コミュニケーションがおかしくなっている家族の話である。
家の中で親が先生だったり社長だったりビジネスマンだったりする。
「良いこと」とされることはしているが、父親ではない。そんな家庭が存在する。母親もである。
やはり原点は「褒められたい、ちやほやされたい」から来たのだろうとわかる行為がよくある。
父親が子供を先生として指導しない。父親は父親である。
夫はビジネスマンとして妻のご機嫌を取り問題解決に取り組まない。夫は夫である。
母親は医者として看病しない。母親は母親である。
妻は家政婦として家事をしない。妻は妻である。
「自分が無い」という状態において起きる現象である。
社会で理想とされる対応。例えばマナー、そして言葉遣いなど。
それらは「社会人としての」「ビジネスマンの」「大人の」などの触れ込みで本などもよく出ている。
それは「こうしなさい」という形だけのものになりがちだと思うが、本質的なものがわからないと身に着けるということができない。
どこに行っても誰を相手にしても、全て「同じものが良い」わけではない。
母親が医療に詳しくなって、やたら薬の成分を説明して栄養のあるものを病院食のように用意して、完璧な対応をすれば母親としては失格である。
それはお医者さんの仕事、病院の仕事である。
母親はそれを知ったら、母親として子供に接するのである。
「母親として」という部分が無いのだ。
父親もである。やっていることは同じである。
「褒められたい」としても、大人になったら褒められる場などない。
身に着けたものは身に着ければいいだけで、できたから偉いわけでもすごいわけでもない。
大人になって「すごいな!」と尊敬されるのは、本当に誰もできないようなことができた時だけである。
「ちゃんとできて偉いわね」という時代は終わったのである。
抽象画を知っているだろうか?
あれはいきなり描けるものではない。
僕も子供の頃はピカソは絵がへたくそだな、こんな絵を描いて画家になれるのか、と思ったものであるが、ピカソが描いた写実主義的な絵画は全く違う、「すごい!写真みたい!」と驚くような絵画であった。
なんでも基礎が身につかなければ、それを応用することはできない。
「こうするもの」は基礎でしかない。後は身に着けた人が、その場に合わせ、また自分自身の個性に合わせ、変化させるものである。
「きちんとしたお手本」が大事なわけではない。
「こうするといいよ」という教則本にしても、「なぜそうすると良いのだろうか?」と見えない部分まで考えなくてはならない。
残念ながら、実際世には商売のために形だけで売り込んでいるものは多い。
だが、それでも自分自身が生かそうと思えばヒントにはなるだろう。
「教えられたことだけやっていればいい」というわけではない。
その時の状況はその時にならないとわからない。全ては土壇場で決まるのである。
例えば夫婦問題。
もめているのは何か?問題としているのはどこなのか?
きちんとしたとかしないとか、それは夫婦がもめる問題ではない。
ショックを受けるならば「私は心理的に無視されている」という点だろう。
夫婦は愛があって結婚するものだ。
最初から「愛はないけど形の上ではきちんとしないといけないからね」と結婚したならばともかく、「ちゃんとしなくてはならない」で結婚した人が後から「愛がない」と言い出すのはおかしな話なのである。
形を作れば気持ちは無くなる。それは当り前だ。
中身があって形は自然と作られるものだ。
僕の個人的経験ならば、「付き合いたくない」と言っても「普通は!」のごり押しで付き合った人は最初から「愛などない関係でもいいから形だけ義務として行え」と要求しているのである。
強制したら気持ちなんてあったものも全部なくなるのが当たり前だ。
だから「気持ちはいりませんよ」という宣言なのだ。
気持ちが大事ならば「付き合いたくない」と言うのが当然だ。中身がなくても形だけ必要な人はいるが、中身が欲しい人は違う。
責任をとって形だけは、と要求するほど惨めなものはない。
だから中身が欲しいならば形を作ろうとしない方がいいのだ。
個人的に面白いなと思うのは、「この人は面白いな、もっと親しくなれないかな」と思い始めたような人に限って、無理やりでも付き合おうとしてくることが多いことだ。
恐らく、無意識に怖がっているのではないか、と僕は考えている。
本当に気持ちがある関係は不安とセットであるから、形だけ作れる方がいいのではないだろうか。
好意が芽生えると同時に必ず不安はセットで湧いてくる。不安が怖い人は形を作ることで安心したがるのだろう。
話を戻そう。
家の中でもビジネスマンであれば、有能な問題解決能力を発揮するだろう。
だが、それは夫婦の問題解決ではない。
問題解決ではなく「問題を消してしまう」だけである。
話が噛み合わない会話をしているのだ。
どちらも自分が正しいと思って相手の側に立たない。
「自分は何を求めているのか、何をしようとしているのか」それを知ることがまず先である。
どんな時でも大切なことがある。それは「楽しい」ということである。
「楽しいです」と自分が言うことではない。
相手を楽しませるということだ。
喜ばせることではない。
笑いのことである。
冗談、じゃれ合い、ふざけ合い、そのようなことである。
私は冗談が言えません。うちの夫は冗談が言えません。私の家庭では冗談は誰も言いません。
そのような人がいる。
「だからこれからも真面目なことだけにしたいです」というのは無理なのだ。
「私は~ができないので」で始まったら、キリなく成長は犠牲になる。
実際に、父親が社長であったり先生であったり医者であったりして、本当に家の中でも「仕事」をしている例はよくある。
僕が思うに、この手の伴侶と接している場合、お互いにではあるが
「どこがおかしいのかわからない」
のではないだろうか?
自分自身についてもである。
結婚の不誠実は、愛がないことである。
形を強要すること、また形だけで解決しようとすることである。
義務化して仕事として恋愛や結婚をしたい人は、異性としての自分の価値に自信がない人である。
自分の価値を試されるのが怖いと、「状況的には不一致であるにも関わらず」自分ができることに置き換えてやり過ごそうとすることがある。
いってらっしゃい、と夫を見送りすることが義務化され、その際にいってらっしゃいのキスをするのだという夫婦があった。
いってらっしゃいのキスをするならば大層仲睦まじいのではないか?と思えるが、実は仲睦まじいどころではない「無関心状態」なのだ。
そこだけ聞いたら「仲がいいのねー」と他人には思われるだろう。
だが、そう思われるためにやっているだけなので、別にお互いにそんなことをしたくてたまらないほど好きなわけではないのだ。
「常識的にきちんとした良い夫または妻」というものになりたがる異常な人がいる。
それは形だけである。
それでは家の中までプライバシー無しである。そして、できたところで誰も褒めてくれない。
そんなものは個人の自由なので誰も見ないから好き勝手にしていればいいのだ。
結果うまく行かないのが失敗であって、自分は正しいのに相手が悪いからダメになった夫婦などない。
「きちんと良い伴侶となり、妻以外の全員に認められた夫」はおかしい。
妻に対して夫がある。
他人にとっては夫ではないのだから、妻以外は認めてくれる夫では夫としては失敗なのである。
自分が相手を認めるかどうかという傲慢な態度で恋愛や結婚をしている人は、最初から完全に間違っている。
「自分を認めてくれる誰か」を求めていると、相手が誰であっても評価されているような気分になる。
自分が求めている通りに相手の言動を解釈するからだ。
「これをやって認めてもらいたい」という動機で行動すれば、相手の反応を見ては「認めてくれるだろうか」と期待する。
「今何をしているのか」を考えない。
例えば「すごいねー!」と尊敬されようとして何かの自慢話をする。
すると、相手の反応が望ましくないだけで「認めてもらえなかった」と傷つく。
相手が好きである場合、相手に冷たくあしらわれたらどう思うか。
もし恋人であるならばどうか?
「どうした?何かあったのか?」
と相手のことを気にする。
自分が愛されていることを疑ったら、恋人でいられない。
「この人は愛していないのに付き合っている人だ」とバカにしていることになる。
そんな態度で接したら相手は不愉快である。
自分に自信があるかないかは関係なく、相手に失礼だからそんな疑いは持たないのである。
なんとなくわかっただろうか?
想像しながら考えて欲しい。
今強い感情を持つ人ではなく、自分ではない何かのキャラでもいいから置き換えて「もしこうであったならば…」と想像してみて欲しい。
納得がいくまで検証して、自分自身のヒントにしてもらいたいと願う。
ところで、先日僕は金沢の片町きららにて、大変驚いた品があった。
こんなすごいものを生み出す人がいるのかと驚き、同時に「僕もやらねば」と意欲と勇気をもらった。
そんなわけで、動画でも紹介したのだがここにも写真を貼っておく。皆さんにも感動と意欲が生まれますように。