故郷を持ち上げるわけではなく、本当に存在している見えない力の話である。
自分たちにとっては当り前ということも、他にはない力となる。
金沢の人々が持つ力のひとつに、歴史を知っているというものがある。
地元では当たり前なので誰も特別だと思っていない。
だが、東京にいて驚くことのひとつに「多くの人は自分の家がわからない」という現実がある。
これは金沢の人々、加賀藩の人々に向けての話であるが、自分たちが当たり前だと思っているものを大切することである。
金沢は一度も戦火に遭っておらず、戦後の復興も全国最速だった。
歴史的なものは当り前のように残っている。
加賀藩自体が大藩であり、更にうまく生き残ってきた。
前田家への恩義を忘れないことである。
故に、普通の家の人たちにも自分たちが昔どこで何をしていて、どうやって今に至っているのか知っている人が当たり前に存在している。
武家ではなく普通の民家に住む人にも、家屋の保存を命じられる人たちが沢山いる。
うちは農民だ、という人が当然殆どだが、本当に農民だったことを知っている人たちがいるのだ。
どこの土地でどこの元で農民だったのか、本当にわかっている人たちがいるのだ。
それがアイデンティティが守られているということである。
農民だった、と言いながら、実際にはその確信もなく、「特に何も聞いていないから多分そう」というあやふやな認識で「うちは農民だった」と言っている人たちも沢山いるのだ。
農民なら農民で、どこかの小作人または領主などなのだから、どこ藩のどこ地区の農民であるというのは明確にできるはずなのである。
これがあやふやになってしまっているから、僕は廃仏毀釈の話をしてきている。
農民たちの出自を明らかにしてくれたのは、寺だからだ。
最近もうちの生徒で寺にて出自を明らかにできた方がいた。
寺は近隣に住む人たちの系譜を保存しているのだ。
一村一寺の頃より、寺の存在は非常に重要なのである。
墓の存在は自分たちの系譜を明らかにし、どこの誰なのか自覚するためにも大変大切なことなのだ。
出自を明らかにするとは、なにも昔偉い人だったとか肩書があったとかいう話ではない。
何藩のどこの領地の農民だった。とハッキリできるならば出自は明らかである。
そうなると、寺、またはうちのような領主の家があり、「あなたたちは昔ここでこんな暮らしをしていたんだよ」とこちらも教えられるのである。
企業にしても、個々の社員は自分以外の社員を把握などしていない。
だが、社の方からは全社員を把握している。
そのように、集団となって活動している限り全体を把握している存在がいるのである。
金沢では、自分たちが誰なのか最低限本当に自覚している人たちが多く残っている。
これは思うより珍しいことであり、少なくとも東京ではそのようにハッキリ自覚している人が少ない。
「今は関係ないじゃん」
これが恐ろしいのである。
全員で同じものを目指さなくてはならない。
だが、実際には親のまた親のと代々続いて生きているのだから、全員で同じものを目指したくなるわけもないし、それぞれが本当は違うのだからそれぞれが違う引け目を感じて生きなくてはならないのだ。
農家の子も漁師の子も商人の子も誰もかもが東大に行けば幸せになる、医者や弁護士になれば褒められると思ってしまう。
目指さなかったとしても「あれが一番すごいものだ」という概念を持ってしまう。
大変危険なことである。
別に悪いことをしているわけでもなんでもないのに「こんな自分は落ちこぼれだ」と思い込んで生きていかねばならないのだから。
何よりも、「昔のことは関係ない」と言い切って「今はみんな同じ」としたがるのは、今自分自身がどこかの普通の会社員であればかつての農民と同じなのだから、未来の子孫が「ただの会社員であったご先祖様の自分」の存在を恥じて「昔は知らない、そんなの関係ない」と言っているのと同じなのだ。
今他の人たちに自分が引け目を感じて生きていれば、子孫もまた同じように「ご先祖様があっちの家みたいに偉い人なら人にも言えたのに」と恥じて隠していくだろう。
たとえ今貧しくとも社会的に偉くなくとも、自分自身は懸命に生きているのに、未来の子孫が社会的肩書でご先祖様たる自分を恥じて存在すら消えて欲しいと思われていたら、どう思うであろうか?
子を成して育てていくのも楽なことではないのに、自分が存在しなければ生まれることすらなかった子孫に、そのようなことを思われるのは大変残念なことだ。
だからこそ、我々もまた、ご先祖様の身分や故郷のことなど他人と比較して恥じることなく、「ここで懸命に生きていてくれたのだ」と感謝し尊敬の念を持つべきではなかろうか、と僕は思う。
そして僕自身も、加賀藩、前田家、また領民他全ての人々に感謝し、皆々様の恩恵を受けてこの世に生を受けたことを有難く思っている。
生きてこの世でおいしいものを食べ、楽しい時間を過ごし、何もわからなかった自分が人様の用意してくださったものから学び、力を身に着けまた役にも立つことができる。
動物ならば自然の法則に従い、考えることなくただ生存していくだけなのに、人間に生まれたからこそ得られる幸せが沢山ある。
「有難い」とは、人として生まれることだけでもなかなか難しい恵まれたことなのだ、という意味の仏教用語である。
人間として生まれたことを幸いとして、苦のみでなく楽があるということを有難く思い生きていくことが極楽浄土への近道なのだ。