細かいことまでここで説明できないので、大事なことだけ書く。
自分が嫌いな人は、実際には自分が嫌いなわけではない。
自分として生きていないのだから。
自分が嫌いなのではない
「親が嫌い」
だから自分が嫌いなのだ。
親と子は、コミュニケーションによってその人格を同一のものとしていく。
親子は一体化している。
コピーとなっている。
コピーなのだから、「え!私と母が同じだなんて!」という驚きがあれば、その反応すら「コピー」なのだ。
本質的に同じ場面に遭遇し、全く同じものを「発生させる」のだ。
あますところなく、全てが親。
そしてその自分が嫌い。
自分の「存在」に気付くとは、思考の全て、感情の発生の全て、その自分自身に気付くということである。
友達の反応が期待通りでなければ、内から焦りのようなものが出てきて、すぐさま反抗的な態度を取りたくなる。
昔の僕だが、それを含め、そして気づきそうになった時に発生する「でも」の反抗も含め、それら全てがひとつ残らず「親と同一」なのである。
意識して決断しているわけではない。
自然発生してくるその全てが、親と同一なのだ。
許してくれそうな人のところに、紛れ込むように入り込み仲間の顔をする。
優しそうな子を見つけては、「ここなら安心」と自分のことばかり考えて他人の幸せなど考えずに「いさせてもらおう」とする家なき子。
発生する欲求から、反応して出てきた態度、言葉、やり方、その全てが
今自分の中から発生する思考も含めて
その全てが親と同一。
それが親のコピーになっているが、親が嫌いで自分を受け入れられない
「毒親の子」
という人間である。
そこから離れた僕のやり方を教える。
「この自分のすべてが嫌い」
「この自分を救ってくれなくていい」
「この自分を僕自身が倒す」
そう決断する自分を呼び起こすことである。
「この自分は人類の中で救われるべき”人間”かどうか」
それを自分で裁くのである。
その時、必ず裁くための自分がやってくる。
それが人生に必要な「本物の自分」なのだ。
魔
昨日、説明した動画をアップした。
仏教においては昔から説かれていることだが、今ではそんなことを知る人も少ないのだろう。
魔の正体を見破る
内から発生する魔の正体を
正体を見破れば、その効力は消えていく。
なぜ、魔が生まれたのか。
正体を見破ればわかる。
親は自分の前世と言う。
同一化して自分自身となっている、今の自分こそ「親」なのだ。
例えば今これを読んで、内から発生する思考、反応、それら全てが「親と同一」なのだ。
「こんなこと思いたくない!考えたくない!」
僕は母と同一化していくと、自分の醜い心に苦しんだ。
怒り、憎しみ、嫉妬、心の中は醜い心でいっぱいになった。
そして僕は母そっくりになっていた。
母そっくりの自分が嫌いだった。
つまり、「母が嫌い」だったのだ。
「お母さん、僕は「お母さん」という存在にしてもらいたいことはあったが、「あなたという母親」は嫌いなんだ。」
僕が心理的に自立し親離れをしたのは、10歳の頃である。
「一度、一人になる必要がある。」
加藤諦三先生も、そう書かれていた。
僕は一人になった。
家を捨て、親を捨て、僕は今ここに生まれたまっさらな存在として、人生を始めた。
僕は魔の正体を見破った。
全ては仏門の教えに沿って生きてきたお陰である。
天から見守る存在が、僕のこの一生をいつも見ている。
そう信じて生きてきたお陰である。
魔の正体を見破れば、自ずと何をすればいいのかはわかる。
これを「降魔成道」と呼ぶ。
魔の正体を見破るしかないのだ。
そしてその内容について、僕の体験を詳しく書かない理由は
見破ってみればわかる。
ただ、大抵の毒親の子は自分の親への恨みつらみを人に話しまくっている。
魔の正体を見破った時、そのことをきっと後悔するだろう。