目安箱の質問より、今回作業同時進行中なので簡単に。
とても分かりやすい質問いただきました。
質問 「ペルソナを作って自分を偽って人と接するということは人に対して思ってもないことを発言するのと同じことではないんですか?」
という質問でした。
答え 違います
ではどう違うのか?
これは区別の問題です。
「嘘を言う」と「騙す」が違うのです。
そもそも、「騙す」ってなんでしょうか?
本質的なことです。真実ではないことを言い、ごまかしてそれを「信用させる」ことです。
例えば、今これを読んでいるあなたが聞いたら傷つくような、心無いあなたの陰口を僕が聞きました。
ここであなたを傷つけないように、「彼らは何か言ってた?」と聞かれても、僕はあなたに陰口を叩かれていたことは言いません。
これが、仲間が言う「嘘」です。
ここで、本当は僕もあなたの陰口を一緒になって言っていたのですが、目の前で「何か言ってた?」と聞かれても「特に何も」と誤魔化します。
これが、「騙す」です。
この違いです。
相手を守るために言ったのが優しさの嘘。
自分を守るために言ったのが偽って騙す、です。
質問の内容の場合は
先の例の際に「僕が本当は一緒に陰口を叩いていたが」あなたには「黙っておこう」と言わないとします。
勿論、陰口を叩いていたのに目の前でそれを言わないわけですから、僕はあなたのことが嫌いです。当然です。嫌いだから陰口を叩いて目の前で黙っているのです。
僕自身が、あなたのことは嫌いだから、陰口を叩いても黙っていよう、と自覚して判断でやっているならば、それは「思ってもないことを言う」ではないのです。
あなたを仲間だと思っておらず、そして自分の行いを自分自身正しいと確信している。納得してあなたの陰口を叩けている。
それならば、僕の意志と判断です。もしバレても慌てもしません。この場合はあなたに何らかの恨みや憎しみがありますね。それなりのことをされたのでしょう。何もされていないのにそんなことをする人は、おかしいですから。
現実的に何もされていないのに、そんなことをしていたらそれは僕がただの暴漢です。
実際にあなたの方からなんの悪意もない僕になんらかの危害を加えてきて、正当な理由が成立しますから。
恨みや憎しみにも、正当なものと不当なものがあります。
もしあなたがそれを知って「そんなこと言っていたのか!」と傷ついて僕を責めたら「だってお前のこと前から嫌いなんだもん」で終わりです。
傷つくとわかっていてやっているのですから、あなたが余程嫌いなのでしょう。
こんな真似は嫌いな人にしかしません。
これで「仲良くしたい、本当は好きです」と言われても信用しないでしょう。
嫌いだから陰口を叩く。それは良い悪いではなく、当たり前ですね。
ところが、あなたの陰口を叩いているにも関わらず(しかもほかの人たちと)、目の前では何も言っていないと騙し、「仲良くしようとしている」としたら、異常です。
他の人たちと陰口を叩きながら、仲良くしようとしているなどありえません。
陰口を叩いていた理由を話し、僕があなたの何が嫌でどう思ったからみんなで陰口を叩いていたのか、気持ちをわかってくれ!と求めだしたら、ただの甘えのいじめです。
陰口叩いたら嫌われる。嫌いな人でもないのに陰口は叩かない。
目の前でばれて困ることはしないのが仲間。逆のことをされて信用できないことは自分もしていない。それが仲間です。
信用されるわけがないことをして、信用されようとしている。
騙して奪うと決めていない、敵であることを自覚していないのに、自ら敵対している人、それが「甘えて絡んでいるだけで、仮面を被らず子供のままで外に出ている人」です。
こいつをいじめて皆で楽しもう、と僕が思っているならば、それは意志の元に行っています。理由もわかっています。
僕の場合は、仲間に対して信用されなくなることは、どこにいてもしません。自分から離れた言葉は勝手に独り歩きします。身近な人のことは特にバレて困ることなど言うべきではないし、仲良くしたい相手ならば信用されなくなることはマイナスにしかなりません。
目の前で「そんなこと言ってたの?」と聞かれても「言ってた」と答えて困らないことしか、どこに行っても言いません。別に言う必要ないですからね。
仲良くしたい人を相手に、弁解が必要なことをしていたらおかしいですからね。
出来心の浮気をした旦那でもあるまいし、相手が旦那でも妻でもない他人ならばそんなことしたら信用してもらえませんよ。
信用してもらいたいから、信用に足る行動取る。
相手は自分で選びます。
お互いにその状態ならば、信頼し合う仲間になります。
別に信頼してほしくもない、自分が嫌っている相手ならばどうでもいいでしょう。争いになることは覚悟しているわけですから。
嫌いでも表立って争いになりたくないならば、それもまた黙っていますよ。
面倒ですからね。後が。自分は言っただけで忘れても、言葉は人を伝って他までどんどん広がります。一度放てば止められないのが言葉です。どこからブーメランになって返ってきても、自分が放った言葉をキャッチして説明するのは自分です。
自分が後で慌てるような言葉は、最初から放ちません。
それはどんな仮面を被ろうが、相手が敵だろうが味方だろうが関係ありません。
仮面を被っていない人は、自分が過去に放った言葉も戻ってきたらキャッチできない人です。
ペルソナは意識して被る仮面ですが、素体である本人が善人なのか悪人なのかはわかりませんよ。
善人悪人というのは、極端な表現ですね。
自分にとって敵でも相手が必ず悪人とは限りませんから。
自分たちさえよければいい、と考えているか、自分たちだけではないのだからと考えているか。
利己的か、利他的か、の違いです。
最近僕も気づいたんですけども、「社会では「はっきり言えば全く理想に反している何か」を表現しまたは成立させるとき、言葉の上では「全く違うことを言っている」と知らない人が多くいます。
どこかにとって、特に強い権力にとって都合の悪いことは、大っぴらに言えるわけがないのは、親がうるさいので言いたいことも言えない家で育った人には当たり前のことでしょう。
勿論、世間であってもそれは同じことです。
むしろ家の中より世間での方が、形が分かりにくくなります。
勿論、他人は「自分がどんな人か」を知らないわけですから、信用してもらうためにはそれなりの行動が必要なのです。
自分も仮面を被っているが、相手も仮面を被っている。
他人はどんな生き物なのかもわからない未知の存在ですから、何を言っているかに関わらず、現実の体験を重視しなくてはわからないのです。
プロの詐欺師などは目的あって自分の意志で仮面を被っています。
ですから、仮面を被らずにいる人と違って、騙すにしても堂々としているのです。
堂々と騙してくる人を見抜くには、堂々と仮面を被って生きるしかありません。