日本が世界一の拝金主義国家となっていることを、殆どの人が知らないだろう。
僕たちは資本主義というものを勘違いしている。
アメリカの真似をしてしまった際に、僕たちは「今までの自分たちの持ち物を捨てて、向こうの持ち物を得る」という方法に出てしまった。
これが大きな間違いだ。
資本主義に自然と変化していった国は、資本主義になるべき基盤を備えている。
アメリカ人は、良い人生を送るために必要なこととして、「良い家族を持つこと」がトップに上がる。ギャロップ世論調査によると、全体で89%、19歳から29歳までの若者でも90%という高さで家族を重視している。
アメリカ人は拝金主義ではない。資本主義ではあるが、まず第一に家族を大事にしている。
更に、僕たちが思うより彼らは宗教的で、大半の人が神を信仰している。
更に、同世論調査では良い家族を持つことに続き重要とされることが「高い自己評価」「健康」「達成感」「アメリカ社会への貢献」「厳しい倫理に従って生きる」である。(誰も書かなかったアメリカ人の深層心理 加藤諦三より)
これがまずベースにあって、「良い家に住み、素敵な車を持ち…」など日本人が最も重視するようなことは、全体でも41%しか重要視していない。
日本の中高生を対象にした調査では、「人生には何よりお金が重要だ」と考える子供たちは40%。アメリカでは17%という結果が出ている。
僕たちは何よりもお金が大事なのだろうか?
しかし、アメリカでは一般的に僕たちが権威とするお金持ちの職業は、倫理的に信用ならないと思われている。
つまり、金持ちは信用できない、と思われていると言ってよい。
日本では金持ちは高い倫理観を備えていると思われがちである。
権威とは正義。そのような独裁政権国家の思想が根強い。
偉くない=正しくない。
この考え方は、個々の考え方や劣等感に現れている。
例えば、「間違っていた」は悪である。「正しい」が大事なので、自分の間違いを指摘する人は悪である。悪だから間違いを指摘する人をやっつけなくてはならない。
実際に間違いかどうかは関係なく、「間違いがあっては自分が悪になる」から相手をやっつける必要性があるのである。
共同体で育った人は違う。
間違い=悪という教育をされていない。
間違いが悪であれば、自分が生きる上で必要な人はどんな人になるだろうか?
「迎合してくる人」である。つまり、思ったことを言わずに話を合わせてくれる人が最も大切な仲間たちになるのだ。
恐ろしい話だが、それが実際のところだ。
つまり、「信頼できる仲間がちっともいない」人は、自分の間違いを指摘されることを許せない、自分が間違ったなど許せない、という人格をしている可能性が高い。
子供の頃は、間違いを認めるのが「恥ずかしい」ものである。
だが、「間違ってないことにするために」言い訳をする。
「間違っていると指摘したやつ」をやっつける。
この時点で、自分が間違いを犯したと認めていることになるとは気づいていない。本当に正しい人は、間違いを指摘した相手の方が間違っていると気づいているので、相手に対して寛容である。
人は自分が本当にできていることについては、人に対して寛容である。
そして、アメリカ人を真似しているつもりの人も、実はちっとも似ていないどころか、資本主義の他国とは全く違うことをしてしまっているのだ。
資本主義の中ではある意味生活も運否天賦なところがあり、家族や共同体があるということは生きる上で最も大切なことになる。
もし、何か窮地に陥った時はどうしたらいいのだろうか?
そんな時にこそ、家族、友人、そして神である。
精神面での支えは最も重要であり、精神をまず優先している。
そのあと金や物が続くわけだが、そもそも精神的に満たされている人はそこまで物や金を追いかけない。
もしこれが無かったら、必死になってエリートになっても友達ひとりいない。家族とも険悪。心の支えはない。仕事しかない。そんな結果となってしまうだろう。
後はもう、やけっぱちになって幸せな人の邪魔をすることに専念するか、どんどん望まない方に流れていくか、とにかく「自分自身を捨ててしまう」ことに専念する。
金を神として生きると、そんなことにもなり得る。
とにかく、資本主義社会を生きるためには何よりもまず共同体感覚なのである。
アメリカ人はこと家族を大事にする。ドラマにもよくある。
家族が愛し合っていることは彼らにとって最も重要であり、友人や恋人とのやり取りの中で信頼関係を深めていくことは、地位や名誉より重要なことなのだ。
アメリカでは何かあると家族を引き連れてくる。
大統領候補も家族を引き連れてくる。
家族を大事にしない人間は、信用されないのだ。
家族が幸せそうにしていて、初めて信頼できる人なのである。
そこへいくと、金のため、社会での地位のため、家族をバラバラにしていく行為は自殺行為である。
誰がそれを認めてくれるだろうか?
少なくとも、家族でも友人でも、恋人でもない。
では社会で認められるのか?
日本社会なら「いいよねー」と羨ましがられ、嫉妬されるだけである。
拝金主義の人は、金持ちであるだけで崇めてくるだろう。
だが、結局は金を持っているから崇めているのではなく、その人から恩恵があると思っているから崇めているのだ。
家族をバラバラにしてしまうことは、生きる上では自殺行為なのだ。
どうにも家族を軍隊化したい人が多いようだ。
独裁者になりたかった、とある人は言っていた。
独裁者はカッコいいのである。
だが、自分自身が独裁者になった時、それを見て羨望している自分は外側にはいない。みな怯えている。自分の前では安心できないからだ。
自分が「あんな風になりたい」と思ったものにいざなってみたとしたら、その時は自分で自分を見ることはできない。
代わりに、「実際になった時は周りがどう見てくるのか」を見ることができる。
独裁者になりたかった人は、自分がなったら他人が「あの時憧れていた自分自身の目」で自分をカッコいいと思ってくれると思った。
実際独裁的なことをする人だったが、それをしている自分を自分で「カッコいい!」と思うのだ。
なぜか。
これは、過去に原因がある。
過去に原因があり、やりたいことができた。
たった今目の前の人を支配することにより、過去の屈辱を晴らしているのである。だからいい気分なのだ。
無量寿経の要約を読んでいたら、ふと気づいた。
「拝金主義」と言うが、金を欲しがる人は操作されて当然なのである。
なぜならば、世界の金は世界の頂点にいる金融の力によって、操られているだけなのだから。
これでいい?次はどっち?
と言う結果になるのはわかる。
そうなるように作っているのだから。
だが、それを考えると操られていない人は金持ちの中にはいないというのはわかる。
ただ、金持ちではない人が、なぜか「金を得ていない」ことに「敗北感」を抱えているのだ。
「金持ちにろくなやつはいない」
これは世界共通の概念として通用する。
なぜならば、正しい心を持った金持ちならば、金を持ったら皆も幸せになれるように分配できる方法を取るからだ。
だが、そうなっていない。
そうする人は滅多にいない。
だから、やはり、金持ちにろくな奴はいないのだ。
ろくな奴がいないのにその立場になりたがるから、せっかくの愛すべき自分自身を捨て、ろくな奴にならないのだ。