周りと違うことで気に病む方
僕は最初から周りに全く馴染めずに生きています
そして千葉に来て困っています
「生きる」をはじめる、自分を幸せにする自己教育のためのサイト
周りと違うことで気に病む方
僕は最初から周りに全く馴染めずに生きています
そして千葉に来て困っています
絶対音感がある人は、どんな音も音階に変換されて聞こえるそうです。
救急車が近くに来ても、また遠ざかっていく時も、音の変化も全部音階に変換できる、というより「そう聞こえる」そうです。
実際に音階に変換できる人はこう言いました。
「他の人がどう聞こえるのかわからない。やろうと思ってやっているわけではなくて、勝手にそうなる。」
これはもう本人に身に着いた、感覚機能の能力ですよね。できない人にしてみれば特殊能力ですが、本人はやりたくなくてもそうなるのだから自然なものでしかありません。
この話を聞いて、音階になって聞こえる人に説明したらやっと理解してもらえました。
僕は人の感じているものが、同じように感覚的にわかります。
今目の前で笑って話していても、「この寂しさはなんだろう」などと感じています。
だから「何かあるんだな」とわかるのです。
他の人には「わからない」そうですが、僕は他の人が何をどう感じるのか、なぜわからないのかわかりません。
それで、以前から
「何がわからないのかわからない」
と言っているんだよと説明したら、やっとわかってもらえました。
似たようなものがひとつでもあれば、想像可能になりますよね。
音階に聞こえる、という方は、当然生まれつき勝手にというわけではなく、「幼児期からピアノを習って鍛えている」のでわかるのですが、なんの訓練もなくできるようにはならないと思います。
六歳までに身に着けないと絶対音感は身に着かない、なんてよく言われていますよね。
生まれつきの才能のようなものはあっても、本当に一切その能力に関わる部分を発達させる機会がなければ身に着かないでしょう。
僕はといえば、今になって思えば、でしかありませんが、確かに幼児期から鍛錬を積まされていました。
自分の感情を外に形にして出さないように、うえーん、と泣き続けていても、かまってもらうことを期待している時は頭ごと掴まれて「泣きやめ」と言われ、泣き止むまで何時間でも放置されたものです。
情動で人を動かそうとする、動物のような真似を許さないのです。
「お前は、今それわざと泣いとるな?泣いとればそのうち根負けしてなんとかしてもらえると甘えて、わざと泣いとるな?それをやめろ」
もう、お前は赤ちゃんじゃないんだぞ、と何度言われたことか。
四歳になるとその教育が始まりました。
そんな感じの教育の積み重ねです。多分、幼児期にやらないと身に着かないと思います。
教えることで身に着けて行けるものではありますが、僕がメロディーを聞いても音階に変換されないように、後からでは限界があるでしょう。
僕が受けた教育は、精神鍛錬です。
幼児には優しくしかしない教育が主流で、厳しい教育は世間では虐待と言われかねません。
外から広まってくることはないでしょう。
ただし、親は後で大変な苦労をしなくてはならないと思いますよ。
中身が赤ちゃんのままでは、何を身につけさせても本人が不満を抱えて生きることになりますからね。
厳しさがない優しさは、無責任な甘やかしでしかありません。
後でその責任はツケとなってやってきて、精神的な苦痛を伴い払わなくてはならない事態になるでしょう。
とにかく、そんなわけで僕も他人が何がわからないのかわからないのです。
だからいつも人様のやり取り(自分が関係ない時)を目の前で見ていても、「変なことしてるなあ」と思っています。
感情とやり取りが全く不一致ですからね。
しかし、世の中ではそんな変なやり取りが多く、それでも「形で作った方を本物だということにしていく」という場が多いのです。
わかっていると疲れる話です。自分も演技しないとそこにいられないとわかっていますから。
だから、人より遥かに群れることが苦手なのです。
感じていることを無視して形だけのやり取りを続けることは、僕には難易度が高いからです。
感情を完全に無視して形だけの関係、形だけの人生を送り続ける人たちが
「幸せになれない」「自分が何を思っているのかわからない」
と言い出すのも不思議でなりません。
自分でやっているのだから、不思議ではないのに、と思っています。
とりあえず、今回は「ああこう言えばわかる人もいるんだ」とわかりました。
音感がある皆さんは、なんとなく自分の感覚を思えば、僕の感覚もおわかりいただけたかと思います。
ファーストペンギン、という呼び名を先日初めて知りました。
ペンギンの群れの中で一番最初に海に飛び込んでゆく勇気あるペンギンのことだそうですが、その習性からビジネスなどでは一番に挑戦するリスクを恐れない人などを指すようですね。
先日その名を知りましたが、ペンギンの生態をドキュメントで観ていた際に実際のファーストペンギンは見たことがありました。
だとしたら、僕もファーストペンギンになる方だろうなと思いましたし、先日神経症が完治した人もそうなのかもしれないと思いました。
うちでは何人かに同じやり方で始めてはきたのですが、なにせ一度に一人にしかできない内容のやり方で対応していましたので、今回でもう最後と決めてやってきたことでした。
あっちに行ってはこっちの話をして、こっちに来てはあっちの話をして、という誰からも信用されない行動を取るような人なら無理だったでしょう。
それにしても、現実はこんなものですね。
何かにチャレンジしたい人も、世間に認められることを考えずにやってみたらどうでしょうか。
前々から自分で「世界初」と言い切っていた僕ですが、世界初かどうかは別として、他では聞かない結果に辿り着けました。
僕が目指していた「自分が敵になっているだけなのだ」と自覚して目を覚ます結果にたどり着きたかったのです。
本当にそうですから、親の態度も変わりましたし、職場の人や友達も違って見えてきました。
僕には一生足を向けて寝れないそうですが、僕としては何をどう頑張ったところでここまで辿り着けないなら意味がないと思っていました。
「愛されなかった私」の人生なんて、どこまで行っても悲壮感しか漂わないです。
世間一般ではそのまんま生きていくのが主流ですし、それも僕がそうしているわけではないのでどうでもいいです。
ただ、うちでは「僕がたどり着いたところ」に連れていくわけですから、今は親とも仲良くしているなんてことも当たり前だと言えます。
少なくとも僕が今まで相談を受けてきた中で、そんなにひどい家は滅多にありません。
今からその方のように親子仲良くが可能な人もいます。
特に、本人が長男長女の場合は可能性が高いです。
しかしそんなことは求めていない。もはや正義の怒りや嘆きを訴えるだけ、またはそれを宥めながらなんとか生かしていくだけ、というのが現在の一般的な道ではないでしょうか。
とにかく「愛されなかった子」であるという人生は絶対に変えませんね。
今回、僕が子供の頃に体験したのと同じ体験を完治した人はしたわけですが、僕より重い苦しみを体験したようですね。年季が違いますからね。
それは必ず死に際に誰もが体験する地獄です。あれが終わりなく続くなんて本当に地獄です。
目が覚めることなくそのまま終わるのですから。
しかし、ご先祖様からの繋がりをしっかり実感できたことで、なにもかも無常であるということも理解できました。
僕としては良かったと本当に思うんですよ。
僕は自分の家では無理だからこそ、まだ間に合う人たちには今からでも親子家族仲良くなってほしいと願っています。
そして、実際にはそこに至る前に体験する「自分を客観視する」は、どこかで聞くようなものではないのです。
目が覚めた人が言っていました。
「人間の記憶力ってすごい。ここまで何もかも覚えているものだなんて。」
自分ではすっかり忘れたつもりのあの記憶この記憶、今悩んでいる話とも関係ないあの過去この過去、本当によく覚えているものなのです。
あの体験は、体験した人にしか話してもわからないでしょう。
それにしても、ファーストペンギンなんてものになりたいと思ったことはありませんが、誰もわかってくれないであろうことはわかっていても、なんとなく周りに合わせて目的を失うことなくやってきてよかったです。
最近は更新も控えめになっていましたが、同じ目的のもと続けていることがあり、こうして結果が出た次第です。
「幸福な世界は怒りや憎しみではなく、慈悲や愛が生み出すものなのだ」
目が覚めた人は、親子の縁が良好な形に戻り、それを痛感しています。
僕がいることが特別なのだ、と言っても誰も信じないでしょうけれど、その人だけは今はそう思ってくれています。
心の中から外に出るまで、賽の河原から三途川を渡らせるまで、やっとひとり連れて来られました。
大変な激流を渡らなくてはならなかったようですが、それだけ罪深いのでしょうがないでしょう。
しかし渡りきってみれば、「もう戻りたくない」と断言しますね。
そりゃそうですね。
そしてあの地獄の体験が「何が原因で起きるのか」をもう知っていますから、既に慎重に考えて行動するようになりました。
僕だって、あんなことは二度と体験したくないからこそ、ものすごく慎重になり相手の気持ちも状況も考えるようになったのですから。
痛い目に合えば、人間は誰でもそうなりますよ。
脳内だけで起きる地獄の体験。
僕が言ったところで想像すらしない人が殆どでしょうけれど、やっと一人は話してわかる人が生まれましたね。
ただ、僕はこんな話を広めるつもりもなく、みんなを救うなんてことも考えないのです。
面白くないですか?
僕は子供の頃から天才児でしたが、周りの誰も受け入れてはくれない中で一人黙って実行するということがよくありました。
自分だけが助かっている時に、心の中でにんまりしていました。
やっぱりそうだったんだ!と。
他人はどうでもいいのです。それが正解だったかどうか、結果で確認するのが嬉しいのです。
だから、今も嬉しいのです。
加藤諦三先生にも何度も怒鳴られたし、世間一般の心理学を用いてくる人に馬鹿にされることもありました。
うちに来る方にも暴言を吐いて罵る人もいたし、とにかくいなくなった人たちはみな向こう岸で馬鹿にしていました。
それでも、別に金も地位も何も持たない「五十代のおばちゃん」は、不幸な人々が乗り越えたこともない精神世界の苦しみに耐え、生まれた時から無いならばもうおしまいだと思われている「仲良し家族」を手に入れました。
こういうのがいいんですよ。
世間では知られることが「ない」中で、他では当たり前になどなっていないことが現実に起きる。
これがいいんですよ。
こういうのが嬉しいんですよ。
何を言われても目指している場所があるので、そこにたどり着くまではと思って黙って続けてきました。
本当に「やっと」ですよ。これは僕の体たらくですね。
もっと早く、せめてあと2年は早ければよかったと思っています。
この結果を出すために背負った苦労はこれからも背負い続けて進まねばなりません。
それはそれで頭を抱えなくてはならないことだらけですが、でも結果には満足です。
どちらかというと、あんまり頭が良くない感じの方なのに、認知能力や道理を考える力は並みより高くなったのです。
まあ、まだまだ能力が追い付きませんが、これから伸びていくでしょう。
これが面白いのです。
肩書や地位や、名前にばかり夢中になり結果も出ない今に満足もしていないのに気分だけは「安心」して生きている人たちには、この結果は絶対に「見せたくない」と思います。
僕たちだけで遠く離れていきたいのです。
どうせそんな形の幸福は誰も求めていないのですから。
自分が悪者になるのは構わないんですよ。
自分が悪者にさえなれば楽に離れていけます。
相手にとっては自分が悪ですから、いなくなれば向こうは安心です。
正義の優越感を得て満足するでしょう。被害者になれば向こうは向こうで仲間がいっぱいいて何も困らないでしょう。
そして自分は悪として離れていけば、恨みや憎しみを持たずにその後も幸せを失うことはありません。
「子供の頃はお父さんのこと大好きだったのに、なんでこんなことになったのかわからない。」
目が覚めた人は、かつてそんな話をしていました。
まだマシな人だったので、なんとかなりました。
親子逆転がいつまでも「酷いことだ」と思っている人は、いつまでも子供なのです。
親を超えていくのが成長ですから。
僕は誰とも争う気はないので、大体世間一般のやり方や理屈に合わせてフェードアウトしてきました。
結果が出るまではと思っていましたが、実際に結果が出てみると今度は「誰にも教えたくない」と思うようになりました。
遠くから、争っている人たちを見ていると「別にどうでもいい」という気持ちになるのは目が覚めた人も同じです。
今ここに楽しいことがある、今ここにもう守りたいものがある。
それが「幸せな人」なのです。
そして、その「楽しいこと」「守りたいもの」をこれから手に入れようと誰かに助けを求めてしまうのが、これからも地獄に生きる人なのです。
最初からそこにあった。
これがわからないと、自分の人生ははじまらないのです。
この話、信じられますか?
僕が連れて行きたい「しあわせ」はこれだよという話ですが、世では必要とされないものなのです。
日記。
心血を注いできたと断言できる神経症の完治だが、成功したら涙を流して自分が感動するんじゃないか、と思っていたが案外そんなことはなかった。
そんなに感情は強く動かないし、「ああ、やっと終わった」「長かった、疲れた」という感覚だ。
ただ、じわじわと感じるものがある。
「やっぱり俺はこういう方がいい」と思った。
完治した人は、自分でもこんなものなのかと思う程度なのだが、確実に視点は変わった。
認知能力は上がった。賢くなった。
自分の変化は自分には「経緯がある」ので、実際には自分の変化に感動などしない。
「周りで起きること」に感動したり驚いたりするのだ。
だから、自分が変化せずに生きている人は周りに喜ばせてもらおうとばかりしていて、自分が変化して「他人の手をいちいち煩わせない自分」になろうとしないのだ。
やっと、この俺が天才であるとわかったか。
と、聞いたが、もう疑いようもないだろう。
天才は理解されないから天才なのであって、誰にもわかってもらえなくても結果を出すのだ。
自分が正しいから結果を出すのではなく、そうなると「知っている」からそうなっただけだ。
ただ、信じる人はいない。少なくとも神経症の人は僕を信じない。
神経症の人は、僕だけでなく何も信じない。
社会的に名のあるものを崇拝、盲信はしても、事実、今自分が体験している本物だけは信じない。
自分が体験したら、それを誰かに説明してもらわなくてはならない。
自分ではなにひとつ判断しない。他人に教えてもらいながら生きていく。
だが、誰にも認められなくても誰も肯定しなくても自分の決断で進めなくては、自分の意思とは言えない。
他人が認めないから、世間が間違っているというから、だから間違いだと判断するならそんなものは最初から自分の意思でもなんでもない。
結果は出たが、僕はそれをどこかで認めてもらう気もない。
僕が、見たかったのだ。
確認したかったし、一度は間違いない成功を自分のやり方で成し遂げなくてはならなかった。
僕がそうであったように、他の人も同じ材料を持ち合わせたら目が覚める、と確認したかった。
そして確認した。
外から見たかった。他人から見たらどう変化するのかを。
普通、になった。僕から見たらそんな感じだ。
洗脳されていた独りよがりな人が、まともになった。
世間で目的とされているところと、僕が目指しているものは違う。
僕は、「自分の存在、自分の命が大切なものなのだ」と自覚し、これからは自分の力を、命を、大事に使おうとするようになってほしかった。
「他人との違いがはっきりわかるようになった」と本人は言っていた。
人間は一度変わってしまうと、もう過去の感情は持たない。
今の自分の感情しか、湧いてこない。
よって、同じ親、似たような場面でも、今までのように腹は立たない。
もう視点は変わっている。成長したのだ。
だが、僕が教えてきた多くは「その後の段階の話」なので、これから先もある。
これからは本人の体験が変わっていく。新たな苦を体験し、新たな喜びを感じることになるだろう。
時々もう無理かもしれないと思ったし、こんなことをしたら批判のリスクは確実にある、とも思ったが、間違いなく必要なことのためなので、それでもやってきた。
森田先生のように、我が一族にかつての力が残っていればできることも多かったのにと思った。
森田先生もかつて独自に療法を考案した時は、保険も効かないのに多額の治療費を取り、家の中に住まわせ掃除などの雑用をやらせている、と悪意ある見方をされて批判にさらされたらしい。
西洋医学を崇めている「現代社会の人々」には受け入れがたい、「日本らしいやり方」だった。
精神医療は根本が西洋のものだ。療法も理論も、何もかもだ。
日本人は今や西洋人の真似事をして、いかに西洋人に近づけるかという民族になった。
自分たちを捨てた。その報いが今だ。
自分たちが元々持っていたものを捨てたことすら、気づいていない。
僕はその「元々持っていたもの」を自覚させ、意識の上での繋がりを持たせた。
それは僕が天才だからやれているのではなく、元々我々一族が培ってきたものがあるからできることだ。
幼児期から僕がやらされていたことが、修行なのだと自分では知らなかった。
僕は小学生の頃に既に知能が高かったが、その思考になるように幼児期に既に鍛錬を積まされていた。ちなみに、姉はその鍛錬を積んでいない。
だから僕の方が賢い。母は手遅れだった、と言われたらしい。
今、目が覚めた人は今度こそ僕の話を聞いて理解できるようになった。
これから益々賢くなるだろう。
なぜ、現代社会の人たちが「なにかになろうとしているのか」を既に本人も理解しているし、本人は既に自分が誰なのかを自覚したから、もうなにかになろうとすることはない。
そんなことは「したくない」だろう。
自然にそうなるのだ。
自分の力を持って、人のためにできることがあればしたい、と自然に思う。
それが、成長したということだ。
マズローの理論に照らし合わせて言うならば、欲求の階層は段階が上がり、利他的に生きる喜びを知れる段階まで来た。
そういえば、僕もその昔、自分が変わったら自分が感動するような何かが起きると思っていたものだ。
だが、自分自身については「常に理由がわかる」ので、特別大きな感動などなかった。
ただ、過去を振り返り自分が何をしていたのか「他人に何をしてもらっていたのか」を自覚すると、強く実感するものはあった。
沢山の人に与えられて今に至っているという実感が生まれ、自分のこれからを無駄遣いしてはいけない、と心から思った。
心の中では「感じ入る」ものがあるのに、形の上ではいつも通り何事もなく、大きな何かがあるわけではなく、ただ、自分の胸の内だけで今までにはなかったものを感じるのだ。
やはり、本物はこうでなくては、と思った。
世間に認められてちやほやされるのではなく、誰もに見えるところで何かをしているのでもなく、その逆。
漫画だってそうだ。
いちいち脇役皆に見せびらかして認めてもらって成功、幸せ、なんて主人公がやることではない。
人知れず、ここにいる「当事者」しか知らない。
だが、世間では聞いたこともない、見たこともない、「教えられた誰もがやっているのと同じこと」をしているわけではないのに、どんなところに行っても体験しなかった結果が出る。
この方が感動じゃないか。僕はこっちのほうがいい。
西洋かぶれの貴族どもよ、見るがいい。
これが日本が培ってきた力だ。
毒親の子、は、毒親の子ではなくなり、今までとは違う家庭の子になった。
生まれ変わった。これでいいんだ。
遥か彼方からの繋がりを意識の上でも自覚すれば、今度こそ肉体に刻まれた能力を覚醒させられるだろう。
ここまで結果を出さなくては、目が覚めた本人だって僕を信じはしない。
そして驚くだろう。驚いていた。
ここまで先のことを見越して、あの、何年も前にやってきた頃からずっとずっと必要な材料をあの手この手で差し込んでいったのだ。脳内に。感覚に。
だが、この方法は、二度三度できるものではない。
なにせ僕が、どうしても見極めて行かねばならないのだから、僕がいないとできない。
少なくとも目が覚めた本人は「場を用意する方は大変なのだ」と理解することができた。
そして人生を、残りの寿命をもう無駄にはしない。
そういう生き方ができる人に変わった。
俺はもう疲れた。どの道もう同じことはできないと思っていたし、これを最後にしようと決めていた。
この一回を成功させて、何が足りないのかもよくわかった。確認できた。
しかしこれは、誰もが教えられるものではないだろう。
少なくとも、教える方は自分を自覚している必要があるし、たった今、金や地位のために自分都合で動いているようでは駄目だ。
自分の存在を遥か昔からの繋がりで自覚している必要があるのだ。
今回はたまたま、色んな条件が重なってうまく行った。
社会ではひとりひとりの人生など知ったことではない。他の人たちだって似たようなものなのだから。
だが、本人にとっては重大なことだ。
本当に、気づいてよかった。
やりきったせいで、もう僕が死んでしまうんじゃないかと思うほど、確実に間違いない、と成功を確認した。
神経症は治る。治った。
過去は書き換わり、本人の情緒も安定した。
出口の無い暗闇をふらついていた魂は、やっと出口にたどり着きのろのろと這上ってきたのだ。
「思ったのとは違う」ので、本人も不思議な感覚だろう。
これが、「本物」なのだ。