確かにそうだなあと思うことを書いている人がいると、SNSではそれをなんとか罵ろうとする人が現れるものですね。
先ほど見ました。
元は医師の発言を引用した人のものでしたが、その医師が言っていることも、そうなる理由も僕は理解できますので「確かにそうだな」と思っていました。
そしてそこに連なる人々。
すると、自分が「悪い方に当てはまった」と思った人が、なんとかしてケチをつけようとするのです。
歪んだ解釈をして、悪意ある発言をしているのですが、その悪意ある人に対して「まともな人ならそう思うだろうね」と思える「まともなこと」を突っ込んでいる人がいました。
言っていることは正しいし、その通りだと思います。
ただ、気をつけて欲しいのはここなのです。
絡んでケチをつけに行く人の発言には悪意があります。嫌な気分になりますから、つい怒りが起きて「当たり前のこと」を突っ込んでいきたくなるのです。
しかしその時の「怒り」が原因で、引きずられなくてもいい地獄に引きずられてしまいます。
怒りには最も気を付けなくてはなりません。
敵意ある発言を見れば、何か嫌な感覚が生まれてきます。敵意に反応しているのです。
争いに首を突っ込みにいくと、まともなことがわかる人まで同じ土俵に引きずられていきます。
つい言い返したくなるのはわかります。他の誰か、別に悪意もないような人が罵られてケチをつけられているからです。
しかし、蓋を開ければ悪意の人は程度が知れたものです。
自分が反論されれば、学校や親にはそう教わったとか、それしか教わってないから知らないとか。
政治について親が子供の頃から話していた、ということで優越感を持っているようでした。
権威主義です。
要は、成長していないのです。
人間は最初の自分の精神が「死んで」から本物になります。
仏教的な表現ですが、三途川は肉体が死んで渡るものではありません。
自己中心的で尊大だった「なんでも知っているつもりの自分」が一度死ななくてはなりません。
そのために、無明、無知こそ最も解決しなくてはならないものとして挙げられています。
教わったことだけ覚えて、自分はできるつもりになっている。
何もかも人様から与えられていて自分で考えて決めてもいないのに、反論されれば権威ある何かの名を出し心を守ろうとする。
偉い人がどんなに悪いことをしていても、こうした人が守っているので今の格差社会があります。
自分さえ良ければいい、の精神です。
そのような人に反応して怒りを持ってしまう人は、気をつけてください。
その反応はおかしなものではないと思いますが、結局、実際に目の前にいる人ならば誰も相手にせず「嫌なことばかり言う」と思われて人が離れて行くような人でも、ネットでは「かまってもらえる」のでどんどん増長していくのです。
放っておくことです。誰も相手にしてくれない、という状況になるから、我儘な子供も自然と諦めたり改善したりするものです。
いつまでも誰かがかまっていると、いつまでも変わりません。
批判したい人の言いたいことはよくわかるし、僕もそう思います。
ただ、思うだけです。
思った時に、どう行動するかは自分で決めるのです。
誰かが引用した言葉を見ただけ、それについて言葉に言葉でケチをつけに行った人がいただけ。
そのような場合は、今何かが起きているわけではありません。
それだけ正しいことがわかり、正義感や思いやりの心があるならば、実際に何かが起きた時に行動する勇気を出す方に力を向け、つまらない争いはしないことです。
戦いに行けば同レベルになってしまいます。
せっかく賢い人がいても、感情をまき散らしている人がいるとどうしても悪い方に引きずられていきます。
SNSはかなり難易度の高いところだと思いますので、僕も人の発言はあまり見ないようにしています。
まともな人は、本人自身も普段からまともなことしか言っていません。
しかし、人を煽って怒りを起こさせるような人は、常にその状態なわけですから反応していたらキリがないのです。
その人の心が地獄なのです。
確かに正しいと思うことでも、行動の動機が問題なのです。
発言は正しくても、内容も理にかなっていても、動きたくなった動機が「怒り」では、やはりその行動は善き行いとは言えないのです。
怒りを消し去る発言の方が、行いとしては正しいです。
やたら難しいことを言いたがる人はいます。
しかし、人間は本当に身に着けているもの、持っているものについては優越感など持ちません。
人をバカにしているということは、何も持っていないということです。
親や社会の権威に与えられたものを誇示しているのは、自分で考えて生み出したものが何もないからです。
自分で考えた自分の意見を持っている人は、他人と比較して勝つために考えた結論ではないので、それを使って戦おうなどとしないものです。
他人の力を使い誰かと戦う人間は、勝負の前から負け犬なのです。
弱い犬ほどよく吠える。
弱い武士ほどすぐ刀を抜く。
本当に強い武士は自ら争うことをしない。
普通に、腹立たしくなる発言をする人はいます。
そんな時こそ、冷静になるのです。
小者の挑発に乗っているようでは、自分の程度も知れたものです。
生きる限り精進です。
生きているとあらゆる場面で自分の精神を貶めてしまう罠が沢山あります。
罠にかかるどころか、罠を仕掛けて生きている人もいます。
しかし、そんなことをするために時間を費やす人生は、虚しいものです。
他人がいてくれて、かまってくれて、更に相手が悔しい思いをしてくれて、やっと「自分が上だ!」と満足できるのです。
こんなに手間のかかる人はいません。
自分を客観的に見る目が生まれなかった人は、「自分が間違っているかもしれない」という不安に勝てません。不安だからこそ、自分が間違っていると自覚しなくてはならない発言を見ると、猛攻撃をしているのです。
こうした人が、「うちは正しい!」と言い切って自分の家族を持ち上げつつ、実際には隷属していることがあります。
自分が勝てない誰かに屈している時、負けを認められないならば「相手を正しい人にすること」が一番楽なのです。
何も変わることなく、今のままでも「いいこと」になってしまうのです。
僕がもし、権威ある存在が怖くて心から納得していなくてもそれに従って、更に恩恵を受けているならば「あの方は正しい!」と言いながら、自分も同化して同じことを言えばいいのです。
そんな場合に出てくるのが「親がそう言っていた」に代表されるやり方です。
支配的な人が強気で押し付けてくる理論に誰もが反論できるわけではありません。
・ただ恐れに負けて従う人
・なんとなく納得できないけれど、何がどうおかしいのかよくわからない人
・納得もできないし、どうおかしいのかもわかるけれど、勇気がなくて我慢する人
・納得はできないし、自分の考えがあるのですぐにそれを述べる人
支配されないのは最後の人だけです。
最後の人は、敵に勝つための戦う勇気を持っているわけではありません。
「人間を恐れないから意見できる」のです。
相手を敵視していないから、あっさり意見できるのです。
肩書なんてどうでもいいのです。みな人間です。
どんな立場になってもビビりな人はいます。しょうがないです。
それが人間ですから。
しかし、どうせ支配下にいても末路は見えています。
納得がいかないものには屈しないことです。
そして、自分が反論する勇気がなくても、自分もすっかり相手に同化して「もっとすごい人の言葉を借りて、人を連れてきて戦おう」とだけはしないことです。
本当に強い人ならば、争いに参加しないです。
上も下も右も左も、いちいちいちいち、誰かを連れてこないと、人の言葉を借りないと、言いたいことも言えないなど面倒なことです。
今そこに自分がいるのだから、自分の力でなんとかすることです。
人は敵意悪意には本当によく反応しますから、考えて生きる人たちもどうぞ気をつけてください。
どう考えても、そこで争う相手は有意義な会話をできる人ではない、と自分でもわかっているのですから。