うちの少数精鋭、継続して通わせていることには意味があります。
最初に話しても多分みんな忘れているんじゃないかと思うのですが…。
尊重される扱い
というものを体験させています。刷り込みです。
僕のところでの扱いは、恐らく尊重されなかった人にとっては「とても良い扱い」です。
それを「当たり前に感じる」くらいまで、自分をその扱いに適応させていくのです。
こればかりは回数が必要です。
その間、勿論色々なことをやりますし、教えます。
生徒たちには自分の生まれ育った土地についても、どういう背景の中を生きてきた一族なのかも僕が調べて教えます。
少数精鋭に通いたい人は、是非体験に来てください。
尊重なんてものは、教わってわかるものではありません。
少々居心地が悪いと思えるほど「良い扱い」を、愛された子はしています。
自分を大切にしてきた人は、喜んでも楽しんでも、その扱いには引け目を感じません。
低い扱いをされた場所に適応し、僕の扱いと比較して向こうを恨んでしまうと意味がありません。
当然だと傲慢になるのも低い自尊心です。
当たり前とは、「気にならない」ということです。
すごいともすごくないとも感じない。
ただ嬉しいとか、楽しいとか、それだけ感じられることが望ましい到達点です。
僕自身が、昔尊重される家の扱いに適応し、家での扱いから脱しました。
こんなに大事にしてくれるところもあるのに、あの人はちっとも大事にしてくれない…
になると、負のスパイラルです。
人により扱いは違う。
自分自身の扱いをどこに適応させるべきか、自分で考えて自ら能動的に適応していくのです。
子供が感じる存在価値は、受動的なものです。
親の扱いをそのまま自分の価値として受け取っていきます。
あっちとこっちが違う!
となった時に、自分自身が望ましいと思える方に「もう一度能動的に適応し直す」のです。
どんなに頑張っても「低い存在価値」で自分を扱う人は、「自分を尊重する」がわかりません。
人に扱ってもらっているだけでは駄目なのです。
僕がどんなに尊重して扱っても、他で「こんな自分」扱いをしていたら意味はないのです。
僕がかつて付き合っていた人も、僕が大事にしている時は随分変わっていたのに、数年で元に戻るどころか前より劣化した扱いになりました。
結局「お世話してもらい続けたい」人には、何をしても無駄なのです。
延々と死ぬまでお世話が必要な「お母さん」とか嫌ですよね。
付き従うのは家臣で十分ですが、それは機能社会の話です。
愛された家の子として振舞うことで、自分の存在価値を高めていけます。
自尊心は自分自身の行いにより変わります。
僕は最悪な扱いを受けて、その分より一層人を尊重するように心がけて生きています。
結果愛された家の子と同じように振舞うから、同じような結果を得られるだけです。
そのベースとなる「当たり前の扱い」をしつつ、心理のこと、社会のこと、歴史や仏教まで教えています。
形の上では問題ないのに、心理的には問題だ。
というのが神経症家族です。目に見えてわからない、言葉だけではない何かがあるのです。
その感覚を自覚できるように、そして新たな自分となっていけるように、自分自身の尊重の基礎を作らせるのが、最大の目的です。
褒められたら大事にされているわけではないのです。
何をしても許されたら愛されているわけではないのです。
そして親子ではありませんから、やはり僕が昔そうしてもらったように、実際の立場としての最大限の尊重をしています。
神経症の人はやらなくていいことをやりますが、人にもそれを求めます。
自分が我慢したんだから、と我慢させてきた人以外に報酬を要求します。
誰が誰か区別できない人です。
この場合、優しい人を食ってしまっているので、話を聞いてくれるような人を次々失っていきます。
何がいけないのかわからない場合は、自分中心にして他人を個別に大事にしていません。
こと親子のつながりが全くない人が多いのだなと思い、先ほどアイデンティティについての動画をアップしました。
皆さんは「子供になっていない」のではないでしょうか。
どんな親でも自分から能動的に子供にならねば、親を見ていて気に入らないところを変えるために頑張っているだけになりますよ。
自ら子供になりに行って、初めて親子になるのです。
何もできない赤ちゃんのうちならいざ知らず、「この人の子になる」と決めて子供になりにいかないと、「親子なのだ」という繋がりを持てませんよ。
人生は誰かの子として存在できて、そこから始まるのです。