自分もしているのだから。
「お前が悪いんだから、こっちは悪口を言うが、正しい俺のことを悪口言ったらお前は酷いやつなんだぞ」
と言うならば、もう頭がおかしい人である。
何を言っているのかわからない。
自分が人を悪者にした時点で、向こうからは自分が悪者に決まっている。
その程度のこともわからない人がいる。本当にいる。
戦争は相手側から見たら自分が敵だとわからない人がいるのだ。
敵から見ても自分が正しいのだと思っている人がいる。
そこで頭の悪い人が考えた結論が、「あいつらは悪いやつらだ!」なのである。
そのような賢さの欠片も無い人と一緒にいない方が良い、と今回は言っておく。
想像力が欠如している状態では、本当に裏と表が理解できないのだ。
向こうから見たら、が想像できたら、まともだ。
自分が傷つくのが怖い人の中には、「敢えてバカになっている人」もいる。
最終的に「私にとっては!」の結論に他人の意見も取り込んでいけば、相手の言い出したことも自分が結論を出すので、相手の意見が無くなる。
相手が結論を出したらそれを自分が評価する形にして、自分が判定して自分が結論を出す。
それで自分にとって悪いことは無かった!
という妄想にして現実に起きたことを回避しようとするのだ。回避なんてできるわけがない。
起きたことを形だけ誤魔化しただけだ。現実は変わらない。
恋愛する勇気もない人は、失恋もできない。
告白して振られると「それはおかしい!」と振られたことに不満を述べ、「私を好きならおかしくないけど、私を好きじゃないならお前は頭おかしい」という結論を出す人がいる。
この時点で頭おかしい以前に、「自分を好きになってないなんておかしい」と堂々と他人の前で言っている恐ろしいナルシストだ。そんなことを思えるほどではないと言える人ほど、モテないだけに自尊心が低く傷つくことを恐れるあまりに「好きじゃないなんておかしい」をやり出す。
たかが誰かに振られた程度のことで、いちいち現実逃避しなくてはならないなら人は生きていけない。
こうした「傷つくの怖い」の人は、「うまく行かないこと」が怖い。
なので、いきなり形を作るところから始める。
うまく行っている形など決まっているわけがないのだから、自分の人生の場合の「仲良し」は自分がなってみるまでわからない。真似をした時点で終っている。
実際、本当に仲良くなる人は相手の背景など知らない場合が多い。
一緒にいる時にそんなことを聞かない、話さない。
相手に対して思いやりが強い場合ほど、自分の過去を話さないし、相手の過去も聞かない。
人には人の過去がある。
デリケートな部分に触れない配慮だ。
傷つけられたら相手を嫌うし、傷つけたら相手に嫌われる。
互いに仲良くしたい人ほど、過去については何を言われても平気なことしか話さない。
それは自分と接するためのハードルをやたら上げない配慮であるし、自分が相手を好きなままでいるための配慮だ。
そんなわけで、僕も昔の仲間たちの家族の話も過去の話もよく知らない。
それなりの年になっているのだから、そんなことは話す必要がなかった。
恋人に関しては殆ど知らない。
そして親友も恋人も、最も信頼関係を築き上げた相手ほど、特別どこかに行ったことすらない。
最も心の中に残っている人とは、どこにも行っていないものなのだ。
その分、最も無理やりな付き合い方をした異性ほど、雑誌や映画で見たようなことをした。
関係性はどうしようもないものだが、どうしようもない関係の相手ほど形は立派なものだ。
中身がない分を形でカバーして、互いに「仲良くしていることにする」しかないからだ。
どこにも行けなかったら恋人ではない、仲良くないと思えるのが、好きではない相手だ。
ただ、一緒にいるだけでいい相手。
それはこの話を読んで「私はただ一緒にいるだけでいいの」と口に出して言わない関係だ。
変な人は今の状況をナレーションする。現実にナレーションは存在しない。
そんなことは体験していれば言わずもがなだ。口に出したら怪しい。
一緒にいるだけで幸せだったら、特にどこに行って派手なことをしなくても、ただ一緒にいようとする。
最低な関係は、家族ならば「会う時は食事会やイベントばかり」の関係。
友人でも恋人でも、そんな変な人がいる。
名前も覚えていない人には多い。
この手のカオナシ人間は、何かしたことは覚えているのに相手が思い出せない。
感情が一致していない記憶は、覚えていられないのだ。
すごいプレゼントで喜ばせるとか、豪華なディナーで喜ばせるとか、とにかく、「名のある何か」をやりたがる人は、その人自身は人の記憶に残らない。
「すごい何かの部分」だけ他人の記憶に残る。人が記憶に残らない。
記憶に残る人は、ただ一緒にいるだけで記憶に残る。
何十年経っても、記憶に残る。心に残る。
思い出して励まされる。勇気づけられる。慰められる。
心に言葉を刻み込んでいく。
迎合して話を合わせているだけの人は、心に残る言葉が何もない。
現実と一致して初めて人の心に残る。
感情的記憶と、起きていた形が一致するから人はまともな感覚を持っていられる。
感情的記憶と一致しないのに、形だけ作る人が人をおかしくする。
つまり「傷つくのが怖いから形だけ作っている人」が、人のコミュニケーション能力を破壊する。
人のコミュニケーション能力を破壊しないと「仲良くしているという形」だけ意図的に作れない。
仲良くなるというのは自然なやり取りの結果であって、そもそもその形を作って仲良くなれるわけがない。
迎合するということは、人を騙すということだ。
いい顔をしても相手が自分の気持ちなどわからないのは当然だし、そんな人は疑えば怒り、信じても恨む。
我慢は勝手にしているのに、我慢は偉いと思っているから相手を恨む。
「我慢して言う事を聞いたら喜んだ親」
それは、現実から我が子が消えてくれたから安心しただけなのである。
「お前であるな」というメッセージを子供は受け取る。
つまり、「ここに存在するな」である。
消えた以上、これからも存在してはならない。
いきなり出てきたら「この子がおかしくなった!」と騒ぐ。
本当の我が子が気に入らないから、「消えろ」と責め立てて消したのだ。
親より先に死んだ子は、河原で石を積み続けているのだ。
何度も何度も破壊を繰り返し全部駄目にする。
それでももう一度、石を積み始めるのだ。
親に存在していいのか認めてもらうためだ。親が認めてくれないと自信が持てない。
親に安心させてほしいのだ。
そして、他人は隠す必要もないのに、他人の前でも同じように我慢する。
そして「騙した人」となる。
我慢して癇癪を起し、「人を裏切った人」になる。
正直な人がいれば、「そんなことするのはおかしい!」と言って相手を消す。
本心を言わず、本心を言わせない。
それにより、「仲良しの関係」が作られるのだ。
親子の関係を「これが良い関係」と勘違いしているからそんなことになる。
自分が我慢している時点で良い関係ではない。
それは親を騙すということである。
あなたの子供は別人です、こんな子はいません。
と親に見せているのだ。
親が邪魔だから。
子供が本心で接していると、親も本性が出てくる。その親が嫌い。
本当の親を見たくない。とても良い人ではないから。
だが、嘘をついていてあげると親も偽物の顔をしてくれる。
だから我慢してでも偽物の親を見ていたいのだ。
親子関係は少なくとも子供の側からできることは、破綻することくらいである。
偽の家族をぶち壊す勇気ある人がいて、少しはマシになるのだ。
心理的におかしな家族は形だけは収まっていることがある。
たった一人「あいつはおかしい」と批難される人がいるならば、その人は一番まともだ。
おかしいと言わせないために我慢したら、その人も同化してしまったのだ。
おかしいと言われ続けなくては、まともではないのだ。
全員おかしいのだから。
他人の前で本心を隠し、騙し、恨む。
本心をぶつけたら、もうお終い。
なのに、もう一度誰かと出会っても、また「我慢して本心を隠す」から始める。
破綻のための積み重ねなら何十年でもしてしまう。
それは「家の中の関係」をもう一度繰り返すためなのだ。
少なくとも本人が既に体験済みの「最高の形」を作るためだ。
人は体験学習をする。家の中で「これで良い」と収まった形が、真に信頼し合う関係でなかったら、どうなるだろうか?
少なくとも僕は子供の頃こう思った。
「こんなの仲良しじゃない」
僕が我慢しているから。
親がこれでいいと言っても、僕は我慢しているから仲良し家族ではない。
どうなればいいのかは知らないが、自分が我慢していることは自分がわかるから、「これは違う」とだけはわかった。
本当の仲良しは、自分がなってみるまでわからないのだ。
だから考えるのだ。
本当の仲良しってどんな関係だろう?
少なくとも自分が我慢しているから仲良しだと思えなかったのだから、「一人でも我慢する人がいたらそれは仲良しではない」とわかる。
だから、一人も我慢しない「仲良し」の形を考えるのだ。
そして実行し、体験し、「これだ…!」と泣いて喜ぶのだ。
形だけ作っても、仲良しではない。愛し合ってもいない。
形だけなんて、誰だって作れるのだから。