直接体験もないのに情報だけで争いが起こされる時、誰かが糸を引いている。
今ではなく、過去のことを考えていると、中国人への共感を僕は抱く。
僕は映画が好きで色々な国の映画を観るが、中国の映画を観ていると日本の幕末から明治にかけての頃を描いたものには、西洋人の侵略に抵抗する話がよくある。
僕は長い歴史を誇る中国伝統の技や精神について尊敬しているが、日本と同じく、西洋人が侵略してきた頃にそれまで自国で培ってきた技や知恵を「時代遅れ」として捨てていった流れがあるようだ。
当然、現代は、新しい時代は、と言いながら、自国のものを捨ていち早く西洋化に取り組み、西洋人の仲間となっていった人々が日本と同じく中国にもいたのだ。
僕が好きな中国人の整体医の先生に、「病院に行くと最悪手術になるらしいから」と腰痛の話をすると、先生は即答した。
「そんなことしなくても治る。体をすぐ切ったりするの良くない。」
中国人にも色々いるが、それは日本人も同じことだ。そして同じ東洋人として、共感できるところは多々ある。
なにせ僕自身が「時代遅れの日本の伝統」を守りたい方なので、誰かの都合で生み出されている「存在しない記憶」からの敵意を収められないものかと考える。
僕が中国を知ったのは、子供のころ、リー・リンチェイのデビュー作でもある映画「少林寺」を観た時だった。鮮明に記憶していられるほど衝撃を受けた。以来、中国という国の文化に惹かれ、子供の頃になんとかして横浜の中華街にも出向いたものだ。
政治と文化、そして国民は関係あるが関係ない。
政治家がやることは、一般の国民がやりたいことではないし、寧ろその逆であることは多い。
強い者の味方になっておけば身を守れると思う輩が、とにかく強そうな側については強者が正しいかのように広める。
圧倒的な武力で次々植民地を広げていった西洋人たち。
「このままでは負ける」と思い、彼らの模倣を始めた人々は中国にも日本にもいる。
真似をして彼らに勝とうというのが、そもそもおかしくはないか。
先日、国立博物館で現在開催されている「百万石!加賀前田家」を観に行った。大河ドラマに連動していることは名前からもわかるが、多くの所蔵品が大公開されている。
以前から僕が故郷の昔を説明する際に、「名君がいた」と五代藩主のことを話していたことを、覚えている人は少ないかもしれない。
今回の展示を見れば、名君どころか「天才だったんだな」と誰もが思えるであろうほど、本当に多くのことを成したすごい人がいた。その頃の所蔵は桁違いに多く、内容も多岐に渡る。展示の半分以上は五代藩主のものじゃないか、と思えるほど多い。
しかし、時代別に展示が進むと明治に入った途端に突然様相が変わる。
フランス人画家に描かせた肖像画があり、当主は西洋の軍服を着て、ぎっしりと胸を埋め尽くすほどの勲章をぶら下げている。地位をひけらかすかのように身に着けた勲章は、およそ武士なら考えられない話だ。
同じく描かれている奥方様も、西洋の胸元の開いたドレスを身に纏い、それまでの歴史が消し飛んでしまうほど破廉恥な姿を晒していた。
傾奇者まかり通る前田家においても、これはまかり通らないであろうと思える恥知らずな姿である。
それでも、我々前田家の御膝下に生まれ育つ人間は、みな前田の殿は我々を守るため、いつも外には恥を忍んでくださっている、と教わってきたから、藩主を簡単に馬鹿にするような真似はしない。
しかし、あの肖像画は非常に屈辱的で、ただの辱めを受けているとしか僕には感じられず、大変不愉快であった。
それまでの日本では間違いなく品がないと言われるような真似を、隠すこともなくやっているのだから。
これからの時代、ではなく、西洋人はやっているから、恥ずかしくない、ということなのだ。
その精神こそ、恥じるべきではないだろうか。
これまでの精神を正反対にしてしまうほど、西洋人は僕たちとは歴史的流れの根底が違っている。
それは中国の人々においても同じだと思う。東洋人的思想と、西洋人的思想は根本から違う。東洋人は「自らを鍛え高める」という方向性があるが、西洋人の場合は「神に従うこと」が正しい。宗教支配の中で国が作られてきている。自分を高めることなどしなくてもいいのだ。
神が言いました、という内容に沿った行動をしている、と思われる人生を送ればいいのだ。神という概念が、人を支配してしまっている。
中国の人々も伝統や誇りを重んじてきたのに、自分たちが培ってきた大切なものを、あっと言う間に蹴散らされてしまったのだ。内部では強い抵抗があったわけだが、結局は武力、そして金の力でねじ伏せられていくのだ。
長い目で、アジア全体の人々の内面を考えてみると、我々東洋人はとても傷ついたのだと思う。「西洋人の侵略に対する抵抗」の話は、インドやタイの映画にも見られる。
それまでの平和を荒らされたのだ。
みな誇りが傷ついたのだ。それまでの戦とはわけが違うことばかりだった。
自尊心を貶める行いを、次々やり始めている。
武力で人をねじ伏せ、奴隷を使って生きていた人々。人間を道具として見ているのは言うまでもなく「もともと」だ。
それを考えると、日本は相当平和だったと思う。武士は精神的な精進を大切にしていたから、政にも西洋のようなことは起きなかった。
侵略者が入り込んできて、その国その国の自然な発展、変化の邪魔をし、敵に勝つためにという退行の道を進ませた。
プラトンが、セネカが、時代時代に己の中の敵に気づいた人々が最も大切なことを言い残してくれているのに、人間は未だに変わらない。
真の幸福は「自分だけが思い通りにできる未来」にあるわけではない。
心穏やかに過ごすためには、「言うなりになってくれる誰か」がいればいいわけではないのに、今や日本の人々もすっかり西洋貴族のようになってしまい、他人と戦い、ねじ伏せ、支配し、そして欲望を叶えることしか考えていない。
すべては己が欲望を叶えるため。
そのために、学んだこと、身に着けた技、覚えた言葉も他人の話も、何もかもを利用するのだ。
煩悩の化身。
精神の戦いに勝つなんてことは、なんの意味もないと思えているのだろう。
そもそも、見える世界が「精神の世界」だと思って、他人と戦っているのだから。
そんな世界はない、と思えているのが、自分自身の存在にすら気づいていない人なのだ。
中国も、日本も、西洋人の真似をして、自分たちの国にあったものは次々奪われている。
口先だけで人を巧みに動かして国を作ってきた民族と、自分たちを同じに扱ってはいけない。
彼らは支配に向かい、我々は精神の向上に努めてきた。
自分たちが正しいと言っては他人を言い負かすことではなく、正しいことは正しいと行いによって示していく必要があるのだ。
正しいならば自分自身が選択し、実行すればいい。
たった今、自分がしてもいないことを、他人に正しいなどと言えたものではない。そんな真似をしていたら、自分自身も口先だけの人間になってしまうのだ。
綺麗ごとばかりの嘘つきは、目の前の人の行動を「正そう」と指図する。恐怖を生み出し、罪悪感を抱えさせ、なんとかして社会的正義や理想を使って「自分が望むこと」をやらせて自分一人で喜ぼうとする。
どんな時も、自分自身が今本物の自分として生きてる限り「自らの今の行い」をどうすべきか考え、実行していくしかないのだ。
偽物は言葉で人の行動を指図する。
それも「自分への扱い」について指図する。
傲慢な人間は、他人の自分に対する「扱い」を返せようとするくらい、自分以外の人間を自分の道具としてしか見ていないのだ。
何を言っても「道具の言葉」としてしか聞こえないから、最初から存在そものものを差別している人には言葉など無意味なのだ。
どうせ相手が何を言おうが、「これから先」に起きることは勝手に決めているのだから。
ここまでどの国でも酷い状態になれば、精神向上に努めようとする人間が生まれてくるだろう。
必ず、何もかも表裏一体なのだ。