インターネットが普及し始めた頃から、僕はインターネットを使っている。
その昔は、「テレホーダイ」と言うものがあり、深夜からつなぎ放題になった。
電話につないでいるケーブルをそのまま使用するため、家族に断って使わねばならなかった。
そして使用している際は、通話と同じ料金がかかった。
通話のし過ぎで高額な電話料金の請求が来てしまうように、インターネットは使い過ぎると通話量が上がった。
しかも、速度は非常に遅かった。
メールに画像を添付するならば、先に電話して相手にお断りを入れるのがマナーであった。
数分程度では済まないくらい、メール一通の受信に時間がかかるからだ。
そのため、「圧縮ファイル」という存在が登場し、重宝されていた。
ISDNが登場した際には、あまりの速さにみな驚いたものである。
更に、「一日中つなぎ放題」のADSLが登場した際は、みなその概念を理解できず、
「一体どういうことなんだ!」
「電話代はどうなるんだ!」
「湯水のようにインターネットをしても平気だと言うのか!」
と大騒ぎしたものである。
当時の我々が「光回線」などと聞いたら、「一体どこの星と通信できるようになったのか!何光年くらい先までつながっているんだ!」と驚き、その概念は理解できないだろう。
そんなインターネットも、信じられないくらい普及したものである。
人類奴隷化計画の一部であるかどうかという話はここではいいとして、その恐ろしさに僕も先日直面した。
少し前のブラックフライデーである。
世界的に湧いていた。日本はさほどでもない。
僕は海外の通販サイトで、このチャンスにいい品がないかと前々から欲しいと思っていたある品を探していた。
仏像である。
僕は仏像とバジュラを探していた。
柘植の仏像で、これはいいなと思うものがあった。
購入するかどうかは悩んでいなかったが、とりあえず「これはなかなかの仏だ」と思って見ていた。
そして、他のことをするためにスマホを置いた。
少し後に気付いたのである。
画面に手が触れた時に、僕は知らずに仏像を購入していたのだ。
なんと、僕の意思とは無関係に、そしていつもの無意識も関係なく、ただの「アクシデント」で僕は仏像を購入してしまっていたのだ。
専門用語で、これを「ポチる」と呼ぶ。
仏像を気づかぬうちにポチってしまっていたのだ。
最近流行らしい、「タピる」ならば、知らぬうちにタピってしまうことはなかったであろうに、ポチることは事故でも起きてしまうのだ。
これはショップに問い合わせねば、と思い、キャンセルを申し出た。
「友人よ、ちょっと確認するから待っていてくれ」
内容的にはそんな感じのメッセージが届いた。
なので、待った。
そういえば、「各国語で対応できます」と書いてあったサイトで、本当に?日本語でも可能なの?と思い日本語で問い合わせたことがあった。
可能であった。
できるだけ英語に近い感じの日本語の並びにして、送ってみた。
すると、各国語に対応してくれるサイトでは、日本語をちゃんと理解して返答をくれた。
英語で。
それを見た時、これは各国語で対応していると呼べるのだろうか?と疑問に思ったものだ。
そして今回の仏像アクシデント。正確に言うならば「観音菩薩アクシデント」だ。
きちんと対応してくれた。
「今回はとても残念だ、友よ。7日くらいで返金されるからね。またよろしく頼むよ。」
内容的には、そんな感じのメッセージが届いた。
アクシデントは一件落着した。
あやうく、忘れた頃に家に仏像が届いてしまうところだった。
スマートフォン。なんという恐ろしい機器であろうか。
カメラから顔まで認識し、指紋も認識し、声も、全てを監視されているだけではない。
僕たちの全てを海底ケーブルを通して送り出しているだけに飽き足らず、ちょっと触っただけで仏像を購入させてしまう、そんなリスクも抱えている危険な機器だ。
ジョブズは天才だったが、彼のような天才の発明する物は、大抵悪用される。
天才の才を、人を貶めることに使う人もいれば、人を幸せにするために使う人もいる。
人間は、常に両面が存在する。
インターネットも、人を騙して貶めるために使う人もいれば、人と触れ合って仲良くするために使う人もいる。
要は、使い方次第なのだ。
善良な人は、同じものを見ても悪用する人の発想が出てこない。
人を騙す人は、同じものを見ても善行に利用する人の発想が出てこない。
それが人間だ。互いに理解は難しいだろう。
その発想が理解できないのだから。無いのだから。
真面目っぽい話になってきたが、とりあえずいきなり仏像がやってくることが無くなったので、良かった。
手を触れるだけで物を買い、家まで届く魔法の機器。
だが、その裏には当然人間がいて、見えないところでは僕たちが想像もつかないことが起きている。
宅配便の人たちが四苦八苦して荷物を運んでいることもそのひとつだ。
僕たちは自分たちが魔法のような体験をするために、自分自身も奴隷のように働いているのだ。
人間が生み出す「幻想」のために人生を捨て、捨てた人生を慰めるために自分自身も「幻想」を買うのだ。
お代は自分自身の人生でお支払いください。
皮肉じゃないか。
もっと便利に、もっと簡単に。
そんなことを追求したはずだったのに、もっと便利でもっと快適な生活をするために、更に夢のようなことが起きなくては生きていく甲斐もない、と思えるような人生を送るのだから。
我々は操作されている。
全ては繋がっていて、僕たちの生き方ひとつ、選んだものひとつにしても、何もかも与えられたものであって、選んでいるように思えて、実は選んでなどいないのだ。
犠牲と我慢を強いられた人々は、どこまで夢の楽園を追い求め、他人の夢を叶えるために更なる犠牲を払うのだろうか。
正に本末転倒。
気付かなければ、何一つ変わることはないのだ。