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自分で考えろ

 過去を生きる人間と、今を生きている人間の決定的な違いがある

 自分で自分のことを考えるかどうかだ

 自分がどうしたらいいのか他人に聞いているのが、過去を生きる人間だ

 そもそも、過去を生きるということが可能だろうか?

 否、不可能である

 ならば今はどうなるのか?

 未来に想像もしなかった事態となって、現実の姿を現すのだ

 過去を生きる人は、どうあっても現実的に解決する方法を見つけることはできない

 そして考えることもできない

 考えれば当たり前の結果にたどり着くからだ

 そこで他人を道連れにする

 過去を諦めない他人に付き合うということは、自分の今を失うということに他ならない

 親が過去にしがみついていることで、付き合い続ける子供は道連れになる

 道連れとなって従い続けた子供は、今を見ない

 我慢し続けた結果自分自身も嘆かなくてはならない今にたどり着く

 そこで、その子供もまた道連れとなる誰かを探し続ける

 それが

 「私をわかってくれる人」

 である

 「命をくれる誰か」を探しているのだ

 大げさな話ではない

 例えば、今不幸で嘆いている人は、未来への計画が何もない

 計画なしで明るい未来にたどり着くわけがない

 ひとつ何かをするにも「大量に考える時間が必要」なのは当然なのだが、従っていただけの人が全く知らないのが

 考えるためには時間が必要である

 という当たり前の事実なのだ

 「どうすればいいの」とすぐ人に聞く

 「こんなひどいことになった」と嘆いて他人に縋りつく

 自分の頭脳を使わない

 頭脳は過去の回想と妄想のために使ってしまう

 今、身近に子供を虐待している友人がいるが、僕は友人はともかく子供の方を助けている

 そのために当然僕は「本来やる予定だったこと」ができなくなった

 またか、また寿命を持っていかれる、と嫌になる

 倍速で考えなくてはならない

 集中して能力を高めなくてはならない

 人の命を食っている人間はうじゃうじゃいる

 それでも幸せに生きていくためには、人一倍集中して考え、そして決断し、実行しなくてはならない

 「諦められない何か」を追いかけ続ける人間は、過去に向かっている

 そして今、たった今そこにいる自分の子供に向き合わない

 子供の未来を犠牲にしながら、自分は過去に縋りつく

 また一人、同じ人間が作られてしまう

 子供は既に考えることをしない

 教えられたこともないが、考える能力が既にない

 ただ人に従い不満を抱き、そして他人のすることにはケチをつける、評価する

 ただ自分に注目されたがり、人の輪には入れない

 自分で自分のことを考えない

 「だってしょうがない」に既に辿りついてしまっている

 教えられてないからわかんない

 このまま四十を過ぎたのが友人である

 他人のせいではない

 「自分の頭で考えなかった」

 それが原因だ

 僕は考えた

 親が考えてくれなくても、指示を出してくれなくても、僕は自分で考えた

 なぜならば、僕には脳があるからだ

 親や物や金のように、あったりなかったりするものなら仕方ない

 だが、僕には他人と同じく頭脳があった

 子供のころからずっと一人で考え続けている

 他人に状況を説明して、代わりに考えてもらって、更に指示までしてもらい、手取り足取り教育などされなくても、僕は自力で考えて決断できる

 他人の脳は他人のためにある

 人の物を奪わなくても、僕は生きていける

 しかし、友人は全く違う

 考えて生きているのではない

 欲だけで生きている

 他人のものが欲しい

 他人ができることを自分もやりたい

 全ては嫉妬

 自分にないものを求め、我が子を見捨てる

 自分がきちんと育てなかっただけなのに、子供が年相応に必要なことができないことを自分の不幸のように嘆く

 他人に何もできない子供のせいでいかに自分が苦労しているかを話す

 そして「そんなことまでしてあげてるの?」と言われたと子供に向かって責め立てる

 「こんな手のかかる子で私は大変なのよ!」と嘆く

 自分が全て悪い

 少しずつ少しずつ、愛情をかけて育てなくては子供など勝手に育たない

 自分の望み通りにしない他人を怨むことばかりして

 子供のことも考えなかった

 自分自身は「やってみたい人」をやることばかり考えて、自分自身であろうともしなかった

 そのツケは今大変な形となって押し寄せている

 そして友人は現実に直面する覚悟がない

 子供を無視して自分の妄想に走っていく

 「誰の子かわかんないよね」とうちの子が言った

 誰でもいいのだ、友人にとっては

 「面倒な子育て」を「忙しい私」の代わりにやってくれるならば

 誰が育ててもどうでもいいのだ

 「夢が叶わなかった」

 だから、生まれた子供なんてどうでもいいのだ

 「どうでもよくない母親」としての体裁さえ保てれば、どうでもいいのだ

 言葉だけで言い張っていれば、それでいいのだ

 子供の気持ちを考えない

 子供がどんな気持ちで生きているのか全く知らない

 そして子供が何をしてほしいのか、子供に何が必要なのか、全く考えていない

 子供を愛していれば、少しずつ成長する我が子のイベントに立ち会いたいものだ

 日々少しずつ変化していく子供の様子を見ていたいものだ

 母親のごっこ遊びに付き合って生きてきた子供は、自分では何も考えない子になった

 考えるのは不満や想像ばかり

 自分自身の現実を考えなくなった

 子供はおどおどしていて、陰気な雰囲気のオタクの子だ

 会話に入ることはできず、知っていることにだけ自分から参加してくる

 出たり消えたりする子である

 それが、母親の内面なのだ

 母親はもう目がおかしい

 ひどくナルシストな人は、目の焦点があっておらず異常な目をしている

 現実から逃げた

 その結果である

 一言で言って「怖い」

 友人は過去に逃げて今に降り立たない

 「たった今」を見ない

 過去のあれこれの続きを生きようとする

 だが、たった今がある

 自分は母親であり、子供がいて、母子家庭の母として生きるのだ

 それが友人が決して逃げてはならない現実である

 人生をリセットし本物を始めるには、どうあっても今に降り立たなくてはならない

 「今、この状況である」という事実に直面するのだ

 夢ばかり見て生きていて、結果たどり着いたのは「ここである」という今に降り立つのだ

 もう夢は終わったのだ

 そして子供は現実に存在しているのだ

 現実の子供から逃げる母親

 子供がどんな気持ちでいることか

 友人は人のことを考えたことがない

 他人にどう自分を良く見せるか、他人の評判は気にしても、他人の人生や未来や気持ちを考えたことがない

 友人が子供に向かってヒステリーを起こしてこう言った

 「ママは好きなこともしちゃいけないって言うの?!」

 いけない

 子供を育てるという責任から逃げて、好きなことなどしてはならない

 好きなことをするためだから、という理由で、子供を見捨ててはならない

 子供は一人薄暗い部屋で遅くまで母親を待つ

 一人で食事をし、風呂に入り、母親にいいつけられた洗い物をして待つ

 自分の趣味のゲームの世界に逃げ込んで、現実逃避して待つ

 離婚する前は、夫婦が口も利かずに家庭内別居していた

 別々の部屋を行ったり来たりしながら、その子は育った

 パパが休みの日に食事を作ってくれて食べたのに、ママが帰ってきて食事を作ろうと思っていたというので、その子は「ママのも食べたい」と気を使って二回も食事をした

 そんな我が子を見て母親が言ったのは

 「あの子が可哀想!」

 だった

 「あの人のせいで私たちはこんなに苦しめられるのよ!あの人の頭がおかしいのよ!」

 と嘆き、「ママと一緒に幸せになろうね」と子供を連れて出ていき離婚した

 母親は、離婚しても夫が追いかけてくると思った

 ナルシストにありがちなことだ

 向こうも嫌っているというのに「あの人は私を狙ってる!」と言いたがる

 約束通りに子供を迎えに来るのに、「高速が混むから少し早めに来たから近くで待ってる」と連絡がきただけで「あの人は私のストーカーになった!」と大騒ぎした

 「あの人が私をしつこく付け狙うの!」

 と言い張って、狙われている女を演じ続けた

 しかし、そんなことは全くなく、夫は再婚した

 向こうはもう自分のことを忘れてしまっている

 母親だけがいつまでも「まるでまだ関係があるかのように」夫のことを考え続けている

 母親の文句を言い続けて「苦しめられている女」として生きていたのに、母親は亡くなった

 夫は再婚した

 そして子供に暴力を振るい酒浸りになった

 アル中だった

 友人はナルシストなので「お前が必要だ」と言われたら「私が良くしてもらえる」と勘違いする

 崇めてもらえると勘違いする

 子供が母親を必要としたときに、崇拝して尽くすために必要としているわけがない

 友人でも恋人でも同じである

 だが、友人は最悪なナルシストで、優しい私、頑張っている私、きちんとした私、できる女の私、など、都度コロコロ自分を変えながら生きている

 離婚した後、僕も恋人と別れていた時期があり

 「俺と付き合う?」と言ったことがあった

 彼女と別れて人生で初めて長く独り者になっていて寂しいし、と言うと

 「私のために彼女と別れていたなんて!」と言い出した

 誰もそんなことは言っていない

 「お前なんか頭おかしくなってるぞ、大丈夫か。今のは聞かなかったことにしてくれ。」

 と言った

 こんな奴だったのか?と思った。滅多に会う関係ではなかった。

 しばらく見ないうちに、ずいぶんおかしくなったなと思った。

 先日初めて子供に聞いたことがある。

 友人は団地育ちのただの庶民なのに、夫の前では「〇〇さん」と名前にさんづけで夫を呼び、向こうの両親を「お父様、お母様」と呼んでいたのだ。

 つい笑ってしまった。

 友人は上流階級に憧れていたのだ。
 ドラマで見たような世界を真似して演じ切っていたのだ。

 自分ではない別人になり切っていたのだ。

 そしてすっかりその気になって生きていたので、自分の演じている役に合わせたことが起きると期待した。

 起きるわけがない。

 だが、正直話を聞いていても「かなり贅沢」な環境を用意してもらっている。

 夫の親に結婚する際に与えられたローンなしのマンション、何不自由ない生活。

 何も問題はなかった。物理的には。

 自分の家は貧しい団地暮らし。自分の部屋さえなかったのだから、十二分に贅沢になっている。

 だが、友人は本人自身が想像している「お父様、お母様」の世界の理想の生活や扱いを求めた。

 なり切ってはいるが、ちっともなれてなどいないともわかっていない。

 本物のお嬢様を僕は知っている。

 普通に「お父さん、お母さん」だ。

 それが当たり前の日常だから、普通に「お母さんうるさい!」などと言う。

 ただ、お母さんは遊びに行くと手作りのお菓子と、ブランドのティーカップにお茶を用意して持ってくる。今思うと、あのカップは恐らくノリタケだった。

 毎回のことだった。それがその家では普通だった。

 お母さんは、家ではカウチに揺られて読書やレース編みなどしていた。
 学習院卒のお母さんだった。

 僕はその友人と一緒にピアノを弾いて遊んだ。
 連弾がしたいね、と話しながら、僕が練習している曲をお手本で弾いてもらい、僕が好きなシューベルトの曲を弾いてもらった。
 音楽が好きで、趣味が合うので仲良くしていた。
 友人もとても楽しい子だった。賢い子で、言いたいことをハッキリ言える子だった。

 ただ遊んでいただけである。

 それが日常である人と、憧れて真似をしている人は全く違う。

 友人は、空想の上品な奥様になっていた。
 無理してやっていた。
 だから憧れの何かをできるだけ用意しようと頑張った。

 まさかそんな日々を十年以上も送っていたとは知らなかった。

 日常などバレる。結婚して装っていたらそのうち嫌になる。

 今は、夫もいなくなり、非常に雑な日常を送っている。
 うちの方が遥かにマシ、と言える生活を送っている。

 金があるなしの話ではない。
 生活が雑だ。

 見せびらかす人がいないと、ナルシストはここまで違うかと驚くほどである。

 こんな人だとは僕も思わなかった。

 なんて様だ。

 この現実を使ってごっこ遊びをして、残ったのは現実の子供。

 まだあきらめたくない友人は、一人で妄想の世界を続けている。

 子供はすっかり白けていて、僕もうちの子も呆れている。

 母親とは、子供がここまでどうでもよくなるものだろうか?と残念に思うほどだ。

 たった今、子供と二人である。

 そこから人生を始めれば未来も変わるのに、「こんなはずではなかった、これはおかしい」と何かのせいにするから、友人はいつまで経っても現実に着地できない。

 僕が近くにいると、良くないと思っている。

 向こうから近づいてきたのだが、良くないと思っている。

 僕がいれば黙っていても、子供を見捨てないことを知っているからだ。

 「うまくできないからうまくできそうな人に押し付ける」ということができる人なのだ。

 我が子を自分で育てたいと思わないのだ。

 逃げ口上を作ることばかりして、子供を見捨てている。

 最低の母親である。

 子供は傷ついている。

 本当にひどく傷ついて、本人自身の人生ももうおかしくなっている。

 本当にどうしようもなく、子供のままの子だ。

 自分で考え始めなくては、このまま巻き込まれていくだろう。

 他人がどんなに時間を費やして面倒を見てあげても、最後には本人が立ち上がらなくてはダメなのだ。

 誰かが死ぬまでちやほやしてくれたら幸せになれるわけではない。

 沢山望みを叶えてもらったら、生きがいを感じるわけではない。

 自分自身の頭脳で考え、決断し、自分の意思を実行した時こそ、人は自分が生きていると実感できるのだ。

 楽をして生きていけることが幸せではない。

 自分よりすごい誰か、素敵な誰かにくっついて生きていれば幸せになれるわけではない。

 それでも大人か、親か、人間か!

 と友人を怒鳴りつけたい気分でいるが、説教してもアドバイスしても、何をしても「褒めてあげる以外のこと」をすると子供に八つ当たりをする。

 子供を傷つける。

 子供を人質にとる母親。

 「子供を叩いちゃって」は、「私の辛さをわかって」の意味なのだ。

 代理ミュンヒウゼン症候群と本質的に同じことをする母親が後を絶たない。

 「こんなにダメな子で私はすごく苦労している」をやっている。

 どう考えてもそんな育て方をしていたら何もできない子にしかならない、という育て方をしておきながら、ある程度の年になったら「この子何もできない!」と嘆き罵る。

 「この子が問題ある子だから」を理由にして逃げる母のために、どれほど多くの子が犠牲になることか。

 どれほど多くの子供の未来が失われていくことか。

 友人が例え子供時代から母親にいじめられたとしても、子供や無関係な他人を犠牲にしていいわけがない。

 天罰は覿面すべきだ。

 母親にではない。

 子供が幸せになるという天罰が下るべきだ。

 僕が母親の言うことを聞かず裏切り者と呼ばれながら、友情や愛情を得て、自分の人生を生きているように。

 真の天罰は人を傷つけるものではない。

 悪に仕立て上げた何かが「自分がそうなりたかったように救われてしまう」という形で下るのだ。

 本当の正義は必ず勝つ。

 愛と勇気と信頼の元、「みんなで」幸せになるという形で、必ず勝つのだ。

 俺たちは一人で生きているわけじゃない。

 俺たちは自分の世界に引きこもっているナルシストではない。

 俺たちはみんなで生きている。

 だから俺たちはみんなで幸せになれるんだ。

 たった今自分に振り向いてもらおうと傷ついても期待を捨てず待っている子供たちを、無視するどころか虐げる親にやってくる幸せなどない。

 幸せも来ない。

 絶望も来ない。

 何も来ないまま嘆き続けて生きるしかないのだ。

 愛されることもなく無視されて育った子供たちよ、立ち上がれ。

 君たちの親は君たちの前では偉そうなことを言いながら、自分で考えることもできず知らないところでは他人に聞きまわって他人が言った通りに生きているのだ。

 そして君たちの気持ちより幸せより、自分たちが少しでもマシな親だったと思われることしか考えてなどいないのだ。

 現実などどうであっても、親たちはどうでもいいのだ。

 自分の評判が全て、自分の評判のためなら子供も裏切り犠牲にする。

 だから君たちはいつまでもあらぬ期待をしていてはいけない。

 これが現実だ。

 これが現実の厳しさだ。

 子供たちよ、君たちは賢い。

 君たちを罵倒する親よりも、君たちは遥かに賢い。

 だからこそ、

 自分で考えろ。

 君たちにはその力があるのだから。