人の辛い話を聞いても、責任を持てないことがある。
「こんなに酷いことをされた」
という内容を聞いて
「辛かったね」
と相手の気持ちを考えることはできる。
だが
「その人は酷い人だ!」
とは言えない。責任が持てない。
辛い気持ちになれば、人は誰でも相手が悪く思える。
だがやられたのが自分ではない限り、その人が悪いのかどうかまでは判断し兼ねる。
少なくとも、その人からはそう思えたのだ。
だからわかるのは「この人が辛かったのだろうな」ということだけ。
「お前の考え方は間違ってる!普通はこうするのが正しい!常識はこうなのだ!」
ある友人は、母親に常にこんな酷いことを言われたという。
「お前はおかしい!普通じゃない!」
友人は普通にしているつもりなのに、何がおかしいのかわからず、批難されていつも傷ついた。
そんなことは決められない。
自分から見てどうかというだけ。
「おかしい!」
と思うのは「嫌だ」ということ。嫌悪しているということだ。
「お前が嫌いだ」
と言えばいい。子供は必死になって何かを直さなくてはと思うのだから。
人の話を聞いていても、実際に体験していないし、見てもいない。
知らない争いの正否を判定して、後から責任を求められても困る。
そして責任は持てない。
どちらが悪いか判定してもらうことが大切なのなら、他に行けばいいのだ。
正しくなっても悲しい気持ちや辛い気持ちはわからない。
逆に、「悲しい気持ち」に共感してくれる人の方がいない。
自分の辛い気持ちを感じて、自分のために泣いてくれる人の方がなかなかいない。
社会的にどっちが正しいかは、話を聞けばまず誰もが答えは同じだろう。
誰に聞かせても返答に変わりはないだろう。
ただ、話を聞いた人が社会的判定をすることは容易だが、その話を聞いて自分の気持ちを感じ、共感してくれるかはわからない。
一緒になって「酷いね!」「許せない!」と怒ることはできるだろう。
それは簡単すぎて、社会的理想に従いたい系の人ならば誰でもすぐにやってくれる。
だが、その時の「自分の状態」を想像し、話している自分の様子を見て「辛かったね」と気持ちをわかってくれる人はなかなかいないのだ。
他人の話に善悪の判断などつけられない。
本人が辛かったから相手が悪かどうかはわからない。
相手側の事情がわからないのだから。
何があってもこれこれでなくてはならない!
と軍隊のようなことを言い出したら、ちょっとおかしい人だ。
気持ちが言えない、自覚していない人の中には、善悪の判定をしてもらいたがっている人がいる。
相手を批難してくれれば、気が済むと勘違いしている人がいる。
だが言いたいのはそこではない。
辛かった。悲しかった。惨めだった。寂しかった。
自分の気持ちが言えない人に、やたら同意して正義漢ぶるのは危険だ。
自分が責任を持つことになるからだ。
そんな責任を持たない方がいい。
だから、目の前の相手の心配くらいしか人にはできないのだ。