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明るい未来も同時にある? ~無料記事~

 悲壮感漂う今を生きる人達へ

 過去の辛い記憶、それを慰めるなにか、それはそれで必要だとして、明るい未来は同時に存在していますか?

 辛いことだけしかないならば、これからは辛い人生しかありません。

 それは過去のこととして、今からの人生には明るい道もありますか?

 辛いことが全部終わったら明るい未来に行けるわけではありません。

 自分だけの世界ではないのですから、辛いことが過去にあっても未来には辛いことも明るいこともあります。

 何もかも表裏一体。

 同時に明るい道も見えていますか?

 過去に辛いことがあった、そして今は?

 今は心晴れやかに生きていますか?

 過去を解決するためだけに生きている人は、今あるものを見ていません。

 過去を解決するために今を見ているから、今あるものが新しい扉であっても、辛い過去からの出口に見えてしまいます。

 過去に関係なくやってきた今は、今から始まるものです。

 辛い過去からの出口を新しく出会う誰かが持ってくるわけではありません。

 新しいものは、今の自分に新しくやってきたものです。

 辛い過去に合わせてなんでも解釈していると、なんでも辛い出来事に変わっていきます。

 自分にはそうとしか思えないからです。

 何もかもが、私の過去に合わせてやってくる。

 この世界は私を軸に進んでいる。

 この解釈は傲慢さ故のものです。

 そんなにだいそれた人間でなければ、常に新しい扉はやってくるのです。

 恨みを晴らすか、新しい扉を開けるか。

 過去は変わらなくても今からは選んでいけます。

 どう生きるかも現実に何が起きているのかも、自分の身に起きること自分がやること、全て自分しかわからないし決められないことです。

 明るい未来に進みたいのか

 それとも、許せない気持ちを晴らしたいのか

 恨みを晴らして、それから明るい未来、とはいきませんから、今、どうするか決断していくしかないのです。

自分が唯一無二になれないのはなぜか ~無料記事~

 自分が唯一無二の存在になれないのは、何ができないからでもなく、人格に問題があるからでもありません。

 自分が自分だと思っている存在は、この世にいないと気づいていないからです。

 例えば、僕は僕としては生きていけません。

 僕は僕という存在として生まれてきたわけでありません。

 僕は命ある人間の中に宿っているだけの魂、意識の存在です。

 僕はこの命を使ってこの肉体で生きていく限り、生まれてきた一族の子としてしか生きられません。

 「あっちの人になりたかった」と僕が思っても、最上雄基は他の誰かにあとから変わることはできません。

 この親の遺伝子を受け継ぎ生まれてきた存在。

 その肉体をもってしか生きていくことができません。

 僕が僕がと思うのは「我」なわけですが、その「僕」を出すことなく、僕は常に最上雄基として存在するよう意識していなくてはなりません。

 僕に誰かが話しかけてきても、誰も僕には話しかけていません。

 相手により僕は違う存在に見えているわけですが、先生であったり、友達であったり、子供であったり、父親であったり、その時その時違う最上雄基に話しかけているのです。

 話しかけられた時に、どう返事をするのか考えて最上雄基を動かしているのが「僕」です。

 意識には年齢も性別も金持ちも貧乏もありません。

 ただこの体を操るだけ、考えるだけです。

 「こんな家に生まれたくなかった」と思っても、生まれたからにはもう手遅れ。

 命が与えられた時から、「この命」を生きねばならないのです。

 この命の経緯を知り、自分の運命を背負い、我が命を勝手に使うことなく、与えられた存在として生きていかねばなりません。

 意識には死はありません。消えておしまいです。

 肉体が滅びる時に同時に消えていきます。

 僕、なんて存在は、どこにもいないのです。

 いる、と自分で思っているだけの、存在しない存在です。

 僕以外の人にも意識はあります。それぞれが私だ僕だと思っている自分がいます。

 しかし、僕が他人に話しかける時も、やはり私や僕に向かって話すことはないのです。

 名前と立場のある、何者かに話しかけているのです。

 命の経緯を知れば、自分にもやらねばならないことがある、と自然に思います。

 他人がどんなに頑張っても、あなたの親の子に今からなることはできません。

 他人がどんなに頑張っても、あなた自身にはなれません。

 あなたの命を使い、あなたとして生きていける人は、あなたしかいないのです。

 自分が存在しない、と気づいていない人は、大変傷つきやすいです。

 「私に話かけている」と思って生きているからです。

 だからすぐに「~と言われた」なんて傷つくのです。

 僕は誰に何を言われても、誰にどんな扱いをされても、相手から見た僕の肉体の立場を考え、物理的に存在している最上雄基に対して言ったりやったりしたことだ、と理解しています。

 事実そうだからです。

 それにより、相手の考え方や人格を知るだけです。

 常に、僕は最上雄基を動かさなくてはならないので、他人をどうこうしようとは思わないのです。

 この肉体を動かしていられる時間もどんどん減っています。

 命はそのうち終わりますから、当然のことです。

 この命があるうちに、意識の僕がやらねばならないと思うことはやり切って死なねばと思います。

 子供の頃に、僕は誰からも見えない存在だと気づいた時は、とても寂しく思ったものです。

 しかし、それは皆さんも同じですよね。

 誰も誰かの意識そのものと対面できる人はいません。

 ただ、こうして自覚して生きている僕は、他人の中に意識の存在がいる、とわかっています。

 わかっているので、人を形あるもので見ることはしないのです。

 意識の存在に気づいてもらえないと、本当に寂しいものです。

 他人から見た「私」の中に、意識の私がいる。

 表面でしか見てもらえず、中身の「私」が存在していることにすら誰も気づかない。

 形だけでうまくいくのは楽に思えますが、中身に誰も気持ちを向けていないのは虚しいものです。

 誰にも気づかれることなく、いつかはそのまま消えていく存在。

 僕自身がそれをとても孤独に思っていたので、他人の中身が「存在している」としっかり覚えておくようにしています。

 年老いて死んで行くときには、誰もがおじいちゃん、おばあちゃんです。

 しかし意識の自分は年などとりません。

 変わらず存在している「私」に、僕もできるだけ多く出会い、たとえ相手が僕を表面でしか見ていなかったとしても、「確かにいた」と覚えておきたいと思います。

真実に気づいても、慌てないこと ~無料記事~

 成長する際は、今まで知らなかったことを知ります。
 気づく、という意味での「知る」です。誰かに教わったことではなく、誰かに教えられた何かをきっかけに気づいて、自分で「知る」のです。

 そこで、慌てない。

 大抵は慌てます。慌てない方が無理だと思います。

 しかし、そこで「大変なことだ!」と慌ててしまうと、確実にまた感情的になっておかしな方に向かいます。

 なんとかしなくては!

 そして、気づいていない人たちをなんとかしようと頑張るのです。

 「促す」ではありません。「変えよう」とするのです。 

 言葉だけで「わからせよう」とするようになります。

 自分は正しいことをしている、良いことをしているのだ、と勘違いします。

 そして他人も自分と同じにしようと頑張るのです。

 しかしそれは無理です。

 視野が広くなると、それまで気づかなかったことに次々気づきます。

 視野が広くなった、世界が明るくなった!と思えるのは最初だけ、今度は次々見えなかったものか見えるようになり、ネガティブな気分が生まれます。

 先日、たまたま、本当にたまたま、最近相談やワークショップに参加する人たちに「故郷やご先祖様、親や祖父母を知る」という内容のことをやらせていたことがきっかけで、ある方の一族の経緯を僕が発見して教えました。

 たまたま、僕が見せてもらった写真の中に、気になる部分があったので僕が調べたのです。

 正直、簡単にわかるものではありません。なにせ特徴的な家屋の作りのほんの一部分をヒントに調べて発見したのですが、本人も不思議に思っていたのに親もそれが何か知らなかったのです。
 そんなことは「知ろうとしない限り知ることはできないもの」ですから、社会でどんなに頑張っていても永遠に気づけるものではありません。

 「なんかわかんないけど、近所の人たちはみんなそう。」

 本人はこんな感じでした。僕は気になったので調べましたが、見て気になる人も、それに意味があるとわかる人も滅多にいないと思います。

 僕は自分の一族の経緯を知るために若いころから一人で色々調べてきたので、その部分についてのベースの知識や経験があります。それでたまたま気になって気づけたのです。真実は言葉では残りませんから、事実をそのまま見て、気づくしかありません。

 偶然でしかないのですが、本人にとっては思いもよらないことを知ったのです。

 事実それが間違いないならば、本人にはわかるのです。

 「そういうことなら合点がいく」という何かが過去にあるからです。

 そして、僕は知りませんが本人的には納得できることがあったようです。

 ただ、こうして真実を知った時に、大抵の人は慌ててしまいます。

 本人にも注意はしておきましたが、皆さんも、もしたまたま僕の書いていることや話していることがきっかけで何かに気づいたら、慌てないように。

 「大変だ!」と慌ててしまうと、実際に「本来であれば本人たちが知らねばならないこと」であるが故に他人を、この場合は家族をなんとかしなくてはならない気がしてくるからです。

 とにかく、常に落ち着いていることが大切です。

 感情のままに喋らない、動かない。

 慌てて動くと自分が正義の人になってしまうからです。

 「こうでなくてはならない!」を強要する人です。

 そうならないためにも、落ち着くのです。

 そっちに行くとまた地獄に進みますから、たとえそれが何かの崩壊を眺めているだけになるとしても、何も動かそうとしないのです。

 破滅するとわかると、どうしてもそれを止めたくなります。

 家族や大事な人であれば当然かもしれませんが、それでも動かそうとしないのです。

 何を言っても無駄だからです。

 自分は気づけるだけの視野の広さがあったとしても、その視野の広さがない人にどんなに説明しても、何を見せても、同じように気づくことはできないのです。

 破滅はすべき時にするのです。それでいいのです。

 「目が覚めた」と以前書いた方は、今になって僕の話を聞きながら

 「一番最初に講座で聞いた」

 などと言います。だから、最初から必要なことは教えているんだよと言いました。その時に理解する能力がないだけです。視野が広くなったらわかるようになるのです。

 最初から、最後に至らせるところを明確にして進んでいますから、全部計算してやっていることです。最後までたどり着いた人がいないだけで、必要なことを教えてきています。

 今、漸く何年も前から、はじめから僕がやっていたこと、言っていたことの意味がわかるようになっただけです。

 僕が子供のころ、自分に気づいて「お釈迦様の掌の上だった」と痛感した話をしました。するとその方は「私は先生の掌の上だった」と言っていました。最終的に気づいた人だからそう思うのです。

 どうしても、その意味がわかるだけの目を持たないとわからないのです。

 ですから、自分が気づいた時にまだわからない人がいても、慌てない。

 今、誰かが地獄に突き進んでいることに気づかずにいても、慌てない、止めない。

 そのまま破滅するのをただ眺めていればいいのです。

 人様のことは人様のこと。自然は破壊しないのです。

 他人に気づかせるのは容易ではありませんから、促すだけです。

 動くのは本人でしかありませんから。

 こと時間を無駄にしてきたと気づいた時には、絶望はすさまじいものになります。

 しかし、慌てても既にどうしようもない事態なので、慌てないのです。

 胸に手を当て、感情がどんなに動いてもこみあげても、体は微動だにせずただ感情のみ感じる。

 これは練習を重ねていくしかないことなので、精進するのみです。

音感がある人に聞いて欲しい話 ~無料記事~

 絶対音感がある人は、どんな音も音階に変換されて聞こえるそうです。

 救急車が近くに来ても、また遠ざかっていく時も、音の変化も全部音階に変換できる、というより「そう聞こえる」そうです。

 実際に音階に変換できる人はこう言いました。

 「他の人がどう聞こえるのかわからない。やろうと思ってやっているわけではなくて、勝手にそうなる。」

 これはもう本人に身に着いた、感覚機能の能力ですよね。できない人にしてみれば特殊能力ですが、本人はやりたくなくてもそうなるのだから自然なものでしかありません。

 この話を聞いて、音階になって聞こえる人に説明したらやっと理解してもらえました。

 僕は人の感じているものが、同じように感覚的にわかります。

 今目の前で笑って話していても、「この寂しさはなんだろう」などと感じています。

 だから「何かあるんだな」とわかるのです。

 他の人には「わからない」そうですが、僕は他の人が何をどう感じるのか、なぜわからないのかわかりません。

 それで、以前から

 「何がわからないのかわからない」

 と言っているんだよと説明したら、やっとわかってもらえました。

 似たようなものがひとつでもあれば、想像可能になりますよね。

 音階に聞こえる、という方は、当然生まれつき勝手にというわけではなく、「幼児期からピアノを習って鍛えている」のでわかるのですが、なんの訓練もなくできるようにはならないと思います。

 六歳までに身に着けないと絶対音感は身に着かない、なんてよく言われていますよね。

 生まれつきの才能のようなものはあっても、本当に一切その能力に関わる部分を発達させる機会がなければ身に着かないでしょう。

 僕はといえば、今になって思えば、でしかありませんが、確かに幼児期から鍛錬を積まされていました。

 自分の感情を外に形にして出さないように、うえーん、と泣き続けていても、かまってもらうことを期待している時は頭ごと掴まれて「泣きやめ」と言われ、泣き止むまで何時間でも放置されたものです。
 情動で人を動かそうとする、動物のような真似を許さないのです。

 「お前は、今それわざと泣いとるな?泣いとればそのうち根負けしてなんとかしてもらえると甘えて、わざと泣いとるな?それをやめろ」

 もう、お前は赤ちゃんじゃないんだぞ、と何度言われたことか。
 四歳になるとその教育が始まりました。

 そんな感じの教育の積み重ねです。多分、幼児期にやらないと身に着かないと思います。

 教えることで身に着けて行けるものではありますが、僕がメロディーを聞いても音階に変換されないように、後からでは限界があるでしょう。

 僕が受けた教育は、精神鍛錬です。
 幼児には優しくしかしない教育が主流で、厳しい教育は世間では虐待と言われかねません。
 外から広まってくることはないでしょう。

 ただし、親は後で大変な苦労をしなくてはならないと思いますよ。
 中身が赤ちゃんのままでは、何を身につけさせても本人が不満を抱えて生きることになりますからね。

 厳しさがない優しさは、無責任な甘やかしでしかありません。
 後でその責任はツケとなってやってきて、精神的な苦痛を伴い払わなくてはならない事態になるでしょう。

 とにかく、そんなわけで僕も他人が何がわからないのかわからないのです。

 だからいつも人様のやり取り(自分が関係ない時)を目の前で見ていても、「変なことしてるなあ」と思っています。

 感情とやり取りが全く不一致ですからね。

 しかし、世の中ではそんな変なやり取りが多く、それでも「形で作った方を本物だということにしていく」という場が多いのです。

 わかっていると疲れる話です。自分も演技しないとそこにいられないとわかっていますから。

 だから、人より遥かに群れることが苦手なのです。

 感じていることを無視して形だけのやり取りを続けることは、僕には難易度が高いからです。

 感情を完全に無視して形だけの関係、形だけの人生を送り続ける人たちが

 「幸せになれない」「自分が何を思っているのかわからない」

 と言い出すのも不思議でなりません。

 自分でやっているのだから、不思議ではないのに、と思っています。

 とりあえず、今回は「ああこう言えばわかる人もいるんだ」とわかりました。

 音感がある皆さんは、なんとなく自分の感覚を思えば、僕の感覚もおわかりいただけたかと思います。