人間には平等に存在価値があるとあなたは思いますか?

 人間には平等に存在価値があり、人が人の存在価値そのものを判断することなどできない。

 というのが僕の持論ですが、これを読んでいる皆さんはどうでしょうか。

 残念ながら、人間には生まれながらに価値の差があり、価値ある人間とそうでない人間がいる、と思っている人が大多数です。

 それはどこでわかるのか?

 判断するのは簡単です。

 「自分を他人と同等の価値に扱っているか」

 ここに、自分が人間の価値をどう思っているかが現れます。

 人間の価値に差をつけたい人は、自分を人より下として扱う(卑屈な姿勢になる)か、または人より上として扱う(人をバカにした傲慢な姿勢になる)か、どちらかです。

 人間の存在を等しく価値あるものとして扱う人は、自分も人も尊重します。

 卑屈にもならないし、バカにもしません。

 人間は嘘をつくので、人間は等しく価値があると言いながら実際には自分を貶めていたり、人間である自分が判断して人をバカにし迫害していることがよくあります。

 それは嘘つきの人なので、口で言っていることを信じてしまうと騙されます。

 本当にそう思っていたら、まず真っ先に自分が確実にどうするか決められる自分をそのように扱います。

 しかし「自分だけが特別」だと思っている人は、「他の人はそうかもしれないけど、自分だけは価値がない」などと自分には人の価値を決める権利があるかのように振る舞います。

 自分だけは他人とは同等ではない存在として扱うのです。

 自分が作る世界は自分によって決まります。

 人間関係は非常にわかりやすくそれを表しています。

 卑屈な姿勢で生きる人は傲慢な人を求めるように、対等な存在として人を扱う人は対等に尊重してくれる人を求めます。

 自己卑下して生きる人は他人のせいでその状態になっているのではなく、自分自身が「自分だけが特別」であるという世界を手放さないから「特別駄目な私」として救われる日を待たなくてはならないのです。

 形となって揉めるのは誰かとの人間関係ばかりなので誤解しがちですが、そもそも自分を特別だと思いこんで生きるためには、アンバランスな支配関係しか作ることはできないのです。

 どこかで我慢して支配されているならば、他で誰かを崇拝しなくてはならないのです。

 宗教の集まりには、家庭で献身的に尽くす妻たちが多くいる、なんてことがあります。

 理想的な教えと、その教えに「家の中で」従いながら理想の家族に変わってくれることを夢見る人々。

 まあ、普通です。そうなるしかありません。

 そして崇拝する何かに注ぎ込んで、「特別な私」を守るのです。その場合は、本人は「理想の家族」を思い描いています。自分という特別な存在を守っているとは夢にも思っていません。

 際限ない推し活も本質的には同じことです。

 特別な存在として生きていくならば、人間として尊重し合う対等な関係を諦め、宗教団体のように理想を崇拝する人たちと群れて生きるしかないのです。

 それだけではなく「我慢して尽くす関係」を維持しながら。

 縦横無尽に張り巡らされた因果の輪から出るためには、自分という存在が変わるしかないのです。

 「存在」が変わるしかないのです。