何をしてもらえたかで救われるわけではありません。
愛する人に救われた経験は何度となくあります。
心を通わせる友人、恋人はいつまでも自分を助けてくれます。
昔、僕はストーカー的女子に妄想恋愛で入れ込まれていました。
ノイローゼになり、臨床心理士の先生にカウンセリングしてもらいました。
その時、こう言われました。
「女っていうものは、周りから好きになった人を囲い込むようにして逃げられないようにするところがあるから。」
女性の先生でした。
僕は「そんなことない」と思いました。
先生曰く「女はそういうもの」でしたが、僕は「そんなことない」と強く思っていました。
あいつは違う。
と思える恋人がいたから、そう思えました。
「そんなことない」を知っている。
もっとずっと信頼できる、本当に心が通い合う関係を知っている。
だから救われるのです。
異性との恋愛において、酷く罵倒されても平気です。
「最も愛する人が確実に今の僕を愛してくれる」
この強さが、親に愛された人には最初からあります。
友人もそうです。昔の仲間たちがいます。
自分の信念に従って生きていても、必ず批難罵倒してくる人はいます。
「だったらいなくなれ!」
と堂々と言えます。別にいなくなってもこっちは困りません。
僕が最初に理解できないと思った関係は、罵倒してくるのに「あなたが好き」と言い出す異性でした。
何を言っているのかわからない。
人のことを間違っているとかそれではいけないんだと言いながら、「あなたが好き」「別れたくない」。
そこまで言うほど気に入らないところがある人と付き合う
変態だ
と思いました。変態的な趣味の人。
嫌な人と付き合っているのが快感の「マゾだ」と思いました。
初めての体験でした。
二重束縛の人だったのですが、それも今思えばの話であって、当時は「こいつ変態だ」と思いました。
ヤバい性癖の人だよ、と本当に思いました。
罵倒してくる時の内容が、後で「素直になれなくてついあんなことを」では済まない内容なのです。それまでを覆して全部無いものにしてしまう内容のことを言います。
「こんなこと思ってたんだ、最低だな。」
と思える内容です。
更に
「こいつ、マジでそこまで自分がいい女だとでも思ってんのか、やべーよ。」
と思いました。
最後には寛容な僕もハッキリ言いました。
「てめえの家に鏡はねえのか。俺がプレゼントしてやろうか?女だと思って優しくしてりゃあ、調子に乗ってんじゃねえぞ。」
必要なことは、ハッキリ言うものです。
これまで考えてきたことと何も相違ありません。
本心を話す時、感情を露わにする時ですから、それでいいのです。何も困りません。
「あの時はつい」なんて言い訳も必要ありません。本心ですから。
こいつ、ごっこ遊びみたいに遊んでるだけなのか、と途中で気づきました。
現実にいい年して、そんな気分で恋愛して結婚とか口走ってんじゃねえよ、このクズが!
と思いましたが、まあ、他所の家のお嬢さんですから、親も何か理由あってそう育ててきたのです。
僕のために育てられたわけではありませんから、そう育たねばならない、その必要性があったのです。
誰かのために、必要だからそうしているのだなと思いました。
その経験は絶大に僕を成長させてくれました。
後に本当に感謝しました。
こんな変態に出会わなかったら、僕も「女の子は大抵こういうものだ」と、かつて愛した人と同じように他の人を扱ってしまったかもしれません。
僕の愛した人は、土壇場にカッコいい女でした。
カッコつけていて、いつもと正反対の幻滅させることなど言いません。
「そんなことを思って、今まで尽くしてくれていたんだな。」
と感動するような本心を言ってくれる人でした。
耐えに耐えた後の本心は、人を感動させます。
感動させないのはヒステリーの人くらいです。人を困らせたり怖がらせたりする程度です。
相棒もカッコよかったです。僕には無いものを持っていました。
「マジで?!もう噛みつくの?!」
と驚く速さで、理不尽なものには後先考えずに突っ込んで行きました。
ただ、非常に頭の回転が速く賢かったので、正当性を欠いていたことは一度もありません。
そして自分が誤解していただけと言う場合は、すぐに頭を下げて詫びました。
自分を正しくするためにごり押しなどしない。
すぐに反省できるカッコいい奴でした。
そんな仲間たちがいたからこそ、今も僕は守られています。
僕が思い通りにしてあげないと、批難がましい態度に変わる人にはその後いくらでも出会いました。出会い過ぎて区別できないくらい、コピーしたような人が多いです。
「みんなと同じ」「みんな言ってる」「みんなやってる」
を生き方にしているからこそ、何人出会っても区別できません。
まるで、キャプテン翼のキャラのようです。
区別できません。
それでも、あのキャプテン翼でも「区別がつく人」はいますよね。
もし、袖をまくり上げていなくても、日向君は区別がつきます。
横山光輝の三国志だって、区別がつく人はいます。
主人公格の人間です。
その他大勢の文官は、区別ができません。
ページを戻って服の模様を確認しなくては誰なのかわかりません。
今は「その他大勢キャラ」として生きている人が多すぎなのです。
区別できないので、せめて「個人」として独立して欲しいものです。
「相手は自分のような人を何人も見てきたかもしれない。」
と考えるのが当然です。
誰かを真似して、世間に従っているのだから、その他大勢の一人として、他にもっと優れた人が現れたらすぐにとってかわられるということは、先に覚悟していた方がいいです。
いくらでも代わりがいるのだから。
自分には特別に思えても、世間は広いです。
似たような人がいくらでもいますから、自分が特別だと「思ってもらえる」と期待しないことです。
僕も思っていません。
僕が特別に思える体験があり、相手にとっても特別だと信じられるのです。
互いに特別だと思える体験は、嘘をつけません。
同時に体感しているからです。
それを知らずに生きていくことは、寂しいものだと思います。
自分一人が喜ばせてもらえる体験は、結構簡単です。
人の気持ちがわかる人に出会えばいいだけですから。
僕の恋人は
「生まれ変わって一緒になりましょう。今生では無理だったけど、私たちはまた必ず出会う。」
と別れ際に言いました。
相手だけが感情的になっていたわけではありません。
込み上げるものが互いにあり、その言葉に意味があるのです。
つまり、「既にその言葉に重みが出るほどの体験があった」からです。
だからこそ、「女はこう」と言い切られても、そんなことはないと心の中で断言するのです。
そんなことはない。
もっといい女はいる。
もっといい友人もいる。
それを体験させてくれた彼らに、今も感謝しています。
生涯僕を守ってくれる彼らに、今も感謝しています。
愛された経験は自分を守ってくれます。
愛し合った経験は、勇気をくれます。
この辛い人生を、乗り越えさせてくれる彼らに、今も感謝しています。
そして彼らが無事でいることを、いつも祈っています。