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生きて不幸を脱したいなら真似しちゃダメ

 言っていることが正しいかどうかではなく、「真似してもいいかどうか」という点で言うならば、決して加藤諦三先生の真似をしてはいけない

 僕も彼に実際に出会って驚いたが、彼は今も内面的に成長できないままの人だった

 神経症のまま学術の力を持って「救う側」にいくことで助かろうとしてしまったのだが、これはよくあるパターンだ

 ただ、社会的にあそこまで活躍してしまうと殆どの人にはわからないだろう

 僕は彼に学術を学んだが、彼の本を読んで彼の言う通りには全くしていない

 「僕はそうは思わないから、僕はやりたくないから」

 元々、既に自分の判断で動いていたので、実際に自分が心から思うかどうか、やりたいかどうかで選んできている

 僕は彼になんの説明も受けることなく、「仕事を手伝いたまえ」と言われ連絡先を渡しただけだった

 その後知らない人から次々連絡がきたが、彼が一体何をどう説明しているのか、僕はなんの説明もされていないのに既に話が進んでいるので何もわからなかった

 僕は彼が「もっと成長している人だ」と最初は思い込んでいたので、何か意図するところがありそのうち教えてもらえるのだろうと思っていた

 だが、それはなかった

 あれこれ質問すると、メールで「要求が多すぎです」という返事が来た

 仕事を手伝えと言ったのだから、内容や目的、報酬や期間など、必要なことについての説明はあるのが当然だ

 彼はずっとそうしてきたのだろう

 彼には権力と学がある

 殆どの人はそれで黙ってしまうのだろう

 周りの人たちは我慢しているのが見て取れた

 嫌われているのはよくわかった

 「真似してはいけない」というのは「要求が多すぎです」と言ってきた、そのようなやり方のことなのだ

 彼は精神分析を学び「あの人はこうなんだ!」「父親はこうなんだ!」と他人の物差しを借りて次々判別するようになってしまった

 そしてそれをそのまま口に出して、他人の動きを操ろうとしているのだ

 「要求が多い」と思ったら「要求が多すぎです」と言って相手を黙らせる

 それでは幼稚園児だ

 「要求が多い」と思ったら、相手はどうしたのだろう?と考える

 そして自分自身がこの状況でどう何を言葉にするか、考える

 だが彼の場合は実際には「面白くない質問には答えたくない」だけなのだ

 彼は元々「自分が無い」ので、精神分析学を学んでも理解はしていない

 勉強としては理解しているが、自分を勘違いしているからそのまま口に出している

 僕の方は考えている

 どうしたら彼に引導を渡して差し上げられるか考えていた

 引導を渡すとは、極楽浄土に本当に行ってもらうという意味だ

 気づかせるということだ

 だが、彼は自分に完全に同意同調しない人は次々排除していく

 僕がいたのは一時だが、それで周りも嫌になっていなくなってしまったのだろう

 神経症の人にはよくあることなのだ

 理屈で先に理解して、「もうわかった!」と安心してから行動する

 順序が逆

 完全に方向性を間違って突き進んでしまった

 彼は既に高齢だった

 少し足を引きずって歩いていたのは、もう七年近く前だ

 残りの余生は、本当に心から安心して過ごしていけたらいいのに、と思っていた

 とはいえ、なにせあれだけ人に直接「あなたはこうだ」と言い放ってきている

 気にしている人たちも沢山いる

 それで僕はラジオで「あなたはべきの暴君なのだ」と言われたという方に「そんなことはない、教授の見立ては間違っている」と反対のことを言ったのだ

 自分自身ができないことは、人に教えることはできない

 勉強して理解したつもりになっても、実際には理解できていない

 勘違いして理解している

 そして、「いるはずがなかった人格」というものが存在している以上、フロイトが間違っていたと考えるのが妥当だ

 僕はフロイトの研究もそこから連なる今の臨床心理も、元々後ろ向きな人が始めたものだけに「解決策がまるでない」ところが気になっている

 人間は完璧な環境で生まれ育たない

 その当たり前のことが「気になってしょうがなくなる」のが精神分析だと思っている

 加藤諦三先生の本を読んだ人は、殆どの人が彼の本だけで知っていると思う

 僕は原本も読んでいる

 凡そ日本人が思う「優しさ」の欠片も感じられない内容だ

 「みんな性格悪いんだな」と思った

 よくこんなに人の粗を気にして、いちいち研究したくなったものだなと思うし、その表現がやたら教養ある人のものであるから面白い

 研究をしている人たちは、社会的には優位に立てる立場にあるのだが、更に上の人たちに常に屈服していなくてはならない人たちでもある

 上に行けば行くほど、惨めさを社会的理想の理由で覆い隠し、我慢して生きている人たちばかりだ

 なにせ金と権力に近いのだから

 結局、「本人の動機が何か、目的が何か」そこが重要だ

 僕は、みんながもっと寛容になり、ひとりひとりが自由に道を選び生きていけるように尽力している

 無駄なものに思考の世界で縛られることなく、恐れを捨てて生きられるように活動している

 何より、争いを起こしたくない

 もし、加藤諦三先生の本が原因で親子の不和が悪化したり、自分は被害者だと思い込んで一生悲劇の中に生きることになった人たちが大勢いるならば、業の深いことだなと思う

 彼は本人が説明する神経症者をそのまま地でいく言動をとる

 いきなり怒鳴る

 本人の中ではいきなりではないのだろうが、それは「本人の頭の中にある誰にも理解できない世界」の中での話だ

 実際には、いきなり怒鳴りつけてくる

 僕は彼が全く怖くはないが、彼は人を非常に恐れている

 今まで生きてきて、彼にしか感じたことのない異様な体感があった

 他の人には感じたことがないから、一体これがなんなのかわからなかった

 「恐れなのか」と気付いたのは随分経ってからだった

 あれだけ極端に二分割思考の人が書いた本なのだから、出口もないし鵜呑みにすれば敵が生まれて終わることもない

 「どう脱するのか、彼自身がわからないのだな」ということはよくわかっている

 脱し方がわかっているなら本人がとっくに脱している

 だが、彼自身が書いている通り、彼には欲があった

 他人に認められたい、ちやほやされたい、そんな欲があった

 そしてそれは叶っている

 叶っても満足はしなかっただろう

 彼は「前向きに生きていない」「自分が内面的に成長していない」ということが大変な罪のように思えているようだ

 できる人間と、できない人間に分けて優劣をつけて考えるからだ

 世の中にはそのように間違っているのに正しいとされている教えがいくらでもある

 それは例えば日本で使われている仏教の「十善戒」だ

 ブッダの説いた「十悪」を基に戒めを説いたものだが、実行するとそれは善にならないというトリックのような内容だ

 「殺生をしてはいけません」

 「殺生は善いことではない」

 後者がブッダの説いたことだ

 戒めになると、もし殺生をしたら悪いことをした人になる

 摘発や支配が生まれる

 ブッダを超えることなどできないと痛感したのはこれに気づいた時だ

 ブッダは更にこう説いている

 「殺生から離れるのは善いことである」

 こうなると、「殺生しないようにしなきゃ」と他人の目を恐れない

 他人に戒めを与えられると、それは支配になる

 人目を気にすることになる

 社会的ルールならばいいのだが、心の行いについてはそれはしてはいけないことなのだ

 それぞれが悟りを得られなくなる

 「自分は殺生はしていない」と優越感に浸れば、殺生している人を見下すことになる

 殺生から離れれば、善い行いができる、と思えば、何かある度に少し気をつけて殺生をしない度に「自分は少し善い方に進めた」と自分に満足できる

 そんな風に、似たような内容に見えても全く違うというものがある

 と僕も反省した

 もっとよく、深く考えるべきだったと、気づくのが遅すぎたことに反省している

 そして加藤諦三先生については、大いに遠慮してきている

 お陰で自由にできなくなってきて、すっかりつまらなくなった

 人に遠慮して人に期待していると、本当に何をしていてもつまらなくなるものだ

 とはいえ、彼には沢山のファンがいる

 一度彼の教えを正しいと思った人には、その流れを壊さないように考えねばならない

 いきなり違うものが出てきたら、理解できなくなってしまうだろう

 そこで僕はいちいち「僕をどこで知ってやってきたか」を聞いていた

 僕も最初は驚いた

 彼がテレビに出ていて、そこで言っていた内容にびっくりした

 それについても意見したが、基本彼の気に入らないことについては無視される

 彼は自分自身の行動の全てを精神分析学で守ることができる

 だから何も変わらずに生きていけるのだ

 あれほど父親を貶していたのに、昨年は祖父を褒めたたえる本を出した

 その祖父が育てた父親が自分を育てたのにと思うが、退行に向かえば「より自分にとって強い存在」の味方をして同化していくものだ

 祖父がどう言っていたかを書いていた

 如何に祖父が社会で他人に向かって言っていたことが正しいのかを述べていた

 そして父親はそんな風に「外に向かっていいことばっかり言っている人気取りのために生きている政治家の祖父」を悪く思っていた

 こうして書いてみても、皆さん読んでいると混乱してこないだろうか

 全体像を把握し、一体どう見ていくか、対処していくか、そこからが自分の判断なのだ

 とりあえず、普通に考えても彼は性格が悪い

 実際に「日常会話」をするような場面では、彼が「ものすごく演技がかっている人なのだ」とわかる

 常に焦燥感を抱えているような、落ち着きのなさがあった

 一人で話している時は、すごくいい話を聞かせてくれる

 物語を語るように、人をうっとりさせる「いい話」をするのがとてもうまいのだ

 誰もが求める「理想的な家庭」などを語るのは、とてもうまい

 それで宗教のように、みな心酔していくのだろう

 何より、彼自身が「自分を肯定するため」に書いている自己陶酔の内容が、似たような自己憐憫の人には相当刺さるはずだ

 「この人はわかってくれる」と思うだろう

 自分が被害者になれるところだけピックアップしたいだろう

 人を恨んでいる人ならそうなる

 そして自分自身の行動を否定される点においては、自分がものすごく悪いことをしている気がして気になるだろう

 内容が事実であっても、彼の解釈の仕方はかなり極端だ

 彼は神経症者の行いが赦せないのだ

 しかし自分もやっていたから、それは仕方ないと肯定したいのだ

 なんとも厄介な状態で停滞してしまうものだと思う

 どんなに頑張ってきたか、卑劣な輩に騙されてきたか、社会的に大変なことを成し遂げてきたか

 それらの理由は、教授においてだけ道理を無視していい理由にはならない

 しかし、彼は既に地獄に生きている

 だから別に批難する必要性などない

 必要なものと言えば、極楽浄土に渡るための引導くらいだろう

 今頃、不安や恐れを別のものに置き換えて死が間近に迫る現実から目を逸らしていないだろうか?と僕は心配している

 僕は彼を全く知らなかったから、それまでどうだったのかは知らない

 感覚的に、何か深入りしてはならない地獄への道が続いている、と察知して離れた

 似たような人たちが一緒についていくのだろう

 自分は正義で、他人が悪であると常に怒りを抱えながら

 彼は確かにすごい努力家だと思うが、「自分が知らないものがある」ということに気づかなかったのだ

 まだ「不幸な家庭」しか体験していない自分には、存在すら知らない何かがある、と考えなかった

 そして字面だけで理解してしまったから「神経症家族に存在しているものだけで説明をつけた世界」になってしまったのだ

 そもそも精神分析学から始まった今の臨床心理は、出口がない

 ブッダのように明確に示しているものがない

 親が原因でこんなことになった、というならばそれはそれでいいのだが、そして次は?

 そして次はどうすればいい

 何をすればいい

 そこに答えがない

 脱するにはどうすればいいのか

 ここから脱せるのか

 そのように「明確に目指せるもの」が何もない

 僕自身も親子の関係について、親について理解はしている

 親が子供なのだということは自分が子供の頃に既に気づいていた

 しかし、親を冷静に分析したり、慈悲を感じられるようになったのは「自分が既に満足できるようになってから」の話だ

 前に進み新しい道が開けてくると、自然と気付く

 そのようにできている

 新しい体験をして「こういうことだったんだ」「こんなものがあったなんて」と心から実感しない限り、理屈で聞いても今までの体験の中からしか想像しない

 だから体験が先なのだ

 体験もないのに、理屈だけで理解するなど到底無理なのだ

 体験するまで、やってみるまでは何もかもわからない

 加藤諦三先生は、結局「人々の幸せのため」にやっているわけではないのだ

 自分のことしか考えなかった人たちに指摘して反省させて謝ってくれば満足するのだ

 表面の世界、言葉だけ、形だけの世界が彼の生きる世界なのだ

 驚くことはいくつもあった

 だが、「仲間のことは外で悪く言わない」と僕は自分が教えている通りに自分も実行してきた

 とはいえ、間違っていることを正しいとして続きを生きていくのには無理があるなと思った

 人間は、恨みや怒りに火をつけてやると動かしやすい

 自分を持ち上げてくれる内容は深く考えずに肯定してしまう

 感情のはけ口を探して生きているだけなのだ

 日本では、老齢の人たちが下を押さえつけていることがよくある

 彼もまた例外ではない

 下に続く者のやる気を失わせて輝いている人だ

 それにしても、「真実が気になる人」はこんなにもいないものなのだなと驚くばかりだ

 怒りや恨みで生きているから、真実などどうでもいいのだろう

 「赦せない人」をなんとか悪者にできるならば

 僕自身は、怒りも恨みも乗り越えてきた

 母に感謝を伝えられてよかったと思っている

 加藤諦三先生が思いもよらない方法で道は開ける

 本当になんでもないことで、僕自身も最初は「こんなことだったのか」と脱力し、それまでを悔やんで泣き笑いする気分だった

 しかし、人間は「一度聞いて正しいと思ったものは覆すことが難しい」ものなので、彼の教えを受け彼を信じて進む人たちは、どちらにせよ彼と共に最後まで進んでいくことになるだろう

 彼は大勢の人を救って幸せにした、と思っているが、果たしてそうなのだろうか

 親の支配に気づき、親に反抗し、はっきりと敵対し、敵味方としっかり分けて対応することになれたら、それでいいのだろうか

 それが、笑顔で楽しく生きられる人、だとは僕には全く思えない

 私中心の世界を生きている人は、個別に人を考えない

 例えば僕と加藤諦三先生が同じものを引用した時、それは同じではない、という区別ができない

 だから、説明して理解できるのはほんのわずかな人だけだろう

 それ以外は実践あるのみだ

 と僕は思う

 彼の言うことは確かに正しいのだが、そこから「自分を善き人」に導くための道筋がないのだ

 だからうちにいる生徒の中にも「自分がすごく悪いことばかりしている嫌な人間に思えてきて、もっと自分を嫌いになる」と言っている人がいるのだ

 片方だけでは成り立たない

 全ては表裏一体なのだ

 物事を片側からしか見られない人に、進んでいく道を示していくことは大変難易度の高いことなのだと僕も痛感するばかりだ

 なにせ認知の世界では常に時間が止まっており、常に今が「終わりの時」なのだから