願望が要求化している
言っていることとやっていることが矛盾している
これが神経症者であるが、よくよく考えるとそんなに不思議のないことである。
願望が要求化、これが「好かれたい」だとする。
願望は願望なので、夢見ているだけである。
実際の行動は「尊敬されたい、感謝されたい」である。
この場合、どうなるか。
まず、言葉では「あなたが好き」とか「好かれたい」とか言う。
それが願望である。要求化しているから口に出すのである。
実行することは口に出さない。願望は目的になると行動に起こすだけなので口には出さない。
つまり、口に出して言っていることが「叶う」と思っているのが「願望が要求化」である。
好かれたいなら好かれたいと言わない。好かれるように行動するのである。
しかし、行動の方はどうか。
「尊敬されたい、感謝されたい」である。
すると、行動は自分を良く見せようと装ったり、きちんとして優秀なところを見せようとしたり、また相手が困っていたら役立ってあげようとする。
結果、どうなるか。
「へー!すごいね!」と尊敬される。目的は達成された。
「本当にどうもありがとう」と感謝された。目的は達成された。
これでもう万事うまく終わったのである。
だが、なぜか「これから願望が叶う」と思っている。
自分が目的として行動に起こしたことは、もう叶ったのである。
もう自分の目的は叶ったのだから、追加で口に出した願望まで叶わない。
実際、神経症の女子に「好かれた場合」(実際のところ好意があるというよりも、尊敬したり感謝されたりするから喜んでいるだけのように思える)先のようなことが起きる。
好きだ好きだと言いながら、目の前ではいつもきちんとして緊張している。
立派な人だと思う。本当にすごいことができる人もいる。
心からすごいなと思うし、色々良くしてくれるから感謝もしている。
どうもありがとう。本当に立派な人だ。と思う。別に悪いことは何も起きていない。
それ以上は何もないが、別に嫌うわけでもない。
親切で立派な人だなと思うだけである。それも別に悪いことではない。
「あの人は本当に親切で立派な人だ」
これは褒め言葉である。本人が望んだ「褒められる」も何度となく叶っている。
何も悪いことは起きていない。
だが、そのうち恨んでくる。
自分の気持ちをわかっていないとか言い出す。
好きだと言ってはいるが、だから親切にしてくれるんだなとはわかる。
ただ、こっちから好きになる要素がない。
常に立派な人だ。常にきちんとしている。本当に自分とは比べ物にならないくらい、いつもいつも立派な人だ。
こんなにいつもきちんとしているのだから、目の前にいて平気で腹減ったとか眠いとか言っている僕など、随分ぐうたらに見えるだろう。
嫌われることがあっても、好かれることはないと思う。
これだけ立派な人なんだから、他でもやっていける。他の人も皆が賛辞するだろうから、もっとすごい人を選んだ方がいいと思う。
「日常からこんなにきちんとしている人がいるんだ!すげえな!疲れないんだ!」と思う。
僕は家の中にいても、友人といても恋人といても、そんなにきちんとしていない。
そんなに親しくないからこそ、目の前ではきちんとしているものである。
親しくもない人の前で普段の顔は出さない。
そして段々と安心するほどに、少しずつ普段の顔になっていくものである。
遠慮がなくなる。とは言っても、横柄な態度になるわけではない。
正直になるのだ。
好きだ、というのもわかった。そうなんだ。
そして立派な人だなあ。すごいなあ。親切な人だなあ。と思う。
でも親しくならないようにしているから、親しくならない。
親しくならないとは、普段の素直な顔を見せないということである。
自分の本心を隠したいうちは、目の前で何か気になっているようだから聞いてみても「いいえ、なんでもないです。」と言う。装うと言うと言い方が悪いが、まだ親しくもないうちはそんなものである。
取引先の相手のような付き合いをするならば、そうなる。
目の前に置いてある食べ物を見て、何か思っても黙っている。それが親しくないうちの付き合いである。
個人的な関係ではない時は、そんなものである。
個人的な関係になると違う。
「これ変な形してるよね。魚みたい。」
そんなことを言う。
思いついたことを言う。
素直な子供のように。心の中で思い浮かんだことを教えてくれる。
それが「その人の自然な姿を知る」ということである。説明されるわけではない。
そのままでいる姿を見せてくれて、教えてくれるのだ。
何を考えているのか。
例えば、神経症女子が今食べるものをじーっと見ているので「なに?どうしたの?」と聞くと、いきなりキレたりする。
なんだろう…と思っても、黙って何も気づいていないふりをしていなくてはならないのだ。
こっちも気を遣わなくてはならないから、思ったことはそのまま言えない。心の中で考えるだけにして、目の前で起きていることには気になることがあっても触れない。
だから一体なんなのかちっともわからない。どんな人なのかいつまで経ってもわからない。
同じ場面で、心を開いてくれる女子に「なに?どうしたの?」と聞くと、今起きていることを教えてくれる。彼女の中で起きていることだ。
「葉っぱの緑にアイスの黄色が映えて、綺麗だなーと思ってたの」
なんだそれ、変なこと思うな、と笑うと
「だって素敵じゃない!コントラストが!」
と、どんな風に素敵に思ったのか教えてくれる。
そうなんだ。それが素敵に思えるんだな。
嬉しそうにアイスを眺める姿を見て、「今綺麗だなーと思っているのだな」とわかる。
ここで「こいつはこういう風に思うやつなんだな」と知る。
それだけである。
そうなんだ、と知った。そして「かわいい」と思う。これが「好きになる」である。
知るほどに好きになる。
それだけである。特にすごいところも見ないし、感謝するほどすごいこともされない。
なにかしたいときは、相手が勝手に何かする。
これが尊敬や感謝を求めるのではなく、ただ好きになり、好きになって欲しい関係である。
好かれたいのではなく、尊敬されたい時は違う。こうはいかない。
黙っている。教えてくれない。それが「自分を隠す」ということである。
何を考えているのか教えない。
だからどんな人なのか一緒にいてもいても、わからない。
時々、意図せずに垣間見ることもある。
かわいいな、面白いな、と思うから、もっと知りたいと思っても
「絶対に教えてたまるか」
という姿勢を崩さない。そんなことより、僕に尊敬され遠くから賛辞されるような人でありたい。
役立つことをしてくれて、感謝される人でありたい。
だから好きになられるようなことはしない。
好かれたいとは言うが、好きだとも言うが、好きになるために必要なことはしてくれない。
「自分を隠さない」ということだけはしてくれない。
神経症者は優越するために社会に出てしまった、とされる。
本当だ。優越することは既にできている。頑張っているのだから、ちゃんと優越しているし、賛辞されている。
やったな。良かった。
そして優越し続けることが目的なのである。
自分で気づいていないのだと言われている。
つまり、自分が好かれたいと口に出しながら(口に出したら思ってないだろ)、行動は優越するための行動を取っていると気づいていない、とされている。
しかし
本当か?
嘘じゃねえの?
これが僕の率直な本音である。
自分が行動する前には、必ず「よし、こうしよう」という意思の確認がある。
だから知らないわけがない、と思っている。
もし「好かれたい」が願望ならば、それを目的にする場合「嫌われたくない」という願望も出てくるのだから、嫌われないようにするだろう。
実際の行動でそうするだろう。
好きです、好かれたいです、を口に出すのは完全に逆効果である。だから口にしない。
逆になるだろう。目の前では「私ってすごい!」と何かうまくいくと口にするかもしれない。
そして行動では、自分を素直に出すだろう。
昔話をするのではなく、たった今起きていることを話すのだ。
起きていること、つまり「自分の心の中」の話である。
「私の心は今こんな風ですよ」と説明したら嘘になる。
自分を説明などできない。他人ではないのだから。
人間はいつもいつも、自然にしていてすごいことを思わない。優劣がつかないことばかり考える。
くだらないことばかり思いつく。
その「くだらないこと」をそのまま口に出すのが、親しい関係だ。
ひとつ言えることがある。心の中で言葉を喋りながら、黙って人前にいると確実に胡散臭い。
脳内で言葉を喋っている時は、目の前にいれば様子が違うから見てわかる。
その「怪しい素振り」をすると人は警戒する。自分を疑ってくる。だからやらない。そして失礼だ。
目の前に人がいるのに、口に出さないからと言って脳内で言葉を喋るのは本当にマジでスパイ行為もいいところである。
そんな失礼な真似を、人を前にしてするものではない。
人が不安になるし、不愉快になる。
恐らくは、この無礼な真似を「黙っているからわからない」と思っている人は、誰の前でも平気でやっているのだろう。
人が目の前にいるのに、心の中で聞かせたくないことを喋っていたら、確実に味方でも仲間でもない。
そんな人は、誰だってお断りだ。何を考えているのかわからない。信用ならない。
「どうしたの?」と聞かれるかもしれない。
「何考えてるの?」と聞かれるかもしれない。
不安または不愉快だからだ。
これは単に礼儀の問題であり、難しい話でも心理の話でもない。単純に失礼な真似だ。
自分だったら、目の前にいる人が心の中で自分に聞かせないように言葉を喋っていたら不愉快だろう。
何を考えているのかわからないのだから。
不愉快以上に、相手を不審に思うだろう。それは当たり前である。
口に出そうが出すまいが、言葉を喋っている時は同じように脳を使っているから様子に現れている。
わからないわけがないのだ。
信用しない人の前で、味方でも仲間でもない、そんな人の前でするものだ。
心の中では言えないことを考えている相手の前でするものだ。
ちなみに、本当に親しい関係でこんなことは一切起きない。
「どうしたの?」と聞けば、すぐに返事が返ってくる。
教えてくれる。今何が起きているのかを。
現実に起きていることはひとつである。事実はひとつである。
だから脳内で喋っているのに口に出さずに黙っているということは、現実の自分を人に隠すということなのだ。
現実と触れ合わず、現実に目の前の人と親しくなることを「拒否している」行為である。
想像してみればわかる。
とはいえ、こんなことは好きな人にも好かれたい人にもやらない。
だから、全く問題はない。
「親しくなどなりたくない」
そんな時にやるものだ。
口に出したらまずいことを考えているような、嫌いな相手にするものだ。
口に出せないことを腹の中に抱えているのだから、現実に仲良くなりたくはないのだ。
その行為自体、険悪になる行いなのだから。
好きな人に、脳内で喋らなくてはならないことなど考えない。
そして、脳内で相手に言えないことを考えながら
「仲良くしたいです」
と口に出して言うのが、嘘つきのスパイである。
そんなわけがない。腹の中で違うことを考えているのだから。
そして、それを信用してくれる人を「バカにしている」のである。
こんな無礼な真似をして平気な輩は、既に地獄にも落ちているだろうがそこは実はどうでもいいのだ。
目的は「優越すること」だからである。
目の前にいて、相手に言いたくなったことがあった。
「ごめん、ちょっとそれやめてもらえる?」
これが言えないのが、敵意が強すぎる人である。
気に入らないことがあると、敵だからすぐに強い敵意が生まれる。
口に出せるのは相手が好きだからである。
相手のことを気遣うから、言い方も優しい。別に腹も立てていない。
だが、敵を相手にしていれば違う。
憎い相手が同じことをしたら、許せないものである。
だから、心の中で唱えなくてはならないのだ。
普通、腹の中で別のことを考えなくてはならない相手とは、できるだけ会わない、関わりたくない。
しかし、どうやら尊敬されて感謝されたい人は、相手は嫌いでも尊敬してちやほやしてくれるならば、相手は誰でもいいのだ。
尊敬され感謝される。という喜びが最優先になっているのだ。
優越することが一番らしい。
正確には「優越感」に浸ることだ。
だが、自尊心の高い人は誰のどこでもいいところを見つけてよく賛辞する。
だから自尊心の高い人を前にすると優越感に浸りやすいのではないだろうか。
尊敬している人と、尊敬する部分がある、は別である。
尊敬する部分は誰にでもある。自分より必ず優れたところがあり、また知らないことを知っている、経験したことのないことを経験している。だから誰を相手にしても尊敬する部分は見つかる。
しかし、人は日常的に一緒にいるような、友人や恋人を目の前にちやほや賛辞などしない。対等な立場だからだ。
対等な立場の人には、ちやほやしてもらえない。
だからこそ神経症者には「対等な立場が不要」なのだ。
全ての関係を上下関係にしなくてはならない。
何も不思議はない。
生きる目的が違うのだから、特に問題もない。
本当の目的に気づいていない、と言われているが、一体どういうことなのだろうか?
不思議である。
もし本当に好かれたいならば、そんなことはしない。
口に出している時点で、そんなわけがないのだから。
願望が目的になった時、実行に移している。
だから言葉にして出すことはない。
好きって言うから好きなんだ。と思う人は、恋愛も失敗しかしていないことだろう。
好きになればなるほど、好きとは言わないものである。
「付き合ってください!」は、西洋から来た契約文化の影響だろう。
昔はそんなことはしなかった。良くない傾向だ。
好きという気持ちをいかに情緒的に伝えるかという方が重要で、契約を取れるかどうかは問題ではない。
「好きだ」と言われたら、「付き合いたいの?」と聞く契約大事の人がいる。
これでは恋愛にすらならない。
取引である。
恋愛の場合は、「どんな風に好きなの?」と聞く。
どんな風に好きなのか知れば、恋愛感情で好きなのかどうかはわかる。
営業成績が気になる人は「で、付き合いたいってこと?」と聞く。
これは、全く情緒が無い人の話である。
ここでもう諦めた方がいい。この反応は感情がない人の反応だ。
ドキドキするとか、時に昨今では「きゅんきゅんする」という表現が用いられるような気持ちがないのだ。
この「きゅんきゅんする」の言葉が僕は嫌いなのだが、なんと年頃になってきた娘が使っていたので、僕はこれも時代なのかと諦めた。
もし、気持ちがあれば、たった今目の前で告白されている時に「やった!嬉しい!」と喜ばない。
今ここで起きているのだから、もっとドキドキする。
今自分の身に起きているのだから。
とりあえず、恋愛契約の営業マンに出会った時には、目的は成績だということを覚えておいた方がいい。
尊敬され賛辞され感謝される、という目的で相手と接していない場合は、やたら褒められたり感謝されたりすると気分を害する。自然なものがいい。嬉しそうしているならいい。驚いているならばいい。それが自然に出てきた反応ならばそれがいい。
対等な立場で起きないことは、上下関係を作る。
上下関係になりたい相手ではないならば、それは不快なものだ。
そして相手をもっと知りたい、相手に関心がある時は、ただ自然な姿を知りたいだけだ。
好かれようとすれば好かれるし、尊敬されようとすれば尊敬される。
神経症の人は人間関係がうまくいかないと言うが、実際にはもううまくいったのだ。
今までに褒められて尊敬されたことが一度なりともあるだろう。
感謝されたこともあるだろう。
「すごいね!」「ありがとう」
これで既に目的は達成しているのだ。
だから、いいじゃないか。
ずっとずっと褒め続けてもらうにしても、同じ人を相手にしない方がいい。
やらなくてはならないことが段々大きくなるから。
好きになってもらうならば余程簡単だ。特に何もしなくてもいいのだから。
僕は人を好きになることはある。ただ好きになる。
好きになったから、僕自身は自然体でいる。普段通りにする。
だが、生憎僕自身が好かれない時は、相手はいつも堅苦しい態度で、きちんとした余所行きなのだ。
その代わり、すごいところを見せてくれたり、有難いことをしてくれる。
どうもありがとう。本当にすごい人だ。
と心から思う。
彼女が求めたものはそれで、好きになってもらいたいわけではなかった。
心を許すことはなかった、という終わりはよくある。
僕に愛されたい人もたまにいて、いつも自然体でいてくれた。
だから、そんなものは恋愛感情があったかなかったかの話である。
彼女は「変な人」と言いながら関心を寄せてきた。
好意があるからだ。
尊敬されたい人、優越したい人は違う。
必ず問題になるのが、どっちが正しいか、悪いか、という勝負事である。
最初から目的がそれなのだから、別に不思議ない。
この手の人に対して、口先で「好き」と言っているからといって本気にしない。
行動を見ろ。そんなわけないのだから。
好きなら好きになってもらいたいに決まっているのだから。
好きになってもらいたかったら、自分がわかるようにしてくれる。
だから、互いに親しくなりたければ勝手にそうなるのだ。
そしてそうでない場合は、自然に破綻するのだ。