まだ見ぬ友人へ
メディアでは確かに存在しているのに、実際には身近で見かけない人がいる。
例えば、それは男性と同じように働き結婚はしたくないという女性。
そのような人たちが「沢山いる」という。
ところが、僕はさっぱり見かけないのだ。
僕の知る女性たちは、働いてはいても、正規雇用社員であったとしても、できれば良い恋愛をして、幸せな家庭を築き、可能であれば専業主婦になりたいとも言う。
社会のために活躍したいと、日夜政治や社会について語り合い、より向上するための方法を探している女性にちっとも出会わない。
一般的なところに沢山いるはずなのにだ。
そうしたいのだ、と口では言う。
そうなのか!と僕は嬉々としてこの国の未来について、また社会について共に考えていこうと話をする。
だが、本人が「望んでいる」と言っているのに実際意欲的に情報や意見交換をしようとしない。
僕は政界にいるある女性と交流をした際、確かに日本の未来を考えて社会について語り合う人を見た。そして語り合った。
意欲をもって、知らないことを知ろうとし、それぞれの場についての問題に関心を持っていた。
どのような場にいても、社会で活躍したいと願うならば社会のどんな問題を解決するため、どうやってなんの役に立ちたいか、日々考えて生きているものだ。
ところが、「私もそう思ってる」と言う身近な女性の中には、そんなことより自分の過去の恋愛や、家族に対する不満、または流行りの遊興の話ばかりしたい人しかいないのだ。
本当にそう思っているのだろうか?
より広い場出て活動したいのならば、より向上したがるものだ。
今いる場でより向上したくても、できるだけ多くのことを知り、また学び、体験していきたいと思うものだ。
他人との意見や情報の交換は、大変役立つものとなる。
男尊女卑を離れ、世界基準に近づくため、自分たちも早く活躍したいと願う女性が沢山いるはずだ。
沢山いるからそのために、女性は育児や家事の問題を解決したいと願っている。
全ては、働くためだ。
社会で働くため。
ということになっている。
活躍、というが、要は、社会でより能力を発揮し働くためなのだ。それは決して悪いことではない。
社会のため、国の未来のため、女性たちも同じように活躍したいと願うようになった、ということなのだから。
そして働いたから偉いわけでもない。
外での仕事と家庭内は別なのだから、同じように働いても家庭は家庭で別の問題として存在する。
この区別ができないのは、権威主義の父親だけで十分だ。
そしてなぜか、実際には僕はメディアで見るようにそのような女性を見かけないのだ。
言われていても自分では見ていないので、僕はまだ「女性たちの望む生き方は変わった」と断定できない。
恋愛したくない、と言い続けるのは、離婚した友人。
結婚していたから不幸だったと言う彼女は、一人になってもいつも不機嫌そうにしているし、自由になれば幸せになれると言っていたのに自由になっても何もしない。
うまくいかないことを人のせいにして、遂に周りから人を全員遠ざけてしまい、残るはこちらから声をかける僕一人になってしまった。
彼女は他人のせいで不幸だと言うが、実際のところ彼女自身も誰一人幸せにしてはいない。
それだけではない。
あれの被害に会っているとか、本当はこうしたいとか、声を上げる人に続けという「非難の嵐」。それを社会では現在「正義」と呼んでいる。
人を批難することが、正義となってきたのだ。
恐ろしい時代になってきた。
大衆がやめない限り、止まらないだろう。
この形、あの頃に似ているではないか。
多くのプロパガンダ映画が作られた時代。
大戦前の時代だ。
しばらく前から、僕はずっと、白黒の映像で過去の世界の歴史を確認している。人類の動きについて、確認している。
このかつてに似通った形、また当時と同じ動きをしている大衆に、僕は危機感を拭い去れない。
絶望による衝動に押し上げられ、猛烈な破壊活動で勝利する国民。
その末路にあったのは、瓦礫の山と、争いは何も生まないという教訓だった。
君が迷う時、何が正しいのか右往左往する必要はない。
人を殺してはいけないし、人を悪にして攻撃してはいけないし、悪事と人は別のものとして考えなくては、失敗や過ちを犯す人を次々排除しなくてはならない。
人の違いをバカにしてはいけないし、仲間はずれを生んではいけない。
子供なら誰もがわかっている当たり前のことを、大人は全くできていない。
そして失敗や過ちを犯さない人間はいないのだから、その考え方ではすべての人をいずれは排除しなくてはならない。もちろん自分自身も。
今、なぜ苦しんでいるのか。
その原因を自分の中に見つけることなく、外に答えを求めた人々は
人間を排除するために生きることになるのだ。
排除した人間は、排除された側に排除される。
その繰り返しだ。
いい加減、学ばないものだろうか。人類は。
自らを排除せず、自らを自然のまま受け入れるというこの苦しみを乗り越えずに、外側を破壊しても天国にはたどり着けないのだ。
違いを受け入れることで、共にそこにいることが可能になり
平和な世界は生まれるのだ。
親愛なる友人へ
最上 雄基