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嫌われる勇気、毒親に欠けている勇気

 「嫌われる勇気」というアドラーの言葉が今になり流行っているが、嫌われる勇気がないのが毒親である。

 我が子であっても信用できない。

 我が子であっても味方になれない。

 誰も守ることができず、すべての人から自分の身を守る。

 誰のためにも傷つきたくない、それが毒親である。


 これを乗り越える勇気があれば、自分の人生が変わる。

 というポイントを、今回は書く。


 僕は身近な友人にも、子供を虐待している親に対しては指摘をすることがある。

 だが、どうあっても「自分は悪くない」と思うのが毒親なのだ。

 自分がしたことには理由があった。

 当たり前のことを特別なことのように扱う。



 真の親になるために、必ず乗り越えなくてはならないことがある。

 我が子を受け入れることである。


 毒親の子は、自分もまた毒親になる。

 同じことが繰り返し続いていくのだ。


 だが、もし自分が子供に対して毒親であった、子供の心をちっとも考えていなかった、と気づいたならば、人生が前に進むか後ろに引くかの岐路に立っている。


 結論から言うと、子供を受け入れることである。

 自分が親に対して我慢してきたのと同じように、子供は自分に対して我慢してきている。

 同じなのだ。


 子供を見捨てる親は、子供のことより自分のこと。

 子供を疑い、恐れているから「こんな子に育てた覚えはない」「仕方なかったんだ」など、子供が不満を持つことも怒りを持つことも、恨むことも許せない。

 自分が親を恨んで親を悪者にしてきたら、当然我が子から同じ扱いをされても文句など言えない。


 二重束縛は、「嫌なことをしたのに理由をつけてなんでもないことにしてもらおう」とする親が行うことである。


 最初は子供に我慢をさせる。無力な子供はどうにもできない。
 我慢して我慢して生きる。

 そしてある程度の年になると、今度は親が不安になる。

 子供のことを考えてこなかった親ほど、子供が何を考えているのかわかっていない。

 「自分の子供なのに何を考えているのかわからない」

 だから子供を恐れる。

 子供はさらに傷つく。


 子供を信用しない親は、どこまでも信用しない。


 だが、子供の仕返しや恨みを恐れるのが毒親なのだから、逃げる毒親にいつまでも言い訳されてきた人は、自分が同じことをしなければいいだけなのだ。


 子供は無条件で親が好きである。

 だからこそ、子供がもし自分を恨んでいたとしても、憎んでいたとしても、それは「自分がやったことに相応しい程度」である。


 毒親がしてしまう子供を抑圧させる行い。

 それは「自分の意志や感情を持たせない」ということである。

 親が自分自身にとって望ましい感情を抱くように、コントロールしようとするのである。

 自由を奪われた子供は、本心を認めることに罪悪感を覚え、自分を失っていく。

 「恨ませてくれない親」である。


 どこまでも、自分はいい人でいようとするのだ。

 「嫌われる勇気」


 これまでの行いにふさわしい扱いが待っている。

 全ての行いは自分に返ってこなくてはならないのだ。


 特に、子供が自分に対して抱いていた本心ならば、それが憎しみだろうが怒りだろうが、すべて受け入れるのが真の親である。

 例え罵倒されても、嫌われても、去って行っても、それだけ子供が苦しんでいたことの証なのである。

 それだけ子供が自分を求めている時に、何も与えずにいたという証拠なのだ。


 「憎しみをぶつけられる分だけ、自分がどれほど必要とされていたのかを知る。」


 その気持ちで、子供からの恨み憎しみを一身に受け止め、言い訳せず、ただ本心のままの子供を受け入れる覚悟をするのだ。


 ちなみに、僕は既に覚悟して生きている。

 「今更いい親だなんて思われようとするな」

 ということである。

 「ちゃんとしてあげられなかったかもしれない けど お前のことをちゃんと考えていた。」

 そんな感じの言い訳をされて、子供は苦しむ。

 自分がなぜそんなことをしたのか、と子供に「許されようとする」のだ。

 許されようとする時点で、既に子供を恐れていることはわかる。子供には確実に伝わる。


 僕は最近、間近である子供を見ている。

 昔の自分を見ているようで、本当に辛い気持ちになる。


 子供を虐待しながら、さらに「自分がいかに可哀想な目に遭っているか」と、母親から受けてきた仕打ちを誇示する母親。

 僕はその母親がたまたま友人なので、本人のために毒親についても教えてきた。

 だが、間違いだったと思った。

 友人には愛がない。思うより遥かに冷酷だった。

 自分は毒親の子だった、あんなひどい目にあわされてきた、とわかったら、「それを子供に教えてしまう無神経さ」の人だったと知った。

 自分が母親、つまりその子の祖母にどんな目に遭ってきたのか。

 そんなことを平気で話す人であった。


 僕は、子供に対して自分の母親がどんなにひどい人かを被害者ぶって説明しない。

 「あのババアは昔からうるさいんだ」と言いながらも、笑っている。

 僕は親から心理的に自立しているので、親の被害者だとも思っていない。

 僕だって、子供に対して満足にしてやれているわけではない。


 僕は子供のころ、自分が何もされていないのに父や祖父母の悪口を聞かさせれるのが嫌だった。

 母を可哀想な人だと思って受け入れてあげないと許されないのが嫌だった。

 僕は父も祖母も好きだった。

 何よりも、「僕は父に嫌なことなど一切された覚えはない」のだ。

 父は僕をかわいがった。僕は母より父の方が好きだった。

 母より祖母の方が好きだった。

 母が子供の頃に何があったかなど、僕は知らない。

 わかるわけがないことを話し、僕にとっては大事な存在である父や祖母を悪く思わせ、僕が会いに行くことも許さなかった。

 自分が恨む人を、僕にも恨むよう強要した。

 だが、恨みや憎しみは経験から生まれる感情である。

 話だけ聞いても、体験がないのでそんな感情は生まれてこない。

 母は話だけで感情を操ろうとして、必死で洗脳しようとしてきた。


 僕は洗脳されなかった。


 母にとっては祖母も嫌な母だったらしいが、僕にとっては嫌な祖母ではない。

 親子喧嘩に僕を巻き込み、夫婦喧嘩に僕を巻き込む。

 誰が誰かわかってもいない。


 母さえあんな人でなければ、僕は祖母とももっと会えた。

 母よりマシな人しかいなかった。母が一番僕の経験の中では最悪な人だったし、故に母に対しては憎しみも怒りも本物の感情を持っていた。


 母は最期まで「自分は良い人の役」をやりたがった。

 言うてなんだが、祖母より早死にして当然の人だった。


 「お前ひとりのために家があるんじゃない!」

 「我儘も大概にせえよ!」

 情けない、と母を見て思っていた。

 僕は一族の運命を受け入れて生きている。


 よって、僕は母にされた仕打ちを子供にはしない。

 子供が大人になり、僕を恨んで怒りをぶつけてくることがあるかもしれない。

 例えそうなったとしても、僕はそれを受け入れる。

 もし子供が愛情不足だったとしたら、それはすべて親の責任である。

 憎しみをぶつけられることにより、子供を受け入れて責任を取るしかないのだ。


 やってしまったものはしょうがない。

 自分には悪いことをしたつもりがないならば、その時子供のことをちゃんと考えていなかったのだ。

 自分がいなくてはならない存在なのだから、考えていなかったことも自分の責任である。


 子供にとって嫌な親だったならば、「なんとかわかってもらおう」としないこと。

 我慢してきた子供に対して、まだ自分のことをわからせようとすることは、さらに我慢しろと強要ししているのと同じなのだ。

 その際、自分が過去にどんなひどい目にあったのかを誇示するならば、心理的虐待である。

 子供の苦悩と葛藤が如何なものか、毒親の子がわからないわけがない。


 わからないわけがないのに、自分が親を悪者として批難しながら「自分は良い親として許されよう」としないことだ。

 親にした仕打ちは、子供に返してもらえ。


 何をしたかはその人次第。

 自分がしたことはちゃんと返ってくる。


 自分が無視してきた子供の本心が、本当の我が子が、「望ましい形でないなら嫌だ」と思うならば、それこそ毒親である証拠だ。

 我が子に嫌われるのが怖い。

 それは子供を信じていないからだ。


 理由なく親を嫌う子供などいないことは、誰もがわかっていることだ。

 子供が自分を恨んでも嫌っても、必ず理由がある。


 自分の都合を一切押し付けない、言い訳しない、ただ一方的に子供を受け入れてあげる。

 それが、本来親がしなくてはならないことなのだ。


 「この子にならば何をされてもいい」と受け入れる。

 それだけ苦しませてきたのは自分なのだから。


 親が子供を無視して傷つけてきたならば、その時既に自分は子供に受け入れてもらっている。

 子供が我慢した分だけ、親は子供を親代わりにして受け入れてもらってきたのだ。


 だから、今度は自分の番なのだ。

 今度は、愛憎という形で「自分が与えた歪んだ愛情」を返してもらう番なのだ。


 毒親は子供にとっては嫌な親だった。悪者だった。

 だが、親は自分を悪者だと思う子供を「恐ろしい」と警戒する。

 全て自分に理由があるのに。


 逆らうことのできない時期に、我慢させてきたのだ。

 自分が押さえつけていた感情の波は、自分に向かって押し寄せてくるのが当たり前なのだ。


 それが自然なことなのである。

 「悪い親」として生きていく。

 「悪い親」として今度こそ子供の気持ちを考えて生きていく。


 それが毒親が乗り越えなくてはならない「嫌われる勇気」である。


 「悪いことをしてしまった相手にも、良い人だと思われたい」

 誰彼構わず好かれたがる。

 ずるい人にもいい人に思われたい。自分がずるい真似をした相手にも理由があるから仕方ない、本当はいい人だと思われたい。

 何をしても自分だけはいい人だと思われたい。


 それが毒親である。


 僕は毒親ではないが、何もかもうまくできてきたわけではない。

 過去の過ちを常に受け入れ、自分自身が自分に対して正当な裁きを下し、自然をあるがまま受け入れる覚悟をしているだけである。

 他人ならば話は違うが、自分の子供となればすべてを受け入れて当然なのだ。


 僕は、過去の話をあまり書きたくないと思っていた。今も思っている。

 僕が母にする仕打ちは、僕に戻ってきても文句は言えないからだ。


 やりたくないことはやらない。

 僕も最近はそう思うようになった。

 僕は誰も恨んでいないから。


 子供は僕を見ている。

 僕が面倒を見ることになった祖母も、会いに行けば既に僕もわからず、僕に怒鳴ったり叩いたりする。
 娘はいたたまれない様子で僕を見ていたが、僕は祖母に優しく話しかけ続けた。

 娘が僕を心配した。僕は祖母の悪い話など一切しないから、もっと優しくしてもらえると思っていたのだろう。あんな辛辣な仕打ちが待っているとは全く思わなかっただろう。

 「仕方ないんだよ。お前のばあちゃんや皆が、俺も、誰も今まで大事にしてこなかったんだから。今更やってきて、優しくされようなんて俺も思ってない。でも、俺は小さな頃に面倒を見てもらった恩があるから、これでいいんだ。気にしてない。理由があったからとか、母親が会わせてくれなかったとか、そんなことばあ様にとっては言い訳にしかならない。ばあ様はずっと一人で堪えてきてくれたんだから、後はできるだけ好きにさせてあげればいいんだ。それしかしてあげられないんだから。」

 一番可哀想だったのは、ばあ様なんだよ、と教えた。

 「話を聞かないのは昔から。幼児の頃だって返事なんてしない人だった。いつものことなんだよ。」

 娘にはそう話した。本当のことだ。

 「それでも、ばあ様が黙って飯を食わせてくれなかったら、俺は生きてこれなかった。今生きているのもばあ様のお陰なんだよ。」

 母にも祖母にも、良い扱いはされていない。

 それでも僕は悪口を言ったことはない。

 僕が嫌っているから、娘にも母や祖母を悪い人だと思わせるなんてことは、不当な仕打ちである。

 あの母であっても、孫はかわいい。

 愛情が歪んでいても、孫はかわいい。


 僕は「親の悪口を子供に決して吹き込まない」と誓ってきた。

 だから娘は「自分が体験した分だけ」しか母を嫌っていない。

 それでいいのだ。


 親子の関係は親子のもの。孫は関係ない。


 「子供が自分を恨んでいるんじゃないか」と恐れる親。

 そんな親の姿を、僕は母の生前に見た。

 その姿が更に子供を傷つけるのだ。

 「ここまで自分の子供を信用していないのか」と。


 「何をしても許してくれる存在」が欲しいのだとしても、子供は最初から親が好きだ。

 不当なことなど決してしない。

 そしてそれが正しいか悪いかに関係なく、それが我が子なのである。


 「たとえどんな子であっても受け入れてほしかった」

 とみな子供の頃は思ったはずだ。

 そして受け入れてもらえないから苦しんだはずだ。


 ならば、自分は受け入れるのだ。

 例えどんな子であっても、これが我が子なのだと。


 親を憎む自分が、親にどういう態度でいてもらえたら楽になれたのか。

 考えるのだ。


 こればかりは、他人が教えられない。

 その親子により、何があったかは違うのだから。


 「なんでお母さんがあんなことをしたのか」の理由を知りたいのだろうか。

 「親がどんなつらい思いだったのか、わかってあげたい」のだろうか?

 違うだろう。


 「自分がどんなに辛い気持ちでいたのか」をわかってもらいたいのだろう。

 ならば、自分がまず我が子をわかってあげることだ。


 それがどんなに辛い気持ちや恐れを乗り越えなくてはならないことなのか、身を持って先に体験するのだ。

 あの親より自分は愛がある、愛を持つと決めるのならば。


 子供には自由に幸せに生きてほしい、と願うならば、子供を恐れず、受け入れることである。


 「いい人だと思われたい」「いい親だと思われたい」


 そして、どんな人だったのか。どんな親だったのか。


 自然な人の本心を知り、現実の自分を受け入れるのだ。


 子供から逃げる親、子供にわかってもらって、仲良くしようとする親は、なぜ親がいつまでも自分を拒絶してくるのかよくわかると思う。

 どんなに親が子供を恐れているのか、自分が子供を恐れるようになり、なんとか「自分の理由を受け入れてもらおう」とするようになり、痛感するだろう。


 僕は、子供の何もかもを受け入れる覚悟をして生きている。

 今では子供はこんなにかわいいものかと思えるほど、本当に幸せな親子になれた。

 母に対しては、「お母さんがどれほど苦労してきたことか」と母の苦しみを受け入れた。

 僕は誰にもわかってもらったことなどない。

 わかってくれ!と懇願などしなくても「わかってあげられない」と拒否されることばかりだった。

 「お前なんてどう頑張っても理解できない」とわざわざ近づいてきて拒絶する人はいくらでもいる。

 そうした人のことも、理解してきた。


 自分のことは自分にしかわからない。自分で受け入れている。


 寂しいかどうかではなく、自分のことなど自分にしかわからない。それが当たり前なのだ。


 人間ならば誰もが受け入れなくてはならない、孤独である。


 誰かひとりでいいから、甘えを捨てて自分の今生を諦める人がいなければ、子供の代から幸せになれない。

 それでも不幸にはならない。

 自分が得るより、自分が与えている方が幸せだと思えるようになるのだ。


 欲求が変わる。

 それが成長である。

 もう若い頃に求めたものは、それが成功でも失敗でも、もういらないものなのだ。


 今はもう立場が違うのだから。役目が違うのだから。


 今はもう自分が親なのだから。


 もうわかってもらう立場ではなく、わかってあげるだけの立場なのだから。


 人の子を何日か預かっていたが、本当に楽しそうにしていた。

 子供たちが喜んでいる。

 楽しそうにしている。

 それが僕の幸せだ。

 祖母が元気にしてくれている。

 それが僕の幸せだ。


 かつてはそうではなかったが、諦めて受け入れる度に、より幸福になった。


 自分などそんなにいい人間ではない、と受け入れる。

 過去を思えば「とても他人に良い人だ良い親だなどと思ってもらえない程度の人間だ」という現実を受け入れるのだ。

 既に存在した自分がいるのに、「過去の自分の評価を現実以上にしたい」と思えば、いつまでも過去のために生き、過去の言い訳をし、過去を正当化するために未来を犠牲にすることになる。


 極楽浄土に行くには、「往生する必要がある」のだ。


 大往生した人間だけが、極楽浄土で生まれ変わるのだ。


 いい人だ、いい親だ、と思われようとしている時点で、自分自身が既にそうでないことを知っているのだ。

 ならば、何を恐れることもなく、ただありのまま自分のままで生き行けばよいのだ。