似たようなことを言っている人がいるものだよね。
と思ったのでちょっと紹介したい。
以前推薦した「食えなんだら食うな」関 大徹を、大プッシュしている方の著書の内容紹介を引用する。
現代人は、長生きほどいい、健康なほどいい、おいしいものを食べるほどいい、お金持ちほどいい、立身出世するほどいい、それが幸せな人生だと勘違いしていると二人は指摘する。それこそ仏教でいう「餓鬼道」であり、哀れな「我利我利亡者」なのだと。
「今生で幸せになろうと思うな」「現世の死は肉体の死に過ぎない」「現世で偉くなるのは危ない人生」「何もない豊かさを知れ」……求道者のみが語り得る極限の対談集。
たまたま発見したのだが、「禅と武士道」とタイトルにある。
つまり僕と同じだ。同じ結論に到達するわけだなと納得した。
僕も表現をあれこれ考えるわけだが、なかなか人にうまく伝えられない。
元々僕は何かを知らないらしいので、僕が知らないどこから物を見ているのだろうかと人々について観察している。
幸せは感じるもの、と言うが、その通りで、「幸せという感覚の体得」なのだ。
「空」というものを体得したときのように、幸せも言葉にできない体感の境地なのだ。
故に、頭で考えてもわからないのだ。
「まだ体得していない何か」だと思った方がいいだろう。
不幸な人は、必死になって「不幸にしがみつく」わけだが、その姿は「不幸にならないようにしている」ように僕には見える。
もう不幸なのだと気づかねばならないだろう。
既に今、もう不幸なのだ。
何かが無くなったら大変なことになる…と不安になり怯えて生きているその人生こそ、「不幸」と呼ぶのだ。
人は一度きりしか人生を生きないので、言葉で聞いてもどれが不幸なのかわからないのだ。
好き、ということもわからないように、幸せ、というものも、全て体感で知るしかないのだ。
「これがあるから幸せで、この人がこうしないから不幸で…」
そんなものは、幸せでも不幸でもない。
自分の思い通りに作るドールハウスの制作だ。
自分と同じ人間を、そんな目で見て「自分だけ違う」と孤独な世界に生きていることこそ、不幸なのだ。
それにしても、似たようなことを言う人はいるものだ。
僕がちょっとがっかりするのは、大抵発見すると似たようなことを言う人はみな爺さんなのだ。
なんだか時々、僕は老人になったような気分になる。
この体は今生を生きるために渡された現世用の入れ物に過ぎない。だからそれなりに管理して、大事に使った方がいいのだ。
この肉体を通して僕たちはあらゆる感覚を体感するのだから。
「今生で幸せになろうと思うな」
と内容紹介にあるが、確かに、僕も十歳にしてそれを諦めて幸せになった。
物質的な世界から離れることこそ、心理的な幸福を得るために必要な境界線なのだ。
ところで、今回引用した本の著者、佐賀は鍋島藩の家老職を務めた一族の方のようだ。
やはり教育に武士道は受け継がれているのだなと、ちょっと嬉しい。