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いじめている相手にもいい人だと思われたい、人を病気にする人 ~無料記事~

 人をいじめているのに、嫌な思いをさせている相手に許してもらって生きようとする人がいます。

 いじめながら「いい人」だと思われたいのです。

 最初から自分を受け入れて好意的に見てくれる人をいじめます。

 いじめをしているのは「弱いから」でしかありません。

 いじめをしたら、相手が自分を嫌がって終わりです。

 しかし「どんなにいじめても絡んでも困らせても、それでも自分を好きでいい人だと思ってくれる人」がほしいのです。

 嫌がることはするけれど、でもそれには理由があって、そして他にものすごく尽くしたりもするから。

 だから「嫌な部分はなんでもないこと」にしてもらいたいのです。不可能ですね。

 嫌なことをされたという体験を積み重ねているのに、ご機嫌を取られても過去の記憶やその時の体験が変わるわけではありません。

 「相手にとっていい人」になるには、嫌なことをせず、困らせなければいいのです。

 しかし、困ったことにそれでは「自分が相手を好きになれない」のです。

 普通なら許してくれないことを許してくれて、普通ならしてくれないことをしてくれて、それでやっと「好きになれる」のです。

 つまりは自分の奴隷です。

 自己中な人は「自分が嬉しいから相手が好き」だと思います。

 そして好きな人には好かれたい、いい人だと思われたいのです。

 しかし、自分が相手を好きになるために自分を押し付けていきますから、最初は自分に好意的だった人も段々自分から離れていきます。

 他人を自分の方から追い出していくのです。

 支配しようとすれば、相手は嫌がります。当然です。

 支配しようとしている理由なんてどうでもいいです。

 人間は自由が奪われたら確実に嫌になります。不幸になります。

 我慢したら嫌いになりますから、自分を恨みたくないなら相手は諦めて離れていくしかありません。

 自由を奪うことをやめないからです。

 しかし自由を奪わないと幸せになれないのが、自分一人の幸せのために他人を犠牲にして喜んでいられる人です。

 理不尽なことしか考えていない人は

 「意地悪されたのに嫌じゃない人」

 「殴られても痛くない人」

 そのような人を求めています。

 意地悪されて嫌な思いをしても、後から自分の事情を聞いたり、自分が喜ばせようとしてなにかしたくれたら、「機嫌を直してくれる」と思っているのです。

中国人への共感 ~無料記事~

 直接体験もないのに情報だけで争いが起こされる時、誰かが糸を引いている。

 今ではなく、過去のことを考えていると、中国人への共感を僕は抱く。

 僕は映画が好きで色々な国の映画を観るが、中国の映画を観ていると日本の幕末から明治にかけての頃を描いたものには、西洋人の侵略に抵抗する話がよくある。

 僕は長い歴史を誇る中国伝統の技や精神について尊敬しているが、日本と同じく、西洋人が侵略してきた頃にそれまで自国で培ってきた技や知恵を「時代遅れ」として捨てていった流れがあるようだ。

 当然、現代は、新しい時代は、と言いながら、自国のものを捨ていち早く西洋化に取り組み、西洋人の仲間となっていった人々が日本と同じく中国にもいたのだ。

 僕が好きな中国人の整体医の先生に、「病院に行くと最悪手術になるらしいから」と腰痛の話をすると、先生は即答した。

 「そんなことしなくても治る。体をすぐ切ったりするの良くない。」

 中国人にも色々いるが、それは日本人も同じことだ。そして同じ東洋人として、共感できるところは多々ある。

 なにせ僕自身が「時代遅れの日本の伝統」を守りたい方なので、誰かの都合で生み出されている「存在しない記憶」からの敵意を収められないものかと考える。

 僕が中国を知ったのは、子供のころ、リー・リンチェイのデビュー作でもある映画「少林寺」を観た時だった。鮮明に記憶していられるほど衝撃を受けた。以来、中国という国の文化に惹かれ、子供の頃になんとかして横浜の中華街にも出向いたものだ。

 政治と文化、そして国民は関係あるが関係ない。

 政治家がやることは、一般の国民がやりたいことではないし、寧ろその逆であることは多い。

 強い者の味方になっておけば身を守れると思う輩が、とにかく強そうな側については強者が正しいかのように広める。

 圧倒的な武力で次々植民地を広げていった西洋人たち。

 「このままでは負ける」と思い、彼らの模倣を始めた人々は中国にも日本にもいる。

 真似をして彼らに勝とうというのが、そもそもおかしくはないか。

 先日、国立博物館で現在開催されている「百万石!加賀前田家」を観に行った。大河ドラマに連動していることは名前からもわかるが、多くの所蔵品が大公開されている。

 以前から僕が故郷の昔を説明する際に、「名君がいた」と五代藩主のことを話していたことを、覚えている人は少ないかもしれない。

 今回の展示を見れば、名君どころか「天才だったんだな」と誰もが思えるであろうほど、本当に多くのことを成したすごい人がいた。その頃の所蔵は桁違いに多く、内容も多岐に渡る。展示の半分以上は五代藩主のものじゃないか、と思えるほど多い。

 しかし、時代別に展示が進むと明治に入った途端に突然様相が変わる。

 フランス人画家に描かせた肖像画があり、当主は西洋の軍服を着て、ぎっしりと胸を埋め尽くすほどの勲章をぶら下げている。地位をひけらかすかのように身に着けた勲章は、およそ武士なら考えられない話だ。
 同じく描かれている奥方様も、西洋の胸元の開いたドレスを身に纏い、それまでの歴史が消し飛んでしまうほど破廉恥な姿を晒していた。

 傾奇者まかり通る前田家においても、これはまかり通らないであろうと思える恥知らずな姿である。

 それでも、我々前田家の御膝下に生まれ育つ人間は、みな前田の殿は我々を守るため、いつも外には恥を忍んでくださっている、と教わってきたから、藩主を簡単に馬鹿にするような真似はしない。

 しかし、あの肖像画は非常に屈辱的で、ただの辱めを受けているとしか僕には感じられず、大変不愉快であった。
 それまでの日本では間違いなく品がないと言われるような真似を、隠すこともなくやっているのだから。

 これからの時代、ではなく、西洋人はやっているから、恥ずかしくない、ということなのだ。

 その精神こそ、恥じるべきではないだろうか。

 これまでの精神を正反対にしてしまうほど、西洋人は僕たちとは歴史的流れの根底が違っている。

 それは中国の人々においても同じだと思う。東洋人的思想と、西洋人的思想は根本から違う。東洋人は「自らを鍛え高める」という方向性があるが、西洋人の場合は「神に従うこと」が正しい。宗教支配の中で国が作られてきている。自分を高めることなどしなくてもいいのだ。

 神が言いました、という内容に沿った行動をしている、と思われる人生を送ればいいのだ。神という概念が、人を支配してしまっている。

 中国の人々も伝統や誇りを重んじてきたのに、自分たちが培ってきた大切なものを、あっと言う間に蹴散らされてしまったのだ。内部では強い抵抗があったわけだが、結局は武力、そして金の力でねじ伏せられていくのだ。                                                                                        

 長い目で、アジア全体の人々の内面を考えてみると、我々東洋人はとても傷ついたのだと思う。「西洋人の侵略に対する抵抗」の話は、インドやタイの映画にも見られる。

 それまでの平和を荒らされたのだ。

 みな誇りが傷ついたのだ。それまでの戦とはわけが違うことばかりだった。

 自尊心を貶める行いを、次々やり始めている。

 武力で人をねじ伏せ、奴隷を使って生きていた人々。人間を道具として見ているのは言うまでもなく「もともと」だ。

 それを考えると、日本は相当平和だったと思う。武士は精神的な精進を大切にしていたから、政にも西洋のようなことは起きなかった。

 侵略者が入り込んできて、その国その国の自然な発展、変化の邪魔をし、敵に勝つためにという退行の道を進ませた。

 プラトンが、セネカが、時代時代に己の中の敵に気づいた人々が最も大切なことを言い残してくれているのに、人間は未だに変わらない。

 真の幸福は「自分だけが思い通りにできる未来」にあるわけではない。

 心穏やかに過ごすためには、「言うなりになってくれる誰か」がいればいいわけではないのに、今や日本の人々もすっかり西洋貴族のようになってしまい、他人と戦い、ねじ伏せ、支配し、そして欲望を叶えることしか考えていない。

 すべては己が欲望を叶えるため。

 そのために、学んだこと、身に着けた技、覚えた言葉も他人の話も、何もかもを利用するのだ。

 煩悩の化身。

 精神の戦いに勝つなんてことは、なんの意味もないと思えているのだろう。

 そもそも、見える世界が「精神の世界」だと思って、他人と戦っているのだから。

 そんな世界はない、と思えているのが、自分自身の存在にすら気づいていない人なのだ。

 中国も、日本も、西洋人の真似をして、自分たちの国にあったものは次々奪われている。

 口先だけで人を巧みに動かして国を作ってきた民族と、自分たちを同じに扱ってはいけない。

 彼らは支配に向かい、我々は精神の向上に努めてきた。

 自分たちが正しいと言っては他人を言い負かすことではなく、正しいことは正しいと行いによって示していく必要があるのだ。

 正しいならば自分自身が選択し、実行すればいい。

 たった今、自分がしてもいないことを、他人に正しいなどと言えたものではない。そんな真似をしていたら、自分自身も口先だけの人間になってしまうのだ。

 綺麗ごとばかりの嘘つきは、目の前の人の行動を「正そう」と指図する。恐怖を生み出し、罪悪感を抱えさせ、なんとかして社会的正義や理想を使って「自分が望むこと」をやらせて自分一人で喜ぼうとする。

 どんな時も、自分自身が今本物の自分として生きてる限り「自らの今の行い」をどうすべきか考え、実行していくしかないのだ。

 偽物は言葉で人の行動を指図する。

 それも「自分への扱い」について指図する。

 傲慢な人間は、他人の自分に対する「扱い」を返せようとするくらい、自分以外の人間を自分の道具としてしか見ていないのだ。

 何を言っても「道具の言葉」としてしか聞こえないから、最初から存在そものものを差別している人には言葉など無意味なのだ。

 どうせ相手が何を言おうが、「これから先」に起きることは勝手に決めているのだから。

 ここまでどの国でも酷い状態になれば、精神向上に努めようとする人間が生まれてくるだろう。

 必ず、何もかも表裏一体なのだ。

この認知能力の人に説明しても無駄 ~YouTubeより~

 言葉だけで思い込みの世界を作る人とは、今、ここで起きていること、現実の未来に進むことは不可能です

 本物のナルシシスト、自分の頭の中にある「想像世界」を作って一人で生きているので

 現実の世界を誰かと生きることはできません

 頭の中に「そう思える世界」を作ると、それを理解してくれた他人と一緒に頭の中の世界の続きを生きられる、と思っているのです

 意味がわからない話に聞こえるかもしれませんが、そのくらい認知能力には差があるのです

 もし、自分の親がそのレベルだった場合(言わせたらそれが本当になる、のレベル)

 自分がまともに生きていきたいならば、親は放っておいて自分が伸びることに全力を注ぐしかありません

◯◯になれれば幸せになれる ~無料記事~

 ◯◯になったら幸せになれる

 と思い込んでいる人は、その◯◯になれないから自分は不幸だとか、ダメなのだとか、または◯◯になったのに幸せになれないから誰のせいだとか、とにかく思い込みの世界で苦しんでいます。

 ◯◯になれば幸せになれる

 と言ったのは誰か?勝手に思い込んだのではないのか?

 確認は、確証は、人間ではない存在が言ったのか?

 未来のことはわかりませんが、これは現実です。

 事実のみで考えましょう。

 ◯◯になれば幸せになれる、と思い込んだ人は

 他人を妬んだ覚えがないでしょうか

 他人のものを欲しがると、自分も同じことをすれば「妬ましいなにか」が手に入ると勝手に思い込みます

 昔話によくある隣の家のおじいさんの例と同じです。

 人様のものを妬み、自分も同じものを得ようと画策した。

 今の自分にあるものが当たり前だと思わず、他人の幸せや努力も賛辞しない。

 なんでも自分のものだと思っていると、苦しむことになります。

 親のせい、社会のせい、何かのせいだと思う人は、自分自身には欲がなかったか、あわよくばの気持ち、楽したい、得したい、そんな気持ちがなかったかを考えなくてはいけません。

 結局、都合のいいことが起きればいい、自分さえ良ければいい、と思って生きている人は、どこまでいっても「あるわけない話」を鵜呑みにして楽して得しようとして破綻するからです。

 自分自身に後ろ暗いところはないか。

 楽して得したい、だから「この人に損してもらおう」と思って誰かを利用しなかったか。

 本当に悪事を平気で働く人は、善人がいたら「そいつに苦労を押し付けて楽しよう」という姿勢で生きています。

 それを悪いとも思わなければ、やめる気もありません。

 善良に生きる人の敵でしかありません。

 「他の人なら許してくれないことも、この人なら我慢してくれるだろう」

 この姿勢で生きる人が、他人に我慢を強い、苦しめ、本人も苦しんでいるのです。

 自分の身の程に常に相応しいものがやってくる、今の自分がたどり着くに可能な今しか生きることはできないのです。

 誰かに我慢をさせて夢を見ていた人は、夢を見れば見るほど自分を勘違いし、今も未来も苦しい状況にしていきます。

知能の差・認知能力の差 ~無料記事~

 僕も絶望的な気分を何度も体験していますが、それでも今まで必要なことは全部説明してきたと言ってもいいくらい説明してきました。

 しかし、理解できる人は1%程度なのだと思います。

 全員が「わかった」と思うんですよ。

 でも「わかる」をどういうことだと思っているのか、そこでもう知能に差があるのです。

 何を言っても無駄、という人がいます。

 誰が何を教えても「自分が受け取りたいように勝手に解釈」するからです。

 神経症者は「新しいものを新しいと認識できない」と言われています。

 つまり、脳が発達しないのです。

 「気づく」ができないのです。

 だから「気づけば変わる」と言われているのです。

 知らないことを知る。新しい世界が開ける。

 それすら「誰かの体験」をパクってあたかも自分も似たようなことを体験した「ふり」までする。

 病的なのです。

 まともな人は「ふりなんてしてどうするの?」と思うんですよ。

 「ふりして他人と同じだと思ってもらえたら、他人と同じ扱いを受けて他人の人生と同じ人生を生きていける」

 つまり、他人になりたいのです。

 無理ですね。

 でも真似しかできないのです。

 自分を自覚する、ということができないのです。

 こうして生きていると、みんなそれなりにそれっぽいことを言うので、それなりに大人になっているのかな、と思えるでしょう。

 しかし違うんですよ。

 大多数は、「他人が言ったことをパクっているだけ」なのです。自分の考えた言葉を喋っておらず、体験もない、発見したこともない、結論を出したこともないのに「私はこう思う」とか、「これは間違っている」と言っているのです。

 でもそれだけわかる割には、人生そのものは奴隷のように大きな力に従っているだけ。

 未来なんてないです。考えて決めていないですから。

 だから救いが必要になっているのですが、そんなものあるわけがないです。

 あるわけない、とわからないのです。

 自分がしていることは間違っているとはまったく思わず、自分が常に正しいと思っているからです。

 「こんなことをしたら、どうなるか」

 自分が行動する前に、想像して未来を予測できないのです。

 しよう、という意識もないのです。

 だから無理なのです。

 まず、僕たちは最初に何も知らずに人生を始めているのですから、実際に知っていることなどたかが知れているし、全てを知ることなどできずにみな死んでいくのです。

 では、ここはどこなのか?

 自分はなんなのか?

 生きているとはなにか?

 周りにある社会たるものはなにか?

 など、哲学的なことを考え、自分自身でひとつひとつ気づいていかねば発達はしません。

 他人に説明されたら、それを鵜呑みにして覚えるだけ。

 なぜその結論に至ったの?と聞かれても、自分が考えたことはないので理由は説明できず、他人が言った説明を繰り返すのです。

 他人の言葉を真似て、他人の経験があるふりをして、でも全部ふりなので中身も経緯もない。

 僕の若い頃の友人にいつもグズグズするやつがいたのですが、僕が慰めて教え諭した時に話した「僕自身の哲学」に納得したので、そいつは自分がそう思うかのように他人に話すようになりました。

 僕が話した内容を自分の考えのように語りナンパをし、深い考えがある人だと尊敬されたらしくそれで結婚しました。

 すぐダメになりました。

 友人から「あいつがお前に言われたこと全部自分の考えみたいにあっちこっちで語って回ってる。」とチクリが入りましたが、放っておきました。

 結婚して子供も設けましたが、夫婦仲は悪く、「元通りのそいつ」になりました。内容が家庭の悩みになった違いだけで、性格的にはなんにも変わりませんでした。

 それが、知能が低い、ということです。

 他人の考えを聞いて納得したからそれは俺の考え。

 こういう思考なのです。

 人との違いがわからないのです。自分と人との違い、あの人とこの人の違い。

 違うものと同じものの「区別ができない」のです。

 言葉で教えてもらわないと、自分の体験には解説が入りませんから、何を体験したところで「なんにもわからない」のです。

 なんにもわからないから、他人に話して聞かせて、他人に判断してもらうのです。

 あとは、誰かが言ったことをパクッて語り、誰かに命じられたことを実行し続け、褒美として与えられたもので欲を満たし、暇があれば愚痴を言うのです。

 愚痴を言うのは愚かな証拠。畜生道です。

 うまくいかないと思った体験から何も学ばず成長しなかった、ということです。

 人生は経験にも限りがあります。寿命に限りがありますから。

 同じ十年の月日を生きても、体験からどんどん学び成長する人もいれば、まったく変わらない=退化する人もいます。

 年は取っていくのですから、成長せず変わらない、ということは退化です。

 十歳の子が三歳並みである場合と、三十歳の人が三歳並みである場合は同じではありません。

 「十歳のわりに幼い子」から「三十歳なのにおかしい」に変わっていくのです。退化していくのです。

 自分は何も変わらないから、ずっと同じ、と思う。

 それが区別ができない人です。

 認知能力はどんどん衰えます。だからもう一生無理、という人も沢山いるのです。

 死がどんどん迫ってくるのに、今まで生きて来た世界自体が「勘違い」なんてことに直面するのは不可能に近いでしょう。

 ちなみに、僕は直面しました。三十代の頃に、個人のことではなく社会の洗脳について気づき、目が覚めました。

 何年もかかりました。平衡感覚を取り戻していくまでの時間です。勿論一人で努力もし続けました。周りのことは考えず、自分の目的に向かって進んできました。

 でも、こうした話をすると、僕の体験をパクる奴もいるのです。先ほど書いたかつての友人の話、妄想恋愛ストーカー女子の話、それは「そうなってしまうよ」と先に想像してもらうために話しているものです。

 そんなことは言わなくてもわかる人はわかりますが、それすらわからない人もいるのです。

 昔話の教訓の意味が理解できないまま大人になった人です。

 一言で言って、馬鹿なのです。

 僕は生まれつき知能が高いです。ものすごく高いです。
 だから子供の頃に「これは現実だ」と気づきましたし、話をしても先生も理解できませんでした。

 でも、自分が間違っているなんて思ってはいません。

 そうなものはそうだからです。

 僕がどんなに先に「このままではまずい」と教えても、自分の願望を叶えることしか頭にない人にはなんの役にも立ちません。

 そして、僕が言ったとおりの「どうにもならない末路」を辿るので、僕も離れていくのです。妄想恋愛ストーカー女子にも何度も同じことを説明しましたが、もうあそこまでおかしくなってしまった人には人間が会話して何かを教えることは不可能です。

 殆ど動物並みです。自分の頭で考えるなんてことはひとつもできない知能でした。それでも、社会では職場であいさつ程度できれば、後は推し活でもして妄想しては他人に迷惑をかけて生きて行けるのです。

 奴隷。本当に奴隷です。

 僕は他人のことは気にせず自分のことを考えて生きてきましたから、そんな馬鹿が存在していると知りませんでした。

 自分の人生について、自分自身について、何も考えずに生きて来たのです。

 どうやら、「みんなで私の人生を生きている」と思っている子供の頃のままなのだとわかり、じゃあ他人が話してもなんの意味もない、と悟りました。

 その時期は他人との会話は「雰囲気だけ」の産物です。今ここで会話している内容は重要だとも思っていませんし、会話がかみ合わないとしても気にしないのです。

 「会話がかみ合わなくても相手が許してくれて優しくしてくれればいいや」

 子供の感覚などそんなものです。自分の頭で自分の先など考えようとしていませんから。

 わからないことは他人に教えてもらい、どうしたらいいのかわからない時は他人に決めてもらい、どうにもできない時は誰かにやってもらう。

 それが家畜の生き方なのです。

 自分も人間なのだ、という扱いを自分が自分にしなかったのです。

 そして、もし僕がこんな話をしたところで「親が」と言い出すほど、もう自分の頭で考える能力がないのです。

 今までしてきたこと全部、我慢したとか言っていること全部、最初からひとつもやらなくていいことだ、と自覚できないのです。

 自分など存在していないです。我慢して装ったら、自分が存在していると思い込んでいるのは「自分だけ」で、他人は我慢している自分を本物だと思うのですから、もし思わなくても本当はどうなのかなど誰も自分も知ることなどできないのですから、もう手遅れです。

 手遅れ。

 これがあるのが本物の人生です。取り返しはつかないです。

 それでもまだ寿命が残っているから、今からでも必死で生きねば、と思える人はともかく、そんな人もまず滅多にいないのです。

 男のやることに口を出さず、甲斐甲斐しく世話をする女。

 それが立派なことだと思っている人は、最初に結婚や恋愛の成功を「諦めた人」です。

 実行前に、考えればわかります。何が起きるか。

 お母さんが言ったという理由での失敗であれば、自分の人生における恋愛や結婚の幸せを諦めてもいいと判断したならばともかく。

 考えればわかることです。

 考えなかった、ということだけは、すべて自分の責任です。

 僕も子供のころ考えましたよ。

 母が何を言っても、実行するのは自分。つまり僕の責任にしかなりません。外に出て自分の人生で実行してしまったら、うまくいかない時に「お母さんが言ったから」を言えばただの言い訳。というか、それこそが「言い訳」というものです。

 自分の考えもなしに行動して、言い訳する。

 その時、「お母さんが言ったんじゃしょうがないよね」と優しく対応してくれる友達や恋人がいたならば、僕は完全に「どうしようもないやつ」として対等な立場を離れなくてはなりません。

 人間としての尊厳を守るならば、理由は本当に母が言ったからであっても、僕がやったことだと責任を取るしかないでしょう。

 事実、やっているのは僕ですから。

 「お母さんが言ったから」と言いながら素敵な女子をやっている女がいたら、ちっとも素敵ではありません。どうせ何もかもお母さんに言われてやっているだけで、本人の考えではありませんから。

 本人の意思がないなら、「意思を尊重」などできません。

 自分の意思を尊重しろと求める人間が、尊重すべき意思すらないなんてことはよくありますよ。意味がわからずに適当に言っているだけなのです。

 人間は知性があって人間です。

 知性とは、自分自身の精神があり、自分で考えることができる力です。

 言われた言葉を真似しているだけなら動物でもできます。ボノボなんて賢いものですよ。

 尊重すべき意思がないのに言われたとおりにちゃんとしているから幸せにしてもらうなんて、人間としての尊厳をすべて捨て去った何かでしかありません。

 事実そうなのですが、「傷つくから」という理由で死ぬまで今のままでいいことにしてあげるのが「日本人の優しさ」です。

 しかし僕は、かつて外国から来たばかりの方に言われたことを思い出すたびに、僕はどこに行っても自分の考えを述べられる人間であろうと思うのです。

 「日本人って、あなたの意見を聞かせて、って言っても、全員が同じ正しいことを言おうとするの!これ、おかしいってあなたわかる?!」

 興奮気味に話していたその様は、今でも脳裏に焼き付いています。

 僕は日本人として、今どうすればいいのかと思いました。

 殆どの人が、言われたとおりにちゃんとすれば褒美をもらえる、という調教を受けて「立派な大人」になったからです。

 外に出ればコソコソもするでしょう。誰も命じてくれませんから。

 教えられたならばすぐにパッとできるのですが、どう考えてもみっともない今の自分に対して辛い体験のドラマを生み出すことで現実を自覚せずに生きようとします。

 ナルシシストであるのは本当に都合がいいのです。

 奴隷を作りたい人たちにとっては。

 しかし、僕はただの馬鹿にしか思えません。

 または「人生どうでもいいらしい」としか思えません。

 自分の人生が本当に大事なら、自分が一番誰よりも考えているでしょう。

 自分を大事にしようという姿勢がない人間は、どこに行っても誰にも大事にされません。

 他人が冷酷なのではなく、その扱いにしないと本人が満足しないからです。

 大事にされたら困るのです。命じられた通りにして、それで認められて、ここからが存在しない妄想ですが

 「いつか幸せになれる」

 この部分だけは妄想ですが、命じられた通りのいい子にしていれば誰かが「それでいい」と認めてくれるでしょう。

 それだけです。

 そうしたら「きっと幸せになれる」の、部分は、勝手に妄想しただけの部分です。

 最後まで「言われたことをやり続けるだけ」です。

 いつか、いつか、と夢見させてもらえているだけ、幸せなのです。

 夢の中で幸せになったのだから、もう現実の幸せなんて必要ないのです。

 不要なものは手に入らない。道理に適っている、と思います。