自分はいつ死ぬだろうか、と考えることがよくあります。
あとどれくらい僕は生きられるのだろうか、とよく考えています。
死は必ず来るものですから、先にわかっていることは先に予測しておかねばなりません。
誰もに等しく必ず訪れる苦、それが死ですから。
僕は毒親の子たちに幸せになって欲しいと願っています。
僕はもう幸せになれました。
人より何も持たず、他の子たちが当たり前だと思っているものすらなく、人生が始まりました。
当たり前だと思っている人ばかりなので、なんのことを言っているのかすら人にはわからないことばかりです。
僕はそれを羨むことをやめ、運命を受け入れて生きることにしました。
何かがないともうお終いみたいな気分になるかもしれませんが、実際にはそうではありません。
皆の仲間になりたいなと思えば、なることができます。
自分が欲しいものを特別もらおうなどとしなければ、ただそこに仲間としていることはできます。
並みより持たない人間がそこにいるためには、並みより努力しなくてはなりません。
そしてそれが当たり前であるかのようにそこにいて、他の人たちに気を使わせてはなりません。
僕にとって幸せとは、自分だけ特別扱いされて優しくされることではなく、皆と同じようにそこにいられることでした。
ただ、普通の子のようにそこにいて、他の子たちと同じように権利を有し、自らの意思により仲間となることでした。
最初から同じではありません。
全てできるわけではありません。
それでも、努力すれば可能なこともあります。
物や金や、親がいなくてはならないようなことは何もできません。
しかし、努力や人徳により可能なことであれば、それは誰にでも可能です。
ただそこにいるだけのことに、努力が必要なこともあります。
他の人たちが当たり前にできることができない、これ以上は無理、ということもあります。
そんな時も、周りに気を遣わせない、特別な存在にならない。
自分の人生など、最初に可能なことは決まっているようなものです。
最初から決まっているようなものです。
しかし、できる限りと思い努力すれば、思うより遥かに沢山のものを、想像もしなかったものを得ることができました。
自分には無理、ということを僕は承知しています。
他の人には当たり前でも、僕にはできないことが沢山あると最初から自覚しています。
ですから、これ以上は無理、というところに無理に行こうとしません。
僕が幸せだと聞けば、羨む人もいるでしょう。
しかし、僕と同じ状況で生きて行けと言われたら、殆どの人は断ると思います。
物質的に見て状況において恵まれたことは一度もありません。
僕の目指すところは、何もなくとも当たり前のような顔をしてそこにいることでした。
僕はそれに成功しました。
努力。全ては努力。
精神も、身に着ける能力も、全ては自らの努力。
ただ平然とそこにいることすらできない人もいます。
ちょっとしたことで慌てたり不機嫌になったり、顔に様子に出さずにいられない人もいます。
しかし、自分を鍛えていけばそれを克服することもできます。
学生の頃に、クラスメイトに言われまた。
「お前の家ってすごい家族仲良さそう。お前見てるとどんな家族か想像つく。」
と言われたことがありました。
一瞬、「違う」と言いたくなりましたが、「そうじゃない」と瞬時に切り替えました。
「ありがとう。」
笑ってそう返した時、僕は運命に勝ったと確信しました。
不幸な境遇が自分を不幸にするのではない。
不幸だと決めつけて不幸な人間になることで、人は不幸になるのです。
僕の人生は、本当に大したことの無い人生です。
殆どの人が持つものを持たず、手に入れず、当たり前にあるものなど何もありません。
常に綱渡りのように集中し、常に未来を予測し、計算し、来るべき未来に備える。
いつでもギリギリの人生です。
少し怠ればあっという間に転落していく、そんな人生です。
「これさえ続けていれば大丈夫」という大多数が持つものを、何も持たずに生きてきました。
常に「次はなんだ」と考え続けなくてはなりません。
死ぬまでこの生き方が続くでしょう。
時々、何も考えずにただ言われた通りにしていられたら楽なのに、と思うこともあるし、もう嫌だと思って休みたくなる時もあります。
昔は「俺だってあんなことしたいよ」と思うことが沢山ありました。
それでも、自分は自分なのだ、欲を出すなと自分を戒め、余裕ある友人たちを気にせず生きてきました。
できなかったことは沢山あります。
若い頃、皆ができたようなこと、そして今大勢が持っているもの、何もありません。
ただ常に限界ギリギリで生きてきた集中力や思考力、そして覚悟くらいしか持ち合わせていません。
友情や愛情と言う、一銭の得にもならない誰も目指していないようなものだけが手に入りました。
友情や愛情は、一方的に貰うものではありません。
自分自身が身に着けた時、陰と陽を合わせてひとつになるように、もう片方が存在して初めて完成するのです。
形になど何も残っていない、ただ心の中にだけある思い出。
そしてそれが、僕の生きる糧です。
もう、目の前にはいない友人や恋人との思い出が、生きる糧です。
そして自分自身のアイデンティティーから生まれてくる使命感が、生きる意味です。
僕は何も持ちません。
僕の信念として、ひとりひとりにその時その時できる限りのことをして生きてきました。
しかし、それ以上のものは何も持ちません。
何かを期待されることもあります。
恋愛対象になると恐らくは、普通の人が期待することは「付き合ったら~できる」という形なのでしょう。
恵まれている人たちからすれば、それは当たり前のことで、誰もが恋人ができたら可能な生活に違いありません。
しかし、僕はそんな経験すらありません。
一般的に見れば、モテたかもしれません。
でも僕には、「これこれをする」という決められたこと、期待されたことをしてあげることはできません。
余裕ある人たちは、次々手に入るのだなと思うと、期待されることに腹立たしさを感じることもありました。
しかし、恵まれた人たちを恨んでも仕方ないことです。
何をどう思われても、僕は僕の生きる道を行く。
ただ一人、こうするしかないという道をまず進むこと。
後世への糸を紡いでいくため、母の分、祖父母の分、少しずつ次に手渡す分を用意していくだけ。
少しでも僕が多く請け負って、次世代に残さないようにするだけ。
苦労があっても、「きっとこの子は僕より少しは楽になってくれる」と子供を見て思えるだけで、今の苦労は無駄ではないと遣り甲斐を感じます。
好きになったらできる、と思っている人が多いことから、誰もがその程度は可能なのだろうと知る度に、自分が恵まれていないのだと実感して傷つくことはあります。
好きな人ができたら、そんなに自由に好きにできるものなのだなと。
それ以外に必要なことはないのだなと。
幸せにならないと不満を持つ人も、普通に結婚して生活しています。
負い目が何もないからです。
僕のように、一人で生きるも次々考え続けなくてはならない人間にとっては、その余裕こそ羨ましいものです。
しかし、多くを手に入れようとさえしなければ、僕にも手に入るものはあります。
本当に小さな、それがあって何が変わるというほど大きなものではありません。
自分に身に着けていくものだけが、自分の未来を変えてくれます。
少しずつ、少しずつ、倒れながら這うように進んできた人生だと、振り返ってしみじみ思います。
自分の家について人に相談して頼ったことはありません。
自分で考えて、必要ならば意見を聞き、自分で決断して黙って実行。
自分のことだけは、人に面倒を見てもらったことなどありません。
殆どの人が求めている「わかってくれる人」など僕もいません。
そんな人を求めていたら、僕の人生は前に進めなくなりますから。
ただ、他の皆と同じように扱ってくれた、仲間にしてくれた人たちがいた。
それが僕の幸せです。
特別に事情を聞かせたからではなく、何がか無いからでもなく、困っているからでもなく
ただ「僕」を必要とした仲間がいた。
それが僕の幸せです。
僕は、その立場がなんであっても、「僕を必要としてほしかった」だけなので。
大勢の中で条件が同じならば「僕がいい」という誰かが欲しかった。
例え条件など悪くても、「あなたがいい」という誰かが欲しかった。
そしてそれはもう、叶いました。
運命は、受け入れるもの。
奇跡は言葉ではなく、ただ起きるもの。
愛の奇跡は起きます。
「奇跡だ」と思う体験は何度もしています。
最近もありました。
本物の奇跡は、他人から見てわかる形など何もなく、言葉にも残らず、ただ起きていることから感じるだけ。
ただ「信じられないことが起きた」というだけ。
僕は形あるものを何も持ちません。
権威もなく、立派な経歴もなく、物も金も何もなく、本当に最初から何もありません。
羨ましがられるものなど、何も持ちません。
同じものを手に入れたいならば、努力で手に入るでしょう。
今後も、僕はどんなすごい人にもなれません。最初から決まっていますから。
そして、なる気もありません。
少しうまく行ったら、次は…と並みの人が手に入れている何かに手を出したならば、僕の人生は確実に破綻します。
最後まで、人が得ているものを諦めて生きる。
並みでもない人間が、並みのものを欲しがらない。
その中で自分に相応しいものを得る。
何もないならば、考えて生み出す、作り出す。
誰も教えてくれないならば、自分で編み出す。
何もないからこそ、その力だけは身に着けてきました。
殆どの人は当たり前に持っているものがあり、それが幸運だとすら思わない生活があります。
例えば両親がいること。
それすら無い人間からすれば、幸運でしかありません。
しかし、「それは当たり前として」から始まるのが人間です。
それでも僕は、大多数の仲間に入るため、聞いてもわからない、想像がつかない世界を必死で想像し、より鮮明にその様子を思い描けるようになりました。
最初は苦労しました。
当たり前に皆が話している内容から、その光景が全く想像できない。
想像もつかないから、話を聞いても何も思えない、わからない。
僕の記憶には彼らの話を想像するに必要なものが、全くない。
疑似体験をしては、想像力を鍛え、皆と同じように話を聞き、意見をできるようになりました。
ただ友達の中で普通に世間話をするだけのためにも、努力が必要でした。
「こんな努力をしなくては、友達の輪にいられない人間がいるなど、誰も想像できないだろう。」
当時はそれを辛くも思いましたが、やがて慣れました。
当たり前の顔でそこにいられるようになりました。
そして、「幸せな家族を持つ子」とまで思われるようになれました。
現実なんて変わりません。
しかし、「自分がどう見えるか」は自分自身によって変わります。
平然としていれば、余裕があるように見えるでしょう。
平然としていられるかどうかは、自分次第です。
自分より遥かに恵まれた友達がオタオタするのを横目に、どう考えても余裕がない僕は平然としている。
ただ頭脳だけは使い続ける。
考えることで今を保つ。
そんな風に生きてきました。
そして、僕は今の自分が好きです。
自分を好きになることは、誰でもできます。
必要なものは他人ではなく、自分ですから。
僕の母が僕がどんなに尽くしても幸せにならなかったように、他人が何をしてくれても自分を好きになり満足する日はやってきません。
僕は常に未来を考えていなくてはならないほど、このままで平気と言える人間ではありません。
毎日安心していられるほど、今を続ければいい人生ではありません。
真剣に次の一手を考え続けなくては、未来がどうなるのか予測もできない人生です。
今はもう、身近に共に生きて行ける仲間はいません。
次の一手を考えなくてはならないほど、余裕がない友人はいないからです。
僕は人一倍余裕がない人生なので、ずっと一人です。
誰も守ってくれないし、そんなに甘い人生は送れません。
人に文句を言っている暇もないし、言ったところで何かしてもらいたいこともありません。
しかし、その人生をなんとか乗り越え続けていくだけで、僕はやりたいこともやれます。
欲しいものはないですが、作りたいものがあります。
やって欲しいことはありませんが、やりたいことはあります。
僕が望んでいることは、僕にしかできません。
だから余裕などないのです。
それでも僕はもう、本当に欲しかったものを手に入れました。
信頼する仲間たち、愛し合う恋人。
僕はそれを体験したかっただけなので、もう夢は叶いました。
「心の支えとなるのが愛なのだ」
ということを、毒親育ちの僕が体験して知ることができました。
彼らが今どこで何をしているのかは知りません。
それでも、仲間たちは必ず同じ未来を目指していると確信しています。
何をやりそうか予想がつくから、仲間なのですから。
最初は、一緒にいることが「一人じゃない」だと思っていました。
やがて、気持ちを理解していてくれることが「一人じゃない」だと知りました。
そして、たとえ離れ離れになっても、心がひとつになっていると感じていることが「一人じゃない」のだと知りました。
二度と会えないとしても、心が離れることのない関係が真の友人や恋人なのだと知りました。
「心の中に住んでいる」
何があったからという理由はありません。
ただ、互いに相手を信じ、守り、常に味方であった。
そして今も。
僕はもう幸せです。
今後何がなくとも、大勢の人が僕より遥かに恵まれた環境下で生きようとも、僕はもう気になりません。
他人を見てなどいないので。
心の中に住む仲間が、自分を守ってくれるのだと知りました。
本来は味方であるはずの恋人に酷く罵倒されることがあります。
僕はなんとかして相手の味方であろうとしますが、相手は逆に敵味方に別れようとします。
善と悪に分かれ、対立することを望んできます。
自分にできるのは最後まで味方でいることだけ。
自分が悪者になって、相手を悪者にしないだけ。
互いにそうするから仲間になれるのですから。
味方である相手に対しては、無防備になります。
自分の身を守ったら一貫の終わり。ただの対立、敵同士です。
服従したら支配関係です。
もう元に戻ることはありません。
その人との関係はお終いです。
一度でもあってはならないことが、善と悪に分かれてしまうことです。
そして散々罵られていると、とても傷つくので信じようとしても相手には愛がある、何か知らないが僕のために言えない理由あって言っているのだと思えなくなります。
全ては相手のために。
例え嫌われても今そこでそうしないと、相手のためにならない。
そしていずれはその未来が来た時に、相手が感謝する日がくる。
それが愛です。
今はただ傷つけることを言っているように思えても、何か相手のために意味があるのです。
しかし、なんの意味があってそんなことをしてくれているのかわからない時があります。
好き合って付き合わない人はことそんなことがあります。
しかし、「自分が悪いのだろうか」と辛くなった時に、本当にものすごく罵倒してくる女子に出会った時に、僕は奇跡を体験しました。
「死にたい」と思うほど傷ついたことがありました。
あの人でなければ、あそこまで酷いことを言わなかった、あの人しかいなかった。
だからこそ、彼女が奇跡の導火線に火をつけてくれたのだと感謝もできます。
人生で最も冷酷な女子に出会ったことで、僕の愛する人が心の中からやってきました。
「そんなことないわ、あなた。私はあなたが好きよ。」
背後から寄り添ってくるように、心の中から声が聞こえてきました。
これが、愛に守られるということなのだ、と知りました。
そして、僕にとって彼女が別れても離れても特別な人なのだと気づきました。
正反対に出会って、もう片方が蘇る。
憎しみや敵意では決して打ち破れないもの。
それが形ない最大の攻撃であり防御、愛という力です。
自信がない時、もうダメかもしれないと思う時、仲間がそこにいるかのようにやってくるように。
人生で二度三度出会えない人に出会ったのだと思いました。
彼女がこの世に存在してくれたことに、僕は感謝しています。
生まれてきてくれてありがとうと。
子供のように無条件に愛することは、他人にはありません。
しかし、なんらかの条件がそろった時に、奇跡は起きます。
そして今も彼女の心を守っているのは、僕でありたい。
そう願っています。
僕は物理的には何も持ちません。力などなにもありません。
「愛ならいくらでも。」
するとそれがいいと言いながらも、「好きなら~してくれるよね」が始まるのです。
僕は綺麗ごとが大嫌いです。
嘘っぱちで形だけ作れば満足するほど、その程度で生きて行けるほど、生易しい人生を生きてきていません。
他人に同意されてちやほやされて、金や物や権威があれば、それだけで笑って生きて行けるような、そんな半端な試練など僕の人生にはありませんでした。
それがなければもう生きてはいけないほど、過酷な状況で生きてきました。
僕はすぐ捨て身になるところがあるから、相棒が庇ってくれて初めて「自分を守らなくてはならないのだ」と知りました。
人に搾取されていても、平気で与え続けてしまうところがあるから、愛する人に大事にされて初めて「相手を選ばなくてはならない」と知りました。
自分のことをどうでもいいと扱ってはいけないのだと、知りました。
もう、僕は十分です。
だから、これからも安息の地もないままに、心のよりどころを糧にして走り続けていきます。
きっとこれからもっと辛いことに出会うだろうし、どうしたらいいのかわからないことにも沢山出会うでしょう。
それでも僕は、必ず逃げずに立ち向かっていきます。
そう決めたから、そうします。
僕はきっと最後まで、何もない人間として死んでいくでしょう。
しかし、多くの方は違います。
僕の分まで、幸せになって欲しいと願っています。
僕が叶えられなかった全てのもの。
社会で優れた人になる、また有名になったり偉くなったり、金持ちになったり、理想的な家族を作ったり、立派な家に住み、難しいことをしたり、良い服を着て、良いものを食べて、旅行や娯楽や、人も羨む様々なもの。
そんなものを手に入れるのは僕ではなく、他の人たちです。
皆さんが手に入れてください。
それは最初から恵まれたスタートを切れないと、手に入れられないものです。
僕は皆さんが少しでも望む人生に進んでいけるように、僕以外の人には決して面白くもないような日々を送り続けます。
未来を見て、世界を見て、何が起きているのかを把握し、人の心と自然を読む。
「こんなスタートでは、なんの役にも立たない」
と思っていた僕にも、できることはありました。
名のあるものが好きな人たちに、名のあるものは手に入れてもらいたいと思います。
僕はもう、十分です。
死を考えた時に、まだ終われないと今は思っています。
僕しか幸せになっていないので。
僕はまだ誰も幸せにしていないので。
一人でも多くの人が、僕の知らないどこかで、幸せになっていて欲しいと願っています。
そして相棒や恋人には、そんなことは思いません。
知らないところで幸せになっていて欲しいとは思いません。
まだ続きがある、俺も生きるから、お前たちも生きろ。
離れていても、心はひとつだ。
そう思っています。
だって、そうだから。