最近モラハラの人について理解し、色々と発見がある。
モラハラの人とは、つまり「意地悪な人」のことだった。
僕が思うところの意地悪な人のことだった。性格が悪いと言えばいいのだろうか?
昔付き合っていた彼女に言われた。
「なんでこの人怒らないんだろうって思ってた。普通は嫌なことをされたり言われたりしたら怒鳴ったり無視したりするのに、この人は全然怒らない。どこまで許してくれるのかわからないと思った。なのに、怒る時はいきなりキレる。だからどこまでやっても平気なのかわからないと思ってた。」
僕と付き合っていた時の、彼女の感想である。
彼女は意地悪な両親の家の子で、彼女自身も意地悪だった。
「友達や恋人が意地悪してくるなんて思ってない。何があっても怒鳴ったり無視したりはしないけど、それ以前に意地悪なんてするわけがない。」
というのが、僕の当たり前である。
彼女は酷いことを言ったりやったりは確かにしていた。
だから僕は思っていた。
「どうして意地悪をするのだろう。」
恋人を相手に、相手が嫌がることなんて言ったりやったりするわけがない。だから嫌いにならないために、耐えながら理由を知ろうとしている。
怒鳴りたくなるようなことも、無視したくなるようなことも、そもそも嫌がることなんてひとつもするわけがない。
そんなことをしたら、嫌われる。
好きな人に嫌われたくない。
好きな人を自分が傷つけたくない。自分が相手にとって嫌な人になってしまうから。
それが当たり前だと思う。
だが、彼女は僕が説明したり話したりはするが、怒鳴ったり無視したりしないので「嫌がっている」ことすらわからなかったのだと言う。
嫌なことがあったら、怒鳴ったり無視したり、意地悪をしてくるもの。
それが彼女の家の常識であった。
なんて性格の悪い一家だろう。僕の感想はそれに尽きる。
そして怖い。
そんな家族と関わりたくない。
僕も母に従っていた時に、友達に意地悪をしてしまっていた。
だが、その理由は友達ではない。僕が他のことでイライラしているせいだ。
他で欲求不満になっているせいで、友達には関係のない要求が生まれているせいだ。
僕は友達のことを考えた。
僕のせいで、悪いことをしてもいないのに、傷ついたり落ち込んだりする友達。
きっと僕が母に対してそうであるように、落ち込むだろう。
何か自分がいてはいけないのだろうか、と思うだろう。
可哀想だ、と思った。
僕に嫌なことを言われた友達は、今頃落ち込んでいるかもしれない。
傷ついて誰にも言えなくなっていたらどうしよう。
僕は自分が友達にしたことの責任を取れるだろうか。
傷つけた責任を、取れるのだろうか。
心の傷は形あるものと違って、一度与えたら消えない。
友達はそんな目に遭わさせる理由があるのだろうか。
僕の母が僕に意地悪なことを理由に、その責任を取って友達が傷つけられなくてはならないのだろうか。
僕は友達のことを想像し、友達が可哀想になって泣いた。
一生消えることはない罪だと自覚した。
だから人に対して意地悪な気持ちで接することは、生涯してはいけないと思った。
もう何をしても罪は消えない。
今生はもう諦めて生きるしかないと思った。
人を苦しめてしまったのが自分であることの方が、生きるのは辛い。
他人の心は自分の心のように感じられない。
だからこそ、友達がどんな苦しみを感じているのかわからないから辛いのだ。
それをやったのが、自分であるから辛いのだ。
他の人間を苦しめてまで、僕に生きる権利も価値もない。
意図せずやってしまったことならばともかく、僕は意図して意地悪を言っていた。
心から愛情を持って接していたならばともかく、僕は憎しみや恨みを持ったまま友達に発言をぶつけていた。
僕は酷い人間である。
だから罪の重さに早くに苦しまなくてはならなかったのだ。
自分の心の傷に堪えられず他人を傷つけても、自分の心の痛みが軽くなるわけではない。
被害を拡大しているだけだ。
そもそも、僕が生きている理由が意地悪だった。
僕の存在そのものが、悪になっていた。
自分の体験した過去を理由に、他人が望むわけもない、そんなことをしても幸せにはならない、他人が叶えたがっていたわけでもない僕だけの願望のために、友達の未来を奪おうとしていたのだ。
何が理由かなんて関係ない。
やられる友達にとっては、僕の存在そのものが悪だ。
本当に、まるで悪魔だった。恐ろしいことだ。
友達と一緒に生きていくならば、自分と友達、どちらにも幸せがやってくることを考えるものだ。
僕にしか理由のないことのために、僕以外の他人を動かすわけにはいかない。当たり前だ。
「辛かったからこれこれして」ではない。
「辛かったからこれこれを、してほしい」という願望でしかない。
それでは
「欲しいからちょうだい」
ということになる。
「欲しいから、くれたらいいな」
の願望だ。だからなんだ。
だからなんなのだ。
欲しいものをもらいたいのは、誰だって同じだ。
「だからちょうだい」では、ただの物乞いだ。
恥知らずなことだった。
この自分を痛烈に恥じた。物乞いだ。乞食の子だ。
最悪だ。死んだ方がマシだ。
生き恥を早くに晒した僕は、生きることすらままならなくなり改心した。
生き恥も早くに晒した方が楽だ。その後はやらなくなるから。
物乞いでありながら、横柄に「こんな理由があるんだぞ」と威張っていた。
盗人猛々しいと言うが、正にそんな感じだ。
辛いことがあったことは、偉いと勘違いしていたのだ。
我慢したとか、酷い目に遭ったとか、偉くもなんともない。
自慢にしていたのだ。
それさえ話せば、他人が何かをくれると期待するからだ。
不幸を売りにするから、不幸が無くならないのだ。
売り物が無くなったら、困るのだから。
そんな乞食のような恥知らずは、意地悪をしていた。
本当に意地悪な人間だったと思う。
心が汚いと、それだけで生きているのはいけないことだと思えてきて、死にたくなってくるものだ。
どう考えても他人にとっては生きる価値なしだと、自分自身で自覚するからだ。
そして、モラハラの人とは過去の僕と同じように、自ら生きる価値なしの生き様を選んでいる、ただの意地悪な人だと気づいた。
だが、それはやっていても辛いはずなのだが、よく平気だなあと思う。
自分がしたことで相手がどんな気持ちになっているか、今後相手の未来に死ぬまでついて回る問題だ。一生消えない体験は、良いことも悪いことも同じ。
他人の人生にただの悪魔として残ることが、なんともないのだから不思議だ。
辛くならないのだろうか。
僕が小心者だったからだろうか。
そんなことはいけないことだと僕は思ったものだが、親が意地悪で自分は辛くなかったのだろうか。
友達や恋人に意地悪をされれば、不思議に思う。まず不思議に思う。
仲良くしたいならそんなことはしない。だから不思議に思う。
なんでそんなことするの?と思う。
これから嫌われるに決まっているのに、嫌われることをしたら相手が離れていくのが怖くなる。
僕の親と同様、モラハラの人も相手が必要ないからできるのかもしれない。
他人が意地悪でも傷つかないが、自分の性格が悪いと傷つく。
自分が友達にとって悪になれば、僕は友達から排除されて然るべき対象になる。
僕は友達と一緒にいたかったが、他の人は違うのだろうか。
意地悪をしたら、理由がある。
納得いく理由ならまだいい。
他で何かがあったから、なんて理由では納得できるわけがない。
僕は納得できるわけがない理由で意地悪をしていた。
だから嫌われなくてはおかしいのだ。
嫌われるべき存在なのだから、嫌われなくてはならない。
それでいいのだ。
もし「わかんなかった」と言うならば、悪質だ。
意地悪だとさえ思わないなら、悪質だ。
それほど人のことを考えていない、ということだ。
他人と接する以上、自分の行いが相手にとってどういうものになるか考えているのは、当たり前だ。
どんな理由があっても許されないし、許すも許さないもやってからではもう遅い。
既に体験させたのだから、もう遅いのは当たり前だ。
言い訳や説明をされて、過去の体験が消えるわけがないのだから。
何よりも、黙っているくせに心の中で「この人に~してもらうために」と画策して接してくるやつなど、単純に怖い。
普通は、相手のために何かしてあげようとして接しているものだ。
黙っているのは、相手のために何かしている時だ。
黙って人に何かさせようとしている人がいたら、普通に怖い。
警戒しなくてはならない。
自分に何をさせようとしてくるのかわからないのだから。
だからこそ、夫婦でありながら心の中で相手に何かさせようとしているならば怖い。
僕の付き合っていた意地悪な彼女は
「確かに~してしまったかもしれない、でも…」
という卑怯者だった。意地悪なのだから、卑怯なことを言うのは当然だ。
「かもしれない」ではない。「~した。」でいい。
意地悪をしたが自分には理由があるんだぞ、と言いたいのだ。
その理由は相手に関係のないものなのだ。
「私は今までお父さんに…」
そんな理由なのだ。だからなんだ。
彼女は意地悪をしたいだけの人だった。意地悪するために他人にまず気に入られることをして、仲良くなってきたら意地悪を始める。
意地悪をすれば相手に嫌われるし、相手の中で自分のイメージは悪くなる。
相手に良いイメージの人間でないと、相手と接したくない。
だからひとしきり好かれたら、意地悪をしてどんどん相手に不信感や嫌悪感を抱かせ、好意が無くなったら別れる。
そういう付き合い方をしていた。
つまり、全ては意地悪をするための努力なのだ。
親に意地悪をされているので、欲求不満になっている。
親に意地悪をさせ続けているから、どうしても他で吐き出したくなる。
それはわかるが、僕は親に意地悪をさせ続けて親を支えることを拒んだ。そこまで好きではないから。
僕の友人関係を犠牲にしてまで、親の欲求不満を受け止めてあげたくなかった。
みんな、親が大好きなんだな、と思っていた。
きっと生まれた時から一緒にいれば、子供がそこまで犠牲になっても支えたい何かがあるのだろう。
子供はみんな親が好きだ。
だからそこまでしたいほどの愛が、生まれた時から面倒を見てもらえた人には育っているのだなと、意地悪できる彼女を羨ましく思った。
それだけ好きになれる親がいる人はいい。
僕は友達に意地悪をして嫌われても気にならないほどの愛情が、親に対してなかった。
他人相手に言い訳しようが、なんの意味もない。
失うだけにしかならない。
だが、どうやら彼女は自分が何をしているのかわかっていなかったようなのだ。
ふうん、と思った。
友達も恋人もいなくなったのは、そのせいなのに、気付かないとは。
変なの、と思った。当たり前なのに。
恐らく、相手の意識の中に自分が存在しているかどうか、見ていない人が多いのではないだろうか?
一方的な人と接すると、気になる。
だから相手の意識の中に、自分が存在させてもらえているのかどうか、接しながら確認する。
僕はそうしている。
相手の世界に自分がどういう人として存在しているか、確認している。
「その役だと今後が嫌だな」
と思ったら、親しくならない。
やりたくないことをやらされる役で相手の中に存在している場合がある。
やらされる前に、知っていた方がいいと思う。
相手の中での自分が、意図せず悪いものに変わっていたりする。
実際の自分とは全く違う人物にされていることがある。それも悪い方に。
そんな時も、早くに気付き、どうしていくか考えた方がいい。
そういうことを、意識してやっていないのだ。
それでは博打だ。何が起きるかわからない。
目を閉じて歩いているようなものだ。僕は怖くてできない。
自分だけではなく、他でも影響もある。
相手にためにしたことも、その時は良くても他での影響を受けて次に会う時には思いもよらない方向に進んでいることがある。
計算が狂う。
心だけは、よく見ていないと未来が読めない。
よく見ていても、想像の範囲が狭いと計算外のことが起きやすい。
目の前のものだけ見ていれば、うまく行くわけではないのだ。
自分は誰にも見えない。わからない存在だ。
他人の前に登場する時だけが、この現実の世界に自分を形作る時だ。
他人の中に作られる自分が、相手のためを思う存在でないなら、他人にとって自分は生きる価値もない。
自分にとって自分が生きる価値があるのは当然だが、他人にとって生きる価値もなしの人間になりたくはない。
そして親にとって自分が価値あるかどうかなど、気にすることですらない。
「お前が生んだ」
それだけで、もう努力する必要などないのだ。
だが、好きな人にとっては生きる価値ある人間でありたい。
自分にとって価値ある人の中でだけ、生きる価値ある存在であればいいのだ。
親のために努力する人、言う事を聞く人は、自信のない親のために「あなたは価値ある親だよ」と安心させようとしている。
させ続けている。
そこまでする必要はない。と僕は思う。
親の自尊心は親自身が高めるもの。
子供が精進しているのに親がさぼるなど許されない。
「親の背を見て子は育つ」
と昔よく母に言われた。
だが、うちは親子逆転している。だからその通りにするがいい。
「俺の背を見てあんたが育て。」
親の生き方は間違っていると僕は思っていた。
これが正しい生き方だ、と示すのは子供しかいないのだ。
「間違ってるぞ!」だけでは人はわからない。
「これが正しい我が一族の在り方だ」
とお手本を見せるしかないのだ。
そして今は意地悪もない、隠すこともない、ただいるだけで安心という家族を作っている。
愛し合う家族にも仲間にも、利己的な人間はいらない。
個人的な過去を背負って要求を隠してくる人間だけは、愛ある世界に要らないのだ。