日本の多くの夫が勘違いしている。
それは、妻が「もう離婚する!」と言い出したら、おしまいだ、ということだ。
長い結婚生活の末、それまで我慢していた妻が「離婚する」と言い出す。
ずっと冷えた関係が続いてきて、離婚すると言うならばもう心は完全に離れている。
だが、離婚の二文字が出た途端、慌てる夫がとても多い。
「じゃあどうしたらいいの?」と言い出す。
恐らく、妻は悲しくなるだろう。
「離婚する」と言われてそんな返答が返ってきたら、更に離婚したくなるだろう。
「じゃあ」ではない。
もう終わったのだ。
結果が出てから、「この結果は困るから、どうしたら結果を変えてくれる?」ということだ。現実が受け入れられない。
何よりも、これまでの妻のことも、今の妻のことも、何も受け入れられない。
これまでの関係があり、我慢してきた妻の気持ちがあり、今に至っている。
結果はこれまでの妻がいてそこにある。
だからこれまでの妻を受け入れるならば、その結果に納得しなくてはならない。
もう離婚したいのだなと。
つまり、「もう自分のことは見限ったのだな」と。
なぜそうなったのだろうか?
今まで何を考えてきたのだろうか?
どんな気持ちだったのだろうか?
と妻の過去を考えず、そこを無視。そして今も無視。
そして「じゃあどうしたらいいの?」と言い出す夫の話を、よく聞く。
妻にとっては今更だ。
もう何も受け入れてもらえない感があるだろう。
「この人私がいなくてもいいんだな」と思えるだろう。
妻を一切無視して、気持ちを全く見なかった夫。
心に無関心な相手といると、苦しくなる。死にたくなる。
だから一緒にいるのも嫌になる。
妻は夫に自分の存在を見て欲しかったのだが、夫はそんなことより自分のことが大事。
「離婚」という形は困る。
自分がきちんとできていないみたいになる。
みたい、ではなく、そうなのだが、妻は人生のオプションに過ぎないから、「立派な人生」に傷がつくと困る。
ある奥さんの夫は、大変優秀な人だった。社会的には。
妻に褒めて欲しいマザコンであった。
会社で表彰されると、それを妻の目につくようにし、妻が褒めてやらないと今度は母親の元に褒めてもらいに行ったという。
皆の子供をやっている夫なのだ。
夫は「君は頭がおかしい!」と言い続け、彼女はノイローゼになった。
夫は頭が良くない。
「こいつ馬鹿なのかな?」と恋人に思うことは僕もあるが、僕は僕が馬鹿ではないので、相手のしていること、考えていることはわかる。
だから別に腹は立たない。馬鹿であっても可愛いということはある。好きか嫌いかには関係ない。
結婚したら恋愛は終わり、と思っている夫が多い。
釣った魚に餌はやらない。
だが、餌をやらねば魚は死ぬ。
ごっこ遊びのように人生を作る。
結婚したら「もう結婚はしたから、次は…」と立派な人生にするための次のアイテムを探す。
「もう結婚はしたから、お前との恋愛は終わり。お前は次は良い奥さんやってね。俺は良い旦那さんやるからね。」
そんな感じで、形だけ作る。
良い旦那さんとは、妻を愛する人だ。
夫が良い夫かどうか決めるのは、妻だ。
だから妻に認められない夫は失格だ。
久々に言おう。馬鹿丸出しの夫が日本には沢山いるのだ。
自分が良い夫かどうかは、妻が決めるに決まっている。
父親は子供に対する人。
夫は妻に対する人。
父親が良い父親かは子供が決める。
夫が良い夫かは「妻が満足しているかどうか」で決まる。
妻が満足していないならば、夫は失格だ。
結婚は夫婦の生活なのだから。
妻が良い妻かどうかを夫が決めるならば、夫が良い夫かどうかを決めるのは妻だ。
僕には到底信じられない話だが、結末としてそのような形になる夫婦が非常に多い。
離婚するかしないか、離婚の二文字が出たか出ないかは別としてだ。
これまでの自分の夫ぶりの結果を、受け入れるしかないのだ。
離婚と言われて、「じゃあ」と結果を回避することばかり考える夫は多い。妻の心はどんどん離れていく。妻がどんどん孤独になっていく。
ということが、わからない夫が多い。
都合が悪いことはだんまり。話を聞かない。
何か言われれば理由をつけて押さえつける。
ということを続けたら、離婚したいと言われた。当たり前だ。
「自分は良い夫だったのに」という夫ばかりだが、妻が離婚したくなっているのに良い夫なわけがない。
それは「夫が夫を評価した結果」だ。
ならば妻は離婚しても、夫は夫と結婚していればいい。
人の心は徐々に動くものだ。
失いたくないならば、相手に我慢なんてさせていない。
気持ちを聞かずにいれば、段々と相手は苦しくなるに決まっている。
何を考えているのかわからなくなるのが嫌ならば、その都度きちんと聞いてきている筈だ。
ところが、「その都度誰が正しいのか」を決めてきた夫婦が多い。
最初から、支配しかない。
立派な人生に傷がつくのが嫌だから、離婚したくないだけ。
愛があれば、こう思う。
「今まで離婚を考えていたなんて、ちっとも気づかなかった…!」
これまで俺は何をやってきたんだ。
妻の気持ちをちっとも考えていなかった。
そんなに「悩んでいたなんて」とこれまでの妻の気持ちを思って懺悔したい気分になるだろう。
一緒にいてそんなに苦しかったのに、夫の自分が気づきもしなかったのだから。至らなさに泣きたくなるだろう。
と、今僕が想像すると思える。
口に出してはいけない言葉というものがある。
こんな時には、ついこう思っちゃう。ということがあっても、流石に口に出したらおしまいだ、その時いくら腹が立っても、相手を思いやれば流石に言えない。
その言葉は「誰が食わせてやってると思ってんだ!」である。
つい言いたくなる時はあっても、それは言ってはいけない。
なぜならば、特に専業主婦の妻であればライフラインの問題となり、妻は命の危機を感じるからだ。
奴隷のように思えるだろう。
そして妻に言い返せることがあるならば「誰が子供を産んだと思ってんだ」しかない。
生活力を武器にしたら、男としておしまいだ。
それだけは言ってはいけない。
社会での立場が違う。家での役割も違う。
だからそこだけは言ってはいけない。
これを言われて傷つかない妻はいないだろう。
ところが、そもそもこの内容の結婚生活をしてしまう夫は、「あの時はつい言っちゃったけど…」と都合よく気にしない。
そして「でも自分はこんなに優しい男だから」と後から何かするという完全に無駄なことをする。
これは僕がよく書くヒステリー女子のパターンだ。
さっきのなに?あの時こう言ったよね?
と聞きたくなるほど、態度が変わる。
自分が言ったことが相手にとってどんな意味になるのかすら、考えない。
そんな人もいる。
相手の気持ちを考える人は、そもそもそこまでにならない。
思い通りにするための人形と結婚した人は、「思い通りにならないならいい!」と相手に怒りさえ感じる。
「いい子にしてるんだから、ちゃんとお母さんやってー!」
という夫がいて、妻はついに「この男、マザコンだった」と気づくのだ。
妻の不満と、母の怒りの区別がつかない。
どちらに対しても同じ立場で受け取る。
だから「俺はちゃんとやってるのに!」という不満が、なぜか妻に対して出てくる。
「話を聞いてよ!」と言われても「俺はちゃんとやってる!」と言い張る。
妻が不満なのに「ちゃんとやってる夫」は誰と結婚しているのか?
それは「自分の中の理想の夫」だ。
自分と結婚した夫。
ナルシストなのだ。
自分の評価→自分
妻の評価→自分
この状態で「ちゃんとやってる!」と言うのだ。
妻なんかいなくていいのだ。
妻は形だけ、子供も形だけ。
形だけきちんとするから、お前たちもきちんとやれ、なのだ。
誰に見せているのか?
自分だ。
ほら、こんなにちゃんとできた!俺は悪くない!
ままごとだ。
現実を使ったままごと。
だが子供だけは現実に存在して、いなくなることはない。
僕には想像もつかないことだが、何十年でも妻を無視する夫がいるようだ。
無視とは、「妻の気持ちを見ない」ということだ。
「こんなにちゃんとやったのに、離婚なんてひどいことを言う」と夫は思う。
そんな風に思えるくらい、妻に無関心なのだ。
「離婚したい」と言っているのに、それを「酷いこと」と思われる。
妻はもう逃げ場が無くなる。
普段の気持ちを聞いてもらえない。もう嫌になったらそれも批難される。
そして夫は何も悪くないことにしなくてはならない。
死にたくなってくるだろう。
「お前は存在するな」
と言われているのと同じだ。
完璧な「自分」を求めた。
自分の自我の代わりに、自分目線で自分を見て、自分が自分に言いたいことを代わりに言ってくれる妻を求めた。
自分は自分しかいない。
自分目線は自分しか持ってない。
離婚と聞くと慌てて言うことを聞く夫もよくいる。
僕は正直、馬鹿だなと思う。
どんなにひねくれた女子でも女子が可愛いと思えるのは、好きになると尽くすからだ。
こと女子は男子を好きになると、そこに集中する。困るくらいに。
料理がド下手だったり、頭が悪かったり、どこかズレていたり、そんなことがままあっても、女子だから可愛いという部分がある。
それがあって、他が「まあいいか」になるのだ。
妻は家にいることが多い。
会話ができないという苦痛を多くの夫が分かっていない。
子供相手に話をしても、それは会話になっていない。
夫しか聞いてくれる人がいないのに、夫が聞かずに誰が聞くのか。
何よりも、なんのために結婚したのか。
「俺はちゃんとやってる」の夫たちは、本当に「ちゃんと」やっているのだろうか?
信じたいところだが、結果から見るに妻を大事にしていない。
「こういう妻ならば、早く家にも帰りたくなるが」と結婚してから思うことではない。
残念ながら、僕はこの手の恋愛すらしたことがないので、一体中身で何をやっているのか、特に男が、皆目見当がつかない。
「バカかてめえは!」と言いながら、結局は大事にしてやるものではないのか。
夫なんだから。夫という存在は、妻を愛しているから夫になれているのだから。
妻は妻で、考えた方がいい。
結婚は相手が見初めてくれないと、できない。
なのに、自分が夫に惚れ続けられないことをなんとも思われないならば、夫は結婚ではない何かの関係をやっている。
紙っぺらの上では結婚だが、それは結婚ではない。
結婚ごっこでもない。
人生ごっこ、だ。
完璧なレールが作られていて、無理やりでもそれに乗るのだ。
「こういう人生になったら、すごくいいと思う!」という理想の人生があって、それに沿うように道具を探しているのだ。
無理やりにでも、その軌道を変えないように、自然を壊しているのだ。
人生はどうなるかなどわからない。
その時その時、思いがけないことが起きるから。
まだ自分の人生を生きた人間はいない。
だから他人の理想や社会の理想がどうであっても、自分自身にさえ、何が自分の人生の理想になるかわからないのだ。
「こんな風になれたらいいな」と思い描いても、実際にその場に直面したら、やりたくないかもしれないのだから。
ならば自分の人生は他にあるのだ。
「やりたいこと」は「やってみたいもの」ではない。
「なりたいもの」は「なってみたいもの」ではない。
どちらも苦労があるのに、それでも選びたい。
それが「やりたい」「なりたい」だ。
「やってみたい」「なってみたい」は、「きっといいに違いない」と思って体験してみたい「憧れ」だ。
そんなものは、ディズニーランドかキッザニアにでも行ってやればいい。
やりたいかどうかなんて、その場にならねば自分にだってわからないものだ。
だから何が起きるかわからないのが人生で、だからワクワクするのだ。
自分自身が、理想や予想通りのことを実際の場面で思わないものなのだから。
そして「やれたらいいのに」「なれたらいいのに」になろうとした人が、最も損な人生を送る。
それは自分自身の憧れではなく、何かしらの劣等感から生まれた理想だから。
やりたい確率はゼロ%だ。
やれてもなれても、満足なんかするわけがない。
「もしそうであったならば、過去に自分はもっといい扱いをしてもらえただろうに」
と自分自身が嘆く、過去の思い出なのだ。
たった今も
過去の思い出を生きている人は沢山いるのだ。