愛されずに育った人は幸せにはなれない
その理由、そして内面が幼児のままの親が何をしているのか、本物の幼児の行動を例に挙げ説明しました
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愛されずに育った人は幸せにはなれない
その理由、そして内面が幼児のままの親が何をしているのか、本物の幼児の行動を例に挙げ説明しました
YouTubeの動画から
娘から聞く職場の話にも驚くことが沢山あります
人の悪口と噂話しかしないパートのおばちゃんたち
その中でも一番酷い人は、全ての人のうわさ話と悪口を言うと言います
誰彼構わず話のネタにしている、恥知らずの下品な主婦は一体何がしたいのか?
聞いているだけで気持ち悪いと娘は言いますが、やはり自分の家の基準と遠く離れた人ほど恐ろしく気持ち悪く感じるものです
平気な人は全然平気ですが、類は友を呼ぶという通り、似たような人だけが寄り集まります
それにしても、いい年をした大人たちが職場で学生のバイトもいじめるというのだから、呆れたものです
自分として生きる、ということの難易度がどれほど高いものか真剣に自覚し、甘く考えないでください。
「自分は母親の一部として生きていた」
とある人は中年になり気づきました。
母親の愚癡を聞き、母親の代わりに母親が持つべき感情を持ち、母親が心の中でやりたがっていることを代わりにやる。
母の意思を決め、母の手足となり、「いい人キャラ」を維持するために常に同じことをしていたい母の身代わりとして家庭のために生きてきました。
自分の人生においては、もう意思など持てません。
自分は母親の一部ですから、外に出て始まる人生はオマケみたいなものです。
やり過ごしていくだけ。
母親と同じように迎合し、他人に責任を押し付け、意思を示さずはっきりものを言わず、誤魔化してまともなコミュニケーションを取らない。
母親の一部ですから、自分の人生はできるだけ問題なく「やり過ごして終える」ことが目的なのです。
自分の人生だと思っているものは、他人の人生です。
「私の人生」は「母親の人生」なのですから。
自分自身はどこにもいません。
その場その場で適当に迎合し、他人に合わせ、ごまかしごまかしやってきたのです。
なんとなく雰囲気とノリで生きてきたのです。
それっぽい形だけが作られ、それが誰のものなのかもわかりません。
実際に自分の人生を生きるためには、もっと深く、真剣に考え、自問自答し、葛藤し、確信を持って進まねばなりません。
それをやり過ごしてきましたから、自分は作られませんでした。
人間は自分でも自分がどんな人なのか知りません。
何かを体験するたびに自分を発見し、無意識の行動や反応から自分を知っていきます。
「自分はこんなものが好きなんだ」とか「自分にはこんなところがあるんだ」など
それを繰り返し繰り返し、自分自身で考えて「自分はどうすればいいか」の意思決定をして、行動をします。
その積み重ねにより、自分の人生は作られていきます。
本物の自分が生きているから自分の人生なのです。
適当に人に合わせて作ってきた「私の人生」は誰の人生なのかわかりません。その時その時、部分部分を何かに合わせて生きてきたのですから、特定の「誰」というわけでもありません。
いろんな人の人生です。
だからこう言うのです。
「みんなもやってる」「みんなは言ってる」
この人生は本物の命を懸けた本物の人生です。
一度きりであり、二度同じ道を通ることはできません。
取り返しはつきません。
よって、先の方は過去の若い頃、また学生時代なども、実際に自分自身の人生だったならば、その時の自分がどう思って何をしたのか「わからないまま」なのです。
知り得るわけがありません。その時の体験を違うことに使ったのですから。過去のことなのでもう今後知ることは不可能です。
死ぬまで謎のままなのです。
もう終わったことですし、今は今で、今本物の時間がありますから。
今を体験しながら過去も同時に体験することはできません。
完全に取り返しがつかないことをしてしまったのです。
母親とのことに気づいたところで、「本当は何がしたかった」なんて結論は出てきません。
何がしたかったのか強い意思で決定できるかどうかは、それまでどう生きてきたかで変わります。
自分の意思も、少しずつ育っていくものです。
そして今も意思はなく、自分で自分について考えることもできません。
脳は老化します。
最も早くに衰える部分に意思決定をする大事な部分がありますから、年を取ってしまうともう手遅れなのです。
こうなったら、もう取り返しはつきません。
別に大変なことでもなく、脳の仕組みを知っている人たちは「人間はそんなものだ」と知っています。
一般の人たちは知らなくても、大多数が「なんとなく生きている意思のない存在」だと知っている人は知っています。
だからこそ大衆操作して、自分たちの手足にできるのですから。
「自分に気づくこと」
加藤諦三先生がよく書いていました。僕も述べてはいます。
しかし「気づくための自分」は脳が発達しないと存在しないものです。
深く考えることもできない人はできないです。
「自分の頭で考えろ」と言われても、それがどういうことなのか、それをやる能力自体が無い人には理解できません。
僕も今まで「大人ならできる」と思い込んでいて、説明をして、見て、体験して覚えさせようとしてきたことがあります。
無理でした。
例えば子供への対応。
手本を見せるから、見て学べと言いました。
そして実際に見せました。しかし意味はありませんでした。
見てもいないし、身に着ける気もないし、見るだけで気づくこともできない。
ただ、「自分が文句を言われている」と思って不満に思うだけなのです。
論理的に考える思考力、そして観察力、状況を把握する認知能力。
それら最低限がないと「見て覚える」はできません。
ただ真似をするだけではなく「何をしているのか」が見てわからないと、本質的なことはわかりません。
僕自身は元々相当知能が高いです。ですから、自分とかけ離れたほど知能が低い人のことは僕も理解できません。
僕から見てわかったとしても、その人にはなれないのでその人の感覚がわからないのです。
「真剣になれる」という能力さえ、持っている人は少ないです。
子供の頃はムキになってやるくらいでもいいのです。
本気で勝負に勝ちたいと思う気持ちや、本気でできるようになりたいと思う気持ち。そのような気持ちが自分自身の脳の使えない部分を使えるようにするきっかけになります。
僕たちは殆ど無意識に動いて生きていますが、その無意識さえ気づく人は気づけても、説明されてもわからない人はわからないのです。
殆ど無意識に動いて生きている、と言われたら「そんなことはない」と思うかもしれません。
しかし、今僕がこうしてパソコンで文章を打っている時、指を次々動かしてキーを叩いているわけですが、僕自身は意識して「次はこの指でこのキーを押すぞ」なんて考えていません。
考えながら言葉をそのまま入力している感覚で、細かいことは全て無意識です。
勿論最初は「ここがこの文字で…」とひとつひとつ覚えました。
本当に少しずつ、昔流行ったキータッチのゲームを使ったりして身に着けていきました。
今では無意識に次々キーを叩くことができます。
これが「身に着ける」です。
それでも、無意識には変わりありません。
脳はひとつひとつの行動を取る度に、指の一本一本にどのように動くか命令を送っています。
息をするのも、身体を起こして座っているのも、無意識に脳に命じられて自分の体が動いてくれているからです。
無意識にやってしまう「癖」も脳が命令してやっていることです。
意識していないことは「やっていない」と思う人も多いでしょうけれど、意識していなったことでも「やっていること」なのです。
無意識に何をしているのか気づかなくては、意識を統合していくことはできません。
意識の上で望んでいることと、無意識に自分が取っている行動が一致していない。そんな時、望まない結果に遭遇すると人間は「相手のせいだ」と思いがちです。
その時に「自分が何をしたか」を振りかえることができるならば、自分に気づいていくこともできます。
しかし、完全に自分が無くなってしまい、脳も衰えてしまい、発達が難しい年になるともう手遅れです。
「何かが嫌だ」という感情的なものは生まれてきても、強い意思などどこにもありません。
先の方は、僕が「お前はこうだからな」と言えば、それがどんな場面でどんな意味で言われたことであっても関係なく「私はこうだから」と復唱するように言います。
僕が説明をし「そうなのか」と思う。
すると自分が思ったことのように「私はこうだから」と言います。
自分と他人の境界線が全く作られることなく、母の自我として手足として、云わば「いていない人」として生きているのです。
その人はどこにもいません。
生まれてこなかったのです。
「自分自身の意思」が生まれてこなかったのです。
その代わり、「お母さんがどうか」は沢山語ることができます。
本人が語る内容は、自分のことではありません。しかしあたかも当事者のように感情を持ち、自分のことではないのに自分がなんとかしなくてはならない気になっているのです。
半世紀ほどの人生を、自分ではない人間として生きてきました。
今まで生きてきたのは私ではなく、かと言って本物の母親はそこにいて人生も別にありますから、誰の人生なのかもわからない過去が存在しているのです。
自分が存在していないから、「当事者の目線や感情」での思い出が存在していないのです。
部外者のような目線で、映画の観客のように思い出を語るのです。
「あの人のしていることおかしくない?普通だったらこうするよね!」
そんな内容ばかりになるのです。
当事者として自分は存在していなかったので、自分が何を思ったかもわからないのです。
自分が思ったと本人が語る内容は「部外者目線でどう思ったか」の内容なのです。
それすら、自覚できないのです。
今までの人生すべてが、部外者だからです。
自分の人生を生きていたのは、誰かわからない人です。
他人の真似をし、他人に言われたことをし、生きてきた。
他人とはまともな会話が進まないように、迎合し、ごまかし、親しくなることもありません。
当事者ではないので、友達のこと、恋人のこと、なんでも部外者と共有します。
自分の人生は「皆で楽しむネタ」なのです。
恋人の前で本音で存在せず、恋人のしたこと言ったことを無関係な人に聞かせて一緒にネタにする。
それでは、恋人はいません。自分は恋人ではなく、恋人のふりをしてネタを仕入れていただけなのです。
他人に真似事をさせたことが自慢です。
自分は勿論何にもなりません。
本気で友達や恋人になるなど、恥ずかしいことなのです。
そんなことは「みっともない人間」がすることであり、優位に立っている人間はまず他人を品評するのです。
他の人間が「きちんと理想的にできているかどうか」を品評しているのです。
自分の人生は、元々ありません。
自分がいないですから。
そして自分は今も「母の一部」として、母の人生を共に生きるのです。
家族と離れて一人暮らしをしようが、関係ありません。
今そこにいる自分の人生、生活そのものが、「母のオマケ」です。
だから未来にやりたいことも目的も計画も何もありません。
母の人生を軸に考え、母が何をするかに合わせてわき役としてのポジションで待機しているだけなのです。
行動の前には、「そんなことをしたら母がなんと言うか」をまず恐れます。母は私の行動を決める権利があるからです。
私が母だからです。
母が私そのものなのです。
母だけではなく、家族の、兄弟の、他の皆がどう反応するかを考え、みんなが安心できるような範囲にとどめて行動を決めます。
「家族の今を壊さない程度の人生」が家族の添え物として生きる私の人生なのです。
父や母が亡くなれば、自分は用済みです。
その頃にはもう、自分自身など存在しませんし、役目もありません。
本当に細かいひとつひとつの選択を、自分自身でよく考え、適当に「周りの反応」を操るために誤魔化すことなく、真剣に選んで進んでこなくては、自分の意思など持っているわけがありません。
夢の中を生きているかのようにいい加減な幼児が、なぜ強い意思を持った大人になれるのでしょうか。
体が大きくなるからでも、いい学校に入って学術を学ぶからでもありません。
誰かに「もっと自分で考えろ!」と怒鳴りつけられるからでもありません。
誰に言うわけでもなく、自分自身の心の中で「自分はどうしたいのか」「この感覚はなんだろうか?」などと何度も何度も考え、自分の中で沢山の会議をし、結論を出し続けてきた成果です。
筋力は鍛えていないと衰えるものだと、当たり前に僕たちは知っています。
しかし、脳を鍛えていないと衰えるということは、殆どの人が気にしていません。
筋トレを繰り返して段々筋肉がついていきます。
脳も同じです。思考を繰り返して思考力は身に着きます。
本当の自分を発見し続けるためには、自分に自分を隠さない、自分の本音と向き合う勇気が必要です。
精神の力も少しずつ身に着けていくものです。
「我慢」は自己執着から来る慢心。仏教用語です。
我慢して身に着くものなど、他人から何かをしてもらえて当然だという傲慢さくらいです。
自分は偉いのだ、相手より上なのだ!と勘違いした傲慢な自分が育つだけです。
その「優越感」を幸福として獲得し続けているのが神経症者です。
感謝することなく、謙虚になることなく、とにかく傲慢になることで人を見下しては「優越感という名の喜び」を体験し続けてきました。
そのために失ったものが「自分」です。
自分の感覚。実感する能力。
まず、先に実感があり、そして「これはなんだ」と考える自分が続きます。
つまり実感を避けてしまえば、もう意思などわかるわけがないのです。
「あの時、相手をバカにしてやったら泣いていて、いい気味だった」
この「いい気分」を味わった人には、その時の自分の実感などありません。自分が何かを感じるためではなく、他人に何かを感じさせるために生きてきたせいです。
「~だと思わせたい」
他人を操作しようとした人は、どんどん自分を失います。
そして自分は母親に操作され、自分を失った母親の「介添え役」となったのです。
母と子は正に一体。体は離れても、バラバラの意志ある存在にはならなかったのです。
執着を断つことができず、いつまでも「いつかはきっと」の願望を親に期待して生きてしまったのです。
失った年月を取り戻すことはもう不可能です。
もし、生まれ変わって赤ん坊から始めることができたら、その時は一からきちんと実感して体験すればいいでしょう。
ただ、来世の自分にそんなことを教えに行く人もいませんし、自分が記憶もしていられません。
結局、もう何もかも手遅れなのです。
「迎合することの恐ろしさを、あまりにも軽く考えている」加藤 諦三
僕も同感ですが、「これが人類なのだ」と諦めた方がいいのではないかと最近は思います。
なにせ、紀元前にいた哲学者、皇帝ネロのブレインだったと言われるセネカが、今の人間にも言える非常に重要なことに気づき残しているのに、未だに人類はその言葉を聞いたところで、意味がわからない人が殆どなのですから。
ブッダやイエスが気づいたところで、その言葉を聞いた人が同じように気づけるわけではないのです。
最近になり、自分自身のしていることに気づいた人には言いました。
「僕が最初からそう言っている」と。
しかし「その時は意味がわかっていなかった」と言います。
何年も前から同じことを言っていても、結局「意味がわかる人」になるまでにも時間がかかるのです。
そして、わかったところで、もう遅い。
「少しでも早く行動しないと、どんどん不可能になってしまう」
ということも言い続けてきましたが、それもまた「意味がわかっていない」ので意味がないのです。
他人が言う言葉など、どれほどの意味があるものなのか。
あってないような、どうでもいいもののようにも思えます。
「言わせたいこと」がある人になど、他人の言葉は意味がないのです。
「欲しいものが手に入ればなんでもいい」
しかし、その「欲しいもの」は本当に自分が欲しいのか、誰が欲しがったものなのか、それも自覚できないのです。
皆さんも、迎合の恐ろしさを甘く考えないでください。
自分自身のこれまでの生き方によるもなので、他人がどうするものでもないし、どうにもできないことです。
しかし、自分一人にだけはとても重要なことのはずですから。
あけましておめでとうございます
本年もよろしくお願いいたします
少々ご挨拶が遅くなりましたが、新年早々つい笑顔になってしまう年賀状もいただきました
皆さんありがとうございます
気づいたのですが、僕はこの方の絵が個人的に好きなのだと思います
なんて可愛らしい顔!!
僕も「かわいいキャラクター」を描いてみようかと思ってお絵かきしてみることがありますが、これがなかなか難しく、意外と癒されるような可愛い顔は描けないのです
優しい弁財天と、かわいいヘビ
部屋に飾っておいたら御利益がありそうなので、飾っておくことにしました
今年は新年の始まりに、ひとつアドバイスをしたいと思います
皆さんがもし、新しいことにチャレンジしようとしている時に
「どうせお前になんかできない」
と誰かにバカにされたならば、そこで自信や意欲を失う必要はありません
どうせできない、と思うか。俺もそう思う。
確かに、お前が知っている過去の俺なら無理だった。
だが、明日以降の俺は今までの俺ではないから、未来の俺はやってくれる。
チャレンジする時は、今までの自分ではありません
未来の自分は今の自分ではないのですから、心配無用です
その代わり、全力でチャレンジしましょう
これからのあなたは今までのあなたではないのだから、きっとうまくいきます
今年一年、どうか皆さんにとって悔いのない一年になりますように
最上 雄基