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君にとっての「勝ち組」とはなんだ?

まだ見ぬ友人へ

 こうしてまだ見ぬ友人に手紙を書くのは久しぶりだ。

 君は生きていたか?

 実は「先生」として話すよう求められ頑張ってきたのだが、どうにも僕は普段から口が悪いから、キャラクターを作ろうとすればするほどうまく話せなくて疲れてしまうんだ。

 なかなか簡単に新しい顔を生み出すことはできないな。それが他人に求められる顔であれば猶更だ。

 同じ話を何度も録画して、結局配信はしない。そんなことを繰り返している。

 僕にできることなどないと思えるのだ。

 僕はただ、わかるだけだから。

 ただわかるだけ。

 世間では肩書のお陰で頭がいいと思われている連中が、実際には馬鹿だと見てわかるだけ。

 誰も突っ込まないが、少し考えればわかることなんて沢山ある。

 それだけ「少しも考えない人間」が多くなったってことだ。

 題した通りだが、君にとっての勝ち組はなんだ?

 君にとっての、だ。

 人間と戦いたい人は、世間の勝ち組になりたがるだろう?

 馬鹿め。

 なれるわけがない。

 他人が決めた価値観の勝ち組になんて、なれるやつがいたら見てみたいもんだ。

 あはははは。

 (・Θ・)あはははは

 この態度だから、僕は一般社会なんて向かないのさ。

 だって、君だって今僕が言ったこと、理解できないだろう?

 聞いても理解できない。だから話す意味を感じなくなったんだ。

 自分のことを発表し合っている人たちは、順番に相手の話から連想した自分の話をしている。

 それもどうだよと思うが、僕の話に張り合って自分の意見を言うなんてことは、そうそうできない。

 知能が違い過ぎるから。

 そしてこっちはそんなこと求めていない。

 張り合っているわけではない。

 頭がいいのもいれば、力持ちのやつもいる。料理がうまいのもいれば、話すのがうまいのもいる。

 そんなものだろう。

 それで?君の欲しい物はなんだ?

 君にとっての勝ち組は、君が欲しいものを手に入れた時になれるものだろう?

 世間の優劣で決められるものなのか?

 もしそうならば、君は誰かを見返したいのではないのか?

 「優越感」

 それが欲しいならば、君はどこかで悔しい思いをして、その時の恨みで生きているのではないか?

 ちょっと口は悪いけれど、はっきり言わせてもらう。

 君は馬鹿だな。

 否、殆どのやつが、バカだと僕は思っているよ。

 悔しい思いをしたから、恨みを晴らすだと?

 それでどうなる?

 それが勝ち組か?

 それが欲しかったものか?

 カッコつけているだけで、傷付いたことすら自覚できない負け犬だろう?

 復讐はカッコいいとか、傷付いても犠牲を払ってきたから可哀想だとか、そんなもの自己陶酔して思っているだけの「自己評価」だろう?

 君のことなんて、君を傷つけたやつは気にしていないさ。

 そんなこともわからないのか?

 いじめをする奴なんて、その時いい気分になったら「自分が相手にしたこと」すらすっかり忘れて、自分が意識して見せたい部分だけ覚えているものだ。

 もし、君がいじめられた悔しさで見返してやろうとしても、「見返す相手」なんてどこにもいない。

 なんせ、記憶していないんだから。

 知っているか?

 ずっと我慢して生きている「つもり」だった人が、いつか親に認めてもらうために大人しくしていた。

 よくある話さ。

 そして遂に堪忍袋の緒が切れて、親に向かってヒステリーを起こすんだ。

 昔どんな時に、どんなに辛かったかと涙ながらに訴えて。

 そんなもの対応できる相手はどこにいもいない。

 親はすっかり忘れている。そんなことを思っていたとも知らずにいた。

 そして、その事実は確実に「事実にしてしまうと親にとってマイナス」なのだから、そんなものは認めない。

 無かったことにされる。

 今更、親が「可哀想がってくれる」なんて思える方が現実を見てねえ、と僕は思うよ。

 どこに、貴様の家の中のどこに、子供の気持ちを理解して反省する親がいたんだよ。

 そんなものは「だったらいいな」と思い描いていただけの架空の親だ。

 最初から存在していない。

 現実と願望が滅茶苦茶になっているから、自覚していない。

 復讐なんて全ては無駄だよ。

 相手がいないのに一人でやっているだけなのだから。

 それで、もう一度聞く。

 君にとっての勝ち組はなんだ?

 最初に欲しいものがなかったんだろう?

 誰だってそうさ。

 欲しかったものなんてひとつもない。

 だからこそ、欲しいものがあるんだろう?

 それを手に入れることが、君の勝利じゃないのか?

 それとも、家の中に戦いがなくて面白くなかったか?

 争いたいのに、人を見下したいのに、それがないから面白くなかったのか?

 支配や服従の世界にでも憧れていたのか?

 僕は、もう勝利したんだ。

 勝ち組なんだよ。

 生れた時から欲しかったものは、手に入ったんだ。

 愛ある家庭だ。

 僕は愛し合う家族が欲しかった。

 明るく楽しく、兄弟もふざけ合ってじゃれている。

 両親は深く愛し合っていて、子供たちを心から大切に思っている。

 普段はバカなことを言っていても、大事な時は真剣になり、力を合わせられる。

 共に生きていく未来を常に考えている。

 そんな家族が欲しかった。そんな家庭に生まれたかった。

 そして生まれた。手に入った。

 だからもう僕は「可哀想な子」じゃないんだ。

 愛されて育った人間なんだよ。

 愛されずに育ったのに、なぜか前向きに成長している、と人間性心理では「例外」にされている人格だ。

 だが、違うんだよ。

 そうじゃないんだ。

 僕自身は、今のこの僕は、「愛されずに育った最初の自分」ではないんだ。

 最初から違う家に生まれた僕なんだ。

 もう勝利したんだよ。

 もう勝ち組なんだ。

 だからもう満足しているんだ。

 現実には沢山の困難があるが、僕は「愛されて育った自分」が好きなんだ。

 事実を事実として認識し、そして「常識」の発想を無視して「可能な方法」を考える。

 後は、確実に可能だと確信した方法を実行する。

 もう、最初の頃のことはよく覚えていないんだ。

 ただ「こんな人が自分の母親なんて嫌だ」と思ったのは間違いない。

 他人に「この家族の一員」だと思われたくない。そう思っていたよ。

 正直、みんなが羨ましくもある。

 そこまで執着できるほど、「この家族」を捨てたくないんだから。

 期待したい親。好きだった親。

 そんなもの、僕には最初から無い。

 認めてもらう相手が「この親」では、努力の甲斐もない。そんな親だった。

 「君は自分の過去のことを話すといいと思うよ」

 僕の才能を買ってくれた加藤諦三先生に、そう言われたんだ。

 だが、僕は話したくなかった。

 元に戻りたいわけではないから。

 僕は誰も教えていない方法を自分で編み出した。そして実行した。

 それでうまくいって、もう過去のことは本当にどうでもいいと思っているんだ。

 この今の僕の人生を生きる方が、余程大事だから。

 今になって、セラピーの方法や精神医療の治療を見ていても、自分でやってよかったと思っているよ。

 なんの後悔もしていない。自力で考え、学び、そして実行してきた。

 どこに行ってもそんなことは教えていない。

 加藤諦三先生は、その方法は知らない。ただ、僕が現実をどう考えたかを聞いて、驚いて感心していた。

 この方法しかないと思ったんだ。

 今、治療している人たちも僕は憐れに思っている。

 本人が選んでいることだし、別にそれを批判するわけでもなんでもないのだが、僕なら御免だと思うからだ。

 最初からレッテルを貼られた人生なんて、僕は御免なんだ。

 最初から、愛されて育った「普通の子」の人生が欲しかったんだから。

 親に虐げられたという不可抗力の事実のために、人生すべてを持って行かれたくなかったんだ。

 そして、武士を倒してこの社会を作っている、何者なのかもわからない連中を信じて「正しいこと」などする気もなかったんだ。

 「輪廻転生なんてあるわけがない」と言い放つアホの「専門家」の優越感になど、付き合っていられない。

 あるわけがないのは当たり前なんだから、言葉通りの意味のわけないと思わない連中。

 額面上通りにしか理解できない頭の足りない頭の連中が、社会を作っているんだ。

 社会的権威に認めてもらえたら、自分がすっかり「すごい人間」になった気になって、自分が生み出したものでもないものを覚えてはコピーして話しながらすっかり知性派気取りだ。

 弁護士に何人も関わる機会があったが、彼らの仕事ぶりは金の亡者としか思えないクズそのもので、口八丁で誤魔化しながら世間知らずの庶民を騙しているだけだった。

 あんな連中と結婚する女も、ろくな女ではないだろう。

 男同士で肩を寄せ合って、「私たち一緒にやったもんねー!」なんて二人組の中学生女子みたいな話し方をする。

 そんなのがいた。

 世の中は金ではないが、金のために生きている人間ばかりで面白くもなんともない。

 妄想を具現化することしか考えていないから、今そこにある「普通」のものには興味がない。

 だが、僕はそれでいいんだ。そっちがいいんだ。

 僕は「普通のもの」が欲しかったんだから。

 社会の負け組であることを悔しく思うならば、君はもうすっかり毒されていて幸せが何か知る日は来ないだろう。

 知らなければ欲しがることもなかったもの。

 見返してやろうとさえしなければ、やらなかったこと。

 達成しても欲しいものなんて手に入らない、無駄なもの。

 ところで君は、権威ある人たちが言う「立派なこと」が本当だと思っているか?

 権力は人の頭をおかしくするんだぜ。

 君は知らないだろう。

 僕も今起きていることなんて、想像もつかなかったよ。

 だが、もし、権力を握っても、かつての武士のように己を高めるための精進を怠っていたらと想像すれば、どんなことになっているのか、人の心の中だけは容易に予測できる。

 僕たちは、なんでもない庶民として生きていく立場だ。

 だったら、知りもしない理想を追いかけない方がいい。

 君は君の人生においての、君が君と勝負して勝てる「勝ち組」になればいいんだ。

 そうすれば、戦いは終わる。

 自分の中の戦いを終わらせれば、戦いは終わる。

 君は何と、誰と、戦っているんだ。

 人を恨むものではない。

 恨みは、「負けた人間」が抱く感情であって、その時既に勝負はついているんだ。

 人を地獄に引きずり降ろしたいならば、「恨ませること」。

 そうすれば、放っておいても恨んだ相手のために人生をつぎ込んで、無駄な努力をし続ける。

 そして恨みを晴らしに来た時に、もう一度傷つけることができるんだ。

 「なんのために頑張ってきたのか」と。

 絶望できればまあラッキーだよ。

 絶望にすらたどり着けない人間には、もう出口などない。

 それにしても、あまりにもみな深く物事を考えないな。

 世の中はもっと深く、そしてずるくいろんなことを考えている人たちが作っているのだから、もっともっとよく考えないとな。

 「こんなに浅はかであったら、僕だって死ぬことになる」

 簡単にわかるほど、あまりにも何も考えずに生きている人が不幸だ困ったと言う。

 そして人に何かを教えてもらっては感傷に浸り、遊興に入れ込み、なんとなくぼんやり生きているのだ。

 こうなるともう社会にすら関われていない。

 なんとなく存在している「世の中のモブ」だ。

 意思がなければ、それすら本人自身がなんとも思わないんだな。

 気の毒に思うのは、僕に自分の意思があるからでしかない。

 本人にとっては、なんでもないことなのだから。

 僕はもう、勝ち組だから、他人のことは気にしていない。

 争いが目的だったわけではない。

 争うことが目的の人は「みんなに羨ましがられそうなもの」を欲しがる。

 だが、僕は「僕の欲しいもの」が欲しかっただけなんだ。

 君はどう生きる。

 君は、誰と勝負しているのか。

 君にとっての、「勝ち組」とは、一体なんなのか?

 

 君が息災で生きていくことを願っているよ。

 じゃあ、また。

 

まだ見ぬ君の友人

 最上 雄基

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まだ見ぬ友人へ 神経症と精神分析学

 僕は、本来ならば神経症者になっていたはずの人間だ。

 地に落ちた自尊心、自分を嫌い、他人を嫌い、人を疑い信用しない。

 表面上の自分と内面にいる自分が乖離していて、存在しない自分のつもりで生きているナルシシスト。

 そんな風になっているはずの境遇で育ち、なぜかそうならなかった、並みより心理的に早く成長していく「新しい人格」とフロイト派精神分析学では言われている。

 「これまでのフロイト派精神分析学には存在するはずがなかった人格」

 ということだ。

 なぜ、今のようになっているのか、人間を信じ、自分を信じ生きているのか、その原因がわかれば神経症治療の発展に役立つだろうと期待されている。

 ここ半世紀はなんの発見もないほど神経症については研究されつくした精神分析学において久々の発見であり、日本には全く入ってきていないがアメリカでは盛んに研究されているという。

 僕は当の本人なわけだが、この説明だけで察するのが「理解力」というものだ。

 つまり、どういうことか。

 この説明を聞いて、自慢だとか思うようならば話をしても何の意味もない。まず会話する能力をきちんと身に着けた方がいい。

 会話や読解力は察する能力、想像力が必要だ。

 言葉を「自分が言ったかのように捉える」のでは、人間同士の会話にならない。

 今の説明で、どういうことなのか何か発想が生まれただろうか?

 人の話を聞いたら、つまりどういうことかを考える。

 言っていることは、そのまま言葉の通りではない。

 人間は何かを伝えるために「言語」というツールを使うだけだ。

 なぜ、神経症にならなかったのか。

 どうしたらそうなったのか。

 それを研究しているということは、どういうことなのか。

 半世紀も発見がないということは、どういうことなのか。

 「この人たちは、こうなんだ」という研究はされつくした。

 もはや外から見てこれという新しい特徴が見つからないというほど、研究されてきた。

 人間性心理において、神経症については100年程度であらかた発見すべきことは発見されつくした、ということだ。

 わかるだろうか?

 「まだ解決方法はない」ということだ。

 今、神経症について、それも名前でしかないが、今では人格障害とかあれこれ名前はついているが、これも枠組みが変わったり名前が変わったりしているので、事実そのものではない。

 名前は名前でしかない。

 仏教で言うところの、凡夫なのだろう。無明に覆われている。

 まだ解決方法はない。つまり、神経症研究についていくら知ったところで、なんの解決にもならないということだ。

 「どうして人を信じる人間になったのか」

 それについて、代理母がいたとか、とにかく「今までの研究は正しい」とした発想ばかり出てくるようだが、そうではない。

 僕は方法を知っている。

 自分でやったから。

 生まれ変わることはできる。

 生まれ変わるのだ。

 「自分をわかってくれる誰かがいれば」と思っている人が多いが、そうだろうか?

 そんなことはない。

 実際、褒めてくれる人、受け入れてくれる人、何度かはそのような人にも出会っただろう。

 構ってくれる人も、親切にしてくれる人も、話を聞いてくれる人もいただろう。

 だが、もし自分が愛されたところで詰まるところ自分が何も変わっていないのだから、話にならない。

 何かあればすぐに疑う。

 本当は自分のことを好きじゃないんだとか、他の人の方がいいに決まっているとか、とにかく今まで通りの「一人ぼっち」に戻る手立てしか考えない。

 自分が自分である限り、誰が現れようが関係なく地獄は続く。

 相手は相手で、自分の中で疑惑が生まれるたび、自分に安心してもらうために毎回毎回「証拠」を見せ続けなくてはならない。

 永遠に疑われる日々は終わらない。そんな関係になる。

 どこまで行っても、人を信じることはできない。それが神経症者だ。

 自分が正しい人であるということに固執し、時間が止まった考え方をしていて経緯も理解できない。

 自分だけが過去のある存在で、他人は過去なんてないとすら思っている。

 そんな人間に、誰がどうしようが、相手だって社会で生きている人間なのに幸せになどすることはできない。

 人間には不可能。

 脳内に思い描く「こんなことさえあれば」の内容は非現実的であり、自分自身さえ現実的に信じているわけではない。

 空想の中に生きながら、現実を直視することを避け続けているだけ。

 何かある度、依存している相手を罵倒でもすれば相手が動いてくれる。

 それでその時は心をなんとか宥めてもらい、また何かあると不安が募り爆発する。

 その状態で、誰が何をしたら幸せになれるだろうか。

 自分が付き合う友人も恋人も信用できない輩に、一体どんな幸せがやってくるのだろうか。

 これという特別な人間でもないのに、自分が特別期待した人間を評価までする始末だ。

 そのように完全に自分の存在も立場も勘違いしている人間に、期待している人などやってこない。

 自分の理想の未来が、「そんなことがあるなんて信じられない」という出来事なしに起きえない想像なのだから。

 そんなことが現実にあるなんて!

 なぜかわからない、今まで起きたこともない。まるで漫画の世界。

 そんなことは、起きない。

 起きえるはずがないことが起きないと、たどり着けない「未来の希望」など希望ではない。妄想だ。

 僕はそのような悪夢の人生を終わりにして、死して生まれ変わった。

 どうすればいいのか、はわかっている。

 だが、説明したことはない。部分的には言ったことはあるが、まず「やめなくてはならないこと」があるのだが、それを言ったことはない。

 ただ、どうしても僕自身が必要なので、別に僕でなくてもいいのだがとにかく今の僕のような状態になっている誰かが必要なので、僕は教室を開いて遊びのようなことを続けたり、とにかく「日常」の内容を生徒たちとよく過ごした。

 言いづらい理由は、ひとつしかない。

 加藤諦三先生が、理解をしていなかったからだ。

 神経症者であった彼が学んで理解した場合、そうなってもおかしくない理解をしていた。

 そしてそれは広まり、いつまで経ってもやたら本を読んで勉強し続け、しょうがない、しょうがないと嘆く人を量産した。

 悪化の一途だが、別に彼とて敢えてそうしたわけではない。

 彼自身が神経症者だったのだから。

 彼に「君はこうするといいと思うよ」と勧められた方法は、「そんなことをしたら、僕自身が人を嫌いになる」と思う内容だった。

 僕が決してやらないことを、彼は勧めた。

 なぜ?

 最初はわからなかった。何か深い理由がおありなのだろうと思った。だが違った。

 まずい、と思ったのは早かった。何かわからないが、段々と僕が体験しない「憎しみと恨みの世界」にハマっていくのがわかった。

 よくわからないが、ここにいてはダメだということだけはわかった。

 脱して良かった。

 本当に、世界は真っ二つと言ってもいいくらい、天国と地獄に分かれていた。

 そして神経症者はふざけている。嘆いているが、本気で人生を変えようとは思っていない。

 空想の中に生きているからだろう。

 このまま人生が終わりになるという当たり前のことを、考えてすらいない。

 葉隠。

 鍋島藩の藩士の心得を記したものだが、僕は読むにつけ納得しかない。

 武士の鏡、その通りと手を叩きたくなる。

 葉隠を読んでいて、そういえばかつての親友であり、最も尊敬する先輩は鍋島藩の藩士の末裔であったと思い出した。

 彼が「やはり下の者たちにはこうしなくては」と述べる考えは、僕も同意しかなかった。

 彼の作法を受け、武士としての態度で受け取ったのは僕一人だったが、大層可愛がっていただいた。

 精神は残るものだ。

 ひとつ、家柄について話そう。

 多くの人が「良い家柄」と言う時に思っている内容と、僕のように昔から続く家の人が思う内容は全く違う。

 「どこの家のモンや」という言葉をうちではよく使ったが、それは家柄に「経緯」も全てくっついてくるからなのだ。

 自己紹介いらずと言えばいいのか、とにかく名前が示すものはそれだけではないのだ。肩書や地位の話ではない。

 金持ちかどうか、今の社会での地位がどうかという話ではない。

 医者の家だろうが弁護士の家だろうが、政治家だろうが関係ないのだ。

 仕事は何をしていても関係ない。それは生業でしかない。たった今の家族の一人の生業など、家そのものとは関係ないのだ。

 それが僕たちの言う「家柄」なのだ。何を仕事にしているからと言って、バカにされるものでも崇拝されるものでもない。

 葉隠については、正にどこの家の者ともわからない人たちが読んでも理解できず、誤った解釈をしては批判までしているようなのでいい気はしない。

 元々そのような家について、また藩にお仕えするというか、戦国武士の習わしがわからない人たちには理解が難しいのだろう。

 どうしても部分部分でしかとらえないようだ。

 結論がここという風に出るものではない。

 いかにも「これってなに?」と人に聞いて答えをもらう人たちの理解だなとは思うが、大衆とはそんなものなのだろう。

 真剣に、生まれ変わる気があれば生まれ変わることはできる。

 愛された家の子のように。

 しかし、「今のままの自分で夢みたいなことが起きる日を待つ」のが神経症者だ。

 楽をして、今まで通りでいて、でも話だけ聞いた人、今パッとしてあげたことに喜んだ人が、自分の今後の人生を全てどうにかしてくれる。

 どういう思考でそうなるのか理解に苦しむが、そんなことが現実に起きると「夢みて」生きているのだ。

 あるわけない。そのまま死ぬ。

 いいことなんてあるわけない。

 その現実に絶望し、このまま死ぬならいいことなど何もなかったと絶望できるくらいならば、生まれ変わる可能性はある。

 何度か動画を撮っては、配信を躊躇っている。

 これを言ってもいいものか、ということもだが、言う意味があるのか。

 はっきりと実行すれば結果が出る方法を、僕は知っている。わかっている。実際にやって成功しているし、現実的に論理的に考えて出した結論であり、その通りにして当たり前の結果として望んだ未来を手に入れた。

 立場上、これを言ってもいいものか、あれだけ最初に教授の顔を立てねばと思って遠慮してきたのに、今更言ってもいいものか。

 そこで悩んでいる。

 僕はこれで良かったと思っている。自分自身が生まれ変わって、だ。

 あのままだったら、僕も今頃は挙動不審な人間を続けながら、何かあれば目立とう目立とうとして、人に期待して人を恨んで、勝てそうな勝負はすぐに食いつき、しかし更に上がいるとなるとすぐに諦めの繰り返しだっただろう。

 何より、人を妬んで恨んで、どうしようもない人間だっただろう。

 こんなことが起きるなんて…と初めての体験に驚愕した。

 感動とか、驚きとか、そんな言葉では言い尽くせない。

 生まれ変わるとは、こういうことだったのだと、釈尊の教えに表す言葉もなく、完全なる信頼を寄せたものだ。

 信じようという強い意思から、間違いないという確信に変わった時だ。

 以来、疑ったことなど一度もない。

 神経症の人は、その実困ってはいない。

 例えば、その方法を聞いてから「ふーん」と考えて、自分に都合が良さそうならやってみようかなと思うくらいの果てしない傲慢さがある。

 全く切羽詰まっていない。

 困っていないからではなく、自分が状況を把握できていないからだ。

 今困っているならば、もう手遅れだ。

 それがわからないからだ。

 困った時に助けを呼んでも、幸せになるという意味においては既に手遅れ。

 今いる地獄に気づき、この地獄から進める未来に向かって少しずつ進まなくてはならない。

 這ってでも進むという、強い信念や覚悟がない。

 根拠ない「奇跡」がやってくることを期待して、夢みている。

 一生夢みて死んで行くしかない。

 夢を見ているから、「覚醒していない」のだから。

 これは現実だ。これが本物だ。一度限りだ。

 気分にだけ浸っても、現実に体験することはできない。

 本物だから。

 本物でなくては、それが現実になる日は来ない。

 今ここだけでパッと人に「思わせる」など、ただ人をその場だけ騙したに過ぎない。

 なんて楽観的な人生だろうか。

 そんなことをしたら未来はズタボロに決まっているのに、そんなことすら考えない。

 「50歳にもなった人が、心理的に幼児だったなんてことは認められないんだよ。」

 加藤諦三先生に言われた言葉だ。

 「長い目で見れば、その方が損だと思います。」

 僕が意見すると、こう返された。

 「長い目で見られないから、神経症なんだよ。」

 このようなやり取りに、何か違和感があった。

 ずっと、ずっと何か違和感があった。

 そうだったのだ。

 神経症の人たちには「存在すらわかっていない、計算に入れていないもの」があるのだ。

 だから違和感があったのだ。

 朝があり夜があるのに、夜のことしか考えていないような。

 まだ見ぬ友人はいるだろうか?

 これを読んでいる中に。

 今までの自分が全く思いもよらないような、そんなことがあり得るのかと思えるような未来に、本当に「生まれ変わる」気がある人はいるだろうか。

 僕はそれを体験し、可能だと知っている。

 生まれ変わるという意味もわかっている。

 そして、それが「いるはずがなかった人格」とされていることも知っている。

 いるはずがなくて、まだ日本にも入ってきていなくて、世界中で研究している人たちもいるがまだ特徴を観察しているに過ぎない状態だ。

 「こんな特徴がある」とまとめている程度だ。

 なぜかはわかっていない。

 どこを探しても、確認することはできない。

 しかし、もし「君自身が考えて理解しようとするならば」説明して理解することはできるだろう。

 なぜならば、道理の通った理論に基づき、現実的に考えて可能なことしかないからだ。

 まだ見ぬ友人よ。

 君はどこかで「自分はこんな人間として生まれたからしょうがない」という前提で生きていないだろうか?

 そしてそれでいいのか?

 しょうがないかどうかはどうでもいい。

 それで君はいいのか。

 そのまま人生を終えていいのか。

 僕はそこが知りたいのだ。

 今の自分のまま、夢みたいなことを期待して、心の底から信じてもいない願望を抱いて希望があるふりをして生きていくだけでいいのか。

 君は、今いる自分が「生まれたかった人間」なのか。

 他人さえ、いい人になってくれればその自分でいいのか。

 その自分が今のままでも素晴らしい人たちに囲まれているだけで満足なのか。

 自分一人を変えるより、周りの全員を変える努力をして生きていくのか。

 生まれ変わることはできる。

 できるんだよ。

幸せになる、ということ ~まだ見ぬ友人へ~

まだ見ぬ友人へ

 今回は、まだ見ぬ友人へ、幸せになれない独りよがりな人の勘違いと、幸せになるということについて教えよう。

 独りよがりな人は、最初からありもしないストーリーの中に生きていて、他人をその世界に引きずり込んでいこうとする。

 だが実際には、他人を自分の記憶の継続の世界に連れていくなどできるわけがない。

 彼らが理解できていないのは、「他人にも過去がある」ということだ。

 自分が理想の人になりきろうがどうしようが、他人には過去がある。

 自分と出会う前から、すべての人に過去がある。

 辛いことも楽しいことも、自分が知らないことが沢山ある。

 如何に自分の話を親身になって聞いてくれる相手がいても、その過去が消えることはない。

 そして、「他人も常に犠牲を払って何かをする」ということだ。

 恩着せがましい人は、自分の払う犠牲しか考えない。

 「他人の払った犠牲は無視する」

 病んでいる人はそのようなことを平気でやる。

 今目の前でいいことをしたとか、傷付いたとか、怒ったとかそんなことしかわからない。

 だから「見えないもの」は「ない」という扱いになる。

 「見えないもの」=「自分が他人に見せていないもの」でしかない。

 それがこの世に一人しかいないつもりで生きている人だ。

 最近色々あって、僕もふと過去のことを思い出した。

 僕はよく時間外に及んで働くが、かつて人の話を長く聞くためにそのあとに会うはずだった人との約束の時間を一時間半も遅れてしまったことがあった。

 僕も生きているわけだから、誰かと出会う前からすべての時間にやることがある。

 その時は、そこまで長くなるとは思わなかった。

 ただ、僕はその時そうした方がいいと思っただけだった。

 相手は随分待っていてくれたようだが、結局帰ってしまった。

 後から埋め合わせをして理由も説明して謝った。

 「雄基らしいよ」

 と言われたが、その人とはそれ以降疎遠になった。

 過去に恋愛関係のある女だったが、元々その人も僕が親切にしてきたという理由で自分一人の世界に引きずり込んでいこうとしていた人だった。

 その人にはもうできることはしていた。同じことの繰り返しになっていた。

 その人のストーリーでは、「私」は僕の人生にいきなり登場してきた特別な人のはずだった。

 だが実際には、出会った時から「すごい女がいるな」と驚くほど独りよがりな人だった。

 出会いの時から、完全に現実がズレている。

 だからどう継続しても、僕を黙らせて続きを一人でやり続けても、本人が思い描くストーリーになる日は来ない。

 そしてそんな人が沢山いると知った。

 大人なのに、出会った他人の過去も考えず、更に話を聞いてくれたら「私のストーリーに出てきた人」として続きを一緒に生きる人がいると思えている。

 大変なことだと思った。

 僕は単純に「頭が悪い」とも思った。そんなことあるわけないのに、それがわからない人達がいたのだ。

 僕はわかるから、そう思えた。そんなの当たり前だ。

 黙って聞いていてくれる人がいても、他人の過去もなくならないが自分といない他の時間だってある。

 自分が他人のことを考えなければ、他人の時間が消えるわけではない。単に独りよがりな世界にのめりこんでいくだけだ。

 特に「時間」について、独りよがりな人は何も考えていない。

 自分と一緒にいなかったら、他人は別の人と会った。他のことをやっていた。

 人間は誰もに願望がある。欲もある。過去もある。やりたいことがある。

 だから自分がいなければ、他人は他人で自分が欲しい物、目指す物のために時間を使う。

 他人の命は他人のものなのだから、それがただ寝て過ごすだけでも本人の自由だ。

 命を自分のために使っていることが、他人の存在を許さない人にはわからないのだ。

 それがわからなくて、何をしてもらっても感謝なんてできないだろう。

 自分の独りよがりに付き合ってもらうならば、他人は代わりに何かを諦めなくてはならない。

 生きている人間を相手にする限り、他人はそうするしかない。

 本物の幼児はわがままで独りよがりだが、あれは脳が発達できていないから他人のことが想像できないのでしょうがないのだ。

 その代わり幼児は親の庇護のもとに生きているから、親に命令して言うことを聞かせたりはできない。だからなんとかなるのだ。

 もし、親より支配力がある幼児がいたら、親の人生は地獄になるだろう。

 幼児に言うことを聞かされながら、自分のことしか考えない子供のために破綻していくしかない。

 親もわからない幼児は、最初の親を使い捨てにして、次の親を探しにいくだろう。

 もし、中身が幼児のまま大人になり、支配力を身に着けたらそうなるだろう。

 しかし彼らは幸せになることはない。

 満足などするわけがない。

 実際には自分自身が発達することで「他人は自分のために犠牲を払い続けていたのだ」と気付くから、自分の望みが叶わなくてもあきらめて次に行くようになるのだ。

 ところが、退行に向かう人は自分が発達する方ではなく、我儘を叶えることに向かって進んでいる。

 その我儘を叶えて幸せになった人はいない。

 「叶うわけがないのだ」と本人が気づいて終わるのだ。

 だが、今まで散々他人に付き合ってもらえた人の方が、より我儘になっていて他人のことなど考えない人間になっている。

 欲を満たし過ぎたのだ。他人を犠牲にして行き過ぎた。

 僕はそのような構図を知って思った。

 「餓鬼になってしまったのだな」

 君は幸せになる方法を知っているか。

 「諦める」

 これが幸せになる方法だ。

 僕は早々に親を諦めた。キリがないからだ。他人を妬んでいたらきりがない。

 いつまでもいつまでも過去のことで恨んでいたら、流石に親も「こんな子じゃなければよかった」と思いたくなるだろう。

 僕は小学校二年生の頃に、母に一度だけ遊んでもらったことがある。

 ほんの少しの、五分とか十分とか、その程度だが、「あそんで」と言うとやってきて、その時僕が遊んでいたおもちゃでちょっとだけ一緒に遊んでくれた。

 それが僕が一度だけ母に遊んでもらった記憶だ。

 抱っこされていた記憶や、どこかの公園で遊んでもらったような、体験はない。

 だが、いつまでも甘えていてもキリがない。もうそんな年でもない。

 どんどん僕自身が大人に近づいていくのだから、今こんなことをしていたら幼稚園児みたいなことを言う大人になってしまう。

 だから諦めた。

 何もなかったわけではない。一度はあった。

 もっともっとといつまでも欲しがっていれば、強欲な餓鬼になっていく。

 地獄に落ちる。

 僕は「幼い頃に母に優しくしてもらいたかった」のだ。勿論、その当時も優しくはしてほしかったが、それは今の話だ。

 諦めた。

 諦めることで道は開ける。

 全て叶うなんてことはない。夢の国ではない。母も全て叶えてもらってきたわけではない。

 もう人生は始まったのだから、いつまでも駄々をこねてもしょうがない。そうなものはそうなのだから。

 そうして諦めて、次に向かって行けるのだ。

 叶いもしないものを諦めれば、新しい目的もできる。

 当たり前のことをして生きていれば、新しい道が開ける。

 諦めることでしか次にはいけない。

 愛情の欲求は五割で満たされて次の成長段階に行くことができる、とマズローは言う。

 しかし、どう考えてもその五割は満たされているはずなのに次に行けない人たちがいるのは、脳が発達の方に向かないからなのだろう。

 欲が強くなるだけで、そこまでしてくれる人は他にいないというほどしてくれる人がいても、その人を恨む。
 そんな人は、どんな親にあたろうがいつまでも駄々をこねているだろう。

 完全に、自分の存在を勘違いして生きている。

 恐ろしいほどに、脳が発達しなかったのだ。

 こうして述べている「発達しなかった」をマイナスの意味にとらえて、ただ単語に怒り意味もわかっていないのに人に文句を言う。
 そのくらい、未発達なのだ。

 その姿に憐れを感じても、対等に怒りなどわかない。

 自分では当たり前だと思っている、考えもせずにわかることが、これだけ生きていてわからない人がいる。そういうことなのだ。

 思うより自分が恵まれていたと知るのは、「自分以下」の存在を見た時だ。

 自分より強欲な存在を見た時、自分など大したことはないと知る。

 自分は叶わず諦めた何かを諦められない人がいる。

 「僕は諦めた」と過去の話をして教え諭しても、諦めたから誰にもどうにかしてもらえなかった僕に対して、自分は望みを叶えてもらおうとする。

 何もかも、滅茶苦茶なのだ。頭の中で何も整理できない。

 時間や世界を順序だてて脳内に構成できないのだ。

 見た目には普通に見える。行動も調教された部分はきちんとできる。

 だが、教わった行動を繰り返しているだけで「自分のことを話した誰かが夢を叶えてくれる」と思っているから、突然動物のようにヒステリーを起こす。

 ヒステリーとして一般に認識されていないのは「泣く」という行為だ。

 共に悲しいことがあって抱き合って泣くわけではない。

 独りよがりな世界で、思い出に浸りながら周りの状況も考えずに泣く。これもヒステリーのひとつだ。
 感情的になるときの表現が、攻撃的ではないだけだ。

 だが、その様子を見た相手を感情で動かそうとしているので、やっていることは同じなのだ。

 怒鳴り散らしてばかりの男と泣いて嘆いてばかりの女が夫婦になっていたら、大抵の人が泣いてばかりの方が被害者だと思うだろう。
 しかし、その女は相手の男と離婚して別の人と一緒になっても、どこにいっても結局泣いて感情を動かそうとする幼稚な人なのだ。

 表面上は正反対だが、他人を感情によって動かそうとしているところが全く同じ、似た者同士の夫婦なのだ。

 だから、「泣く女」は本物の悲しみを知らない。

 独りよがりで泣いて、それを見せて相手が動かされるのを期待する。

 親身になった人の心を傷つけ、裏切る。

 優しさを吸い上げて食っている鬼だ。

 大抵の場合、特に我慢して恨みをため込む人が多い世界になると、この「子泣き爺」のタイプは可哀想な被害者として扱われる。

 どちらにせよ、世は常に鬼の天下になっている。

 僕はそのような世界を行かない。

 同じ一度きりの人生で、命を分け合って時間を共にする。

 僕はその体験に感謝できる。

 僕は最初に普通になることを諦めた。

 友人たちもノイローゼになり、病院に通うようになり、そして出てこなくなった。

 どうしたら彼らが治るのか。いつ元気になるのか。そんなものを待っても無駄だと知った。

 治す気はないから。

 そこまでしなくても、社会的には問題ない。

 だから僕は普通ではない方法を使うことにした。

 要は、僕との接点で相手が「意欲」を出せばいいのだ。

 いきなり完璧なゴールを目指す人がいるが、完璧なゴールは死しかない。

 それが人の生きる道のゴールだ。

 例えば、死のうとしていた人がいたら、結果何かやる気になればいい。

 自分にも何かできるという気になって、行動するようになればいい。

 長い流れの中の接点でしか他人とは関われない。

 流れを別の方に向けられればそれでいい。

 似たようなことを、テーラワーダ仏教の長老も言っている。

 ヒステリーで子供をいじめている母親に対して、その場にいたらその場で笑いに変えてその場を過ごす程度のことしかできないのだと。

 人間は自分の人生の時間軸にしかいられない。だから他人の人生に対しては、少し流れを変えたり、その場で起きたことを違う方に流してやる程度のことしかできない。

 本人の人生は本人しか生きないから、誰にもその道をなんとかすることはできない。

 君も誤解していることだろう。

 諦めることは絶望だと思っているだろう。

 だがそれは間違いだ。確かに、そう思えるだろう。僕もそう思っていた。

 諦めたら何もかもが無くなると思っていた。

 だが、希望は無くならなかった。

 否、元々希望なんてなかった。

 僕にあるのは欲だけだった。

 僕一人の世界ならばそれは希望だが、この世界はみんなの生きる世界だ。

 他人がいるならば、それは希望ではなく欲なのだ。

 「自分が幸せになった時に、他人が同じように幸せになれるのか」

 それを全く考えない、独りよがりな幸せを目指して「希望」を捨てなかった。

 最後には希望は「いつか誰かがわかってくれて」なんてどうしようもない妄想になった。

 それらの欲を諦めた。

 「他人のことを考えない人間に、幸せなど来ない」

 それは当たり前のことだ。

 母を諦め、しがみついていた友達にしがみつくのをやめた。

 卑屈になる人は、「あの人を自由にする」と言ったらただ相手から離れて見捨てるだけになる。

 僕はそのように卑屈にもならなかった。

 「仲良くしたいのに」と思っていたのが嘘になるからだ。

 僕は本当に友達と仲良くなりたかった。支配したかったわけではない。

 やろうとしていたことは確かに支配だった。だがそれは僕が今やりたいことではなく、過去に叶えたかったことだとわかった。

 母を諦めたら、それは必要なくなった。

 だから、今度こそ「自分からきちんと仲良くなるために声をかける」という姿勢になって、相手のことを考え、普通の友達になったのだ。

 普通の友達になれば、本物の友達として少しずつ仲良くなっていける。簡単なことだった。

 「普通じゃないスタート」を切って「普通じゃない関係」を目指す。

 その「普通じゃない」は、自分の願望でしかない。他の人にしてみれば「普通ならやらないことをやらされる」にしかならない。

 自分のトラウマ話を延々と聞いてくれる関係は、友達ではない。この世にそんな存在はいない。

 病院にいる医師も、カウンセラーも、あれはただの仕事だ。金をもらうからやっているのだ。

 生業なのだから、彼らは私生活では全く違う。

 自分たちも嫌なことがあって人の悪口も言う。人をバカにもする。それぞれの人格もまたどんな親の子でどう育って、そして本人がどう生きたかで違う。

 「性格のいい人」は、学校にいた時より減っている。増えてはいない。

 大人になるほど、数は少なくなる。

 機械的に仕事をしても責められることではない。社会的に。

 後は、本人が何をするために生きているかだ。

 僕も自分の人生において、まだ願望を持っていることを諦めた。

 ないのは「時間」だった。

 時間。

 今使ったものを返してもらうことはできない。

 今使う目的を他人の未来のために変更するのだから、その人がこれからその時間を無駄にしない人生を送ってくれるのが一番だ。

 誰もやらないことをやらなくてはダメだと僕は思った。

 とても苦しんで悩んでいる時期もあったが、その頃考えに考えて、僕自身の欲があるから苦しむのだと思った。

 例えば、僕はまたいつか、過去に体験したように誰かと出会い愛し合うようなことがあればいいなと思っていた。

 それを諦めたのは大きかった。だからかつての恋人には多大な感謝をするようになった。

 彼女がいなかったら、僕は「生涯諦める」という決断はできなかった。

 そもそも独りよがりな人と一緒になれる人はこの世にいない。

 始まりから一人の世界なのだから、誰もついていけない。

 ただ、優しい人たち、自分と仲良くなろうとした人たちや、自分の幸せを願った人たちが自分に付き合ってくれるだけだ。

 幼児期に叶う時も、そうなのだから。

 既に夢はかなっている。他人が親代わりになって、夢を叶えてくれていた。

 その夢は、子供が成長して気づく時に消えるのだ。

 「自分は十分愛されていた」と気付くのだ。

 しかし欲まみれになった人は、そうはならない。他人が犠牲を払ってくれていたことより、自分は苦労をしたくない、という方が優先されている。

 誰とも苦を分かち合えない。自分の苦労を人に押し付けることしか考えない。

 もう、誰とも仲間になれないのだ。

 「この人たちは友情すら知らないまま生きているのか」と驚いた。

 僕にとってはなんでもないことだった。そんなものは当たり前だと思っていた。

 ならば、僕以外の、他に仲良しグループを作っていた彼らは一体何をしていたのか。

 それは僕にはわからない。

 だが、彼らは確実に友情も知らなかった。

 それは人間関係の始まりなのに、それを知らないまま「母親のような他人」を「作ろう」としていた。

 実際にはそんな他人を「つくる」ことはできない。だから子供が一番被害に遭うのだともわかった。

 僕が普通の人と同じように生きようとしたら、普通のことしかできなくなる。

 だから僕は諦めた。

 完璧なものが手に入るまで、いつまでも「いつかは」なんて願望を持っていたらきりがない。

 だから諦めるのだ。かつて母を諦めたように。一時はその体験があったのだから。

 「いつまでもずっと一緒にいて」は不可能だ。

 人はいつか死ぬ。

 死に際に持って行けるのは思い出くらいだ。

 「愛し合った体験があった」

 それだけで、元々愛されもしないのに生きてきた僕にとっては大変な幸運だ。

 愛しただけでもなく、愛されただけでもなく、僕は「愛し合った」経験があるのだから。

 その思い出だけで俺は死ぬまで生きていける。

 そう覚悟できる思い出があったことに感謝している。

 僕が欲を捨てなくては、他人を助けることはできない。

 人のために何かするならば、まず自分は真っ先に欲を捨てなくてはならない。

 見返り要求のある親切は、他人から奪う行為だ。

 奪う行為を隠すために、最初の親切があるのだから。

 奪うことばかり考えている人は、結局奪わせてくれないとなると嘆く。

 憐れなことだ。

 僕は自分が次々諦めることで、自分の時間をより人のために使えるようになった。

 一度本当に自分に関心を持ってくれる人と愛し合えば、もう欲で釣るような人に「ときめく」なんてこともない。

 本物の感覚は、表面で妄想して生まれているわけではない。

 これは、体験しないとわからない。

 親を諦めないうちは、本当にわからない。

 「こんな感覚があったなんて!」と驚愕したのを覚えている。子供の頃の話だ。

 本当の喜びを知った。楽しいという感覚、嬉しいという感覚。

 心の中から強くわいてくる感情を知った。

 欲を捨てて勇気を出さなくては、生涯知ることができない感覚だ。

 その「気持ちよさ」を知っている人は、体感しているから本当に楽しそうなのだ。

 僕も、諦めることを不幸に感じたこともある。

 だが、母が死に、祖母が死に、子供の頃に恐れていた苦労だけが残った。

 最初から、楽な運命など背負っていない。

 最初から、愛などない家庭に生まれた。

 今更、「これからは」なんて根拠もない願望を諦めてなんの不幸が起きるだろうか。

 何も起きていない。

 そして、僕は今はもっと幸せになった。

 「こんな人たちがこの世に存在していたのか」と知って絶望したころより、もっとずっと穏やかな気持ちになった。

 以前より体裁など気にせず、もっとずっと先のことを考えて人のために動くようになった。

 自分自身は生きてさえいければいい、と思えるようになった。

 僕は何も持っていないが、多くの人が持っていない「思い出」がある。

 思い出すだけで幸福になれる、仲間たちとの思い出が。

 落ち込む時は、自分で努力して自分を励ます。

 寂しい時も、思い出の中から愛する人がやってくる。

 本当に何もないが、外に出て、風がそよぐ中で歩いただけで、幸せを感じる。

 何もなくても幸福を感じる。

 その境地こそ、僕のように「何も他人と同じように手に入らない人間」がたどり着くべき幸福だ。

 何もかも諦めたから、今あるものに幸せを感じるのだ。

 人から奪うつもりで生きる人は、人の欲を増大させようとする。まず欲で釣らなくてはならないから。

 そのような「釣り」にも釣られなくなる。

 欲が強いと、目先のものに目が眩む。

 そこしか見なくなる。だがそれでは、人を導く親にもなれないだろう。

 見返りを求めている人間は、目が違う。

 欲がある人間は相手が差し出した何かに釘付けになって、相手を見ていない。

 そして騙される。

 無理やりにでも望みを叶えようとする人たちに、何度も出会った。

 その人たちに出会うたびに、幸せになるために僕は自分自身の望みを捨てた。

 自分の願望を諦めなくては、他人のままごとにも付き合っていけない。

 相手を恨むことにしかならない。

 だから諦める。

 最初から、何も持っていなかった。

 何も持たずに生まれてきたのだから。

 すると、それを「不幸だ」と信じている人が、諦めなくてもいいのだと「励まそう」としてくることがある。

 それは、自分が幸せを知らないから思うのだ。

 今の僕でも、死ぬときに欲まみれの人より遥かに楽だろう。

 「これから」という命が消える時、「今まで」の思い出しか持ち物がないという瞬間が来る。

 僕はその時に備え、その時に向かって生きているのだ。

 これから何があっても、どんなに辛くても、思い出が消えることはない。

 心なんて綺麗にしていても意味はない、と殆どの人が思っている。

 なんの得にもならないと。

 しかし、自分以外に心が綺麗な人に出会った時に、その人と心を通わせる相手になれる。

 そこで、心が綺麗な人同士が出会わないと起きないことが起きる。

 その時に体験する日々は、一生の財産になる。

 「人に知ってもらって自慢できなかったら意味がない」

 そんな感覚の人がいるが、思い出なんて自分からいくら話したところで、同じように記憶できるわけではない。

 一人で喜んでいるだけで、実際には共に体験した人の中にしかない。それが思い出だ。

 話だけ聞いた相手なんて、どうでもいいのだ。

 そこで羨ましがられようが、賛辞されようが、他人は話を聞きながら思いついたことを言っているに過ぎない。

 僕には、仲間がいる。

 もしもう一度出会ったら、「あの時」を共に思い出し、感情を共有できる相手がいる。

 僕が他人の思い出の中に入っていけないように、誰も僕の思い出の世界には入ってこられない。

 だから、その思い出が消えることはない。

 思い出が宝になっている人もいれば、恨みの種になっている人もいる。

 欲を出した人は、思い出が宝になる日は来ない。

 そこで下心さえなければ、良い体験が良い思い出のまま、宝になった、そんなことが沢山あっただろう。

 自ら幸福を放棄しているのだ。

 いつか世界を、他人を支配して一人で勝ち誇るために。

 今は、いつか思い出になる。

 その思い出が宝になるように生きるかどうかは、自分次第だ。

 「これからいいことがあるに違いない」と他人の未来の行動に期待して、がっかりする。

 そんなことばかりくり返している人は、自分はなんのために生きているのだろうな。

 憐れなことだ。

 本当に、憐れなことだ。

 僕は今日も、今日を生きる。

 君も今日、今日をいきたまえよ。

 では、いつか君にも今生で出会えることを願っている。

まだ見ぬ君の友人

最上 雄基

真実の愛、無償の愛 ~まだ見ぬ君への手紙~

まだ見ぬ友人へ

 38度以上の熱を出しながら、冬のソナタを観ていた。

 そんな最中に書いていると踏まえて、何かあっても少々多めに見てくれ。

 ああ、これ昔面白いドラマだと思ったんだよな、と思って見始めたが、昔とは違うことを思う。

 僕が、変わったのだ。自分自身が経験を積んで変化すると、物の見方は変わる。

 僕はこのドラマをはじめて観たころ、まだ愛するということを知らなかった。

 「無償の愛」とはたどり着くのに時間がかかる、成長の果ての感情だ。

 ドラマは男女の四角関係の恋愛ドラマなのだが、それぞれが違う「好き」で動いている。

 少女漫画の意地悪キャラのような、チェリン。

 彼女は「物のように」人を欲しがっている。ライバルのヒロインを陥れようとするし、意地悪な態度もとる。
 愛する人であるはずの相手を騙す。
 しかし、本人は「それもこれも、彼を奪われたくない一心で」と自分を美化している。

 幼馴染のサンヒョクは、優しい優等生でいつもヒロインを気遣ってくれる。
 しかしその優しさの裏で我慢を重ねるから、そのうち恨みがましいことを言いだす。

 とにかく、ヒロインがよく責められる。

 そしてよく泣く。

 ヒロイン役のチェ・ジゥは、当時「涙の女王」と称された。

 意地悪で高飛車な女、チェリンは真っ先に小細工していたことがバレてフラれてしまうのだが、四人に共通している点は「好きな人をいじめはしない」というところだろう。

 心理的なと言い出せば、チェリンは愛する人であるはずのミニョンさんを人として尊重していない。これはまるっきり執着で、「この人が欲しい」という気持ちだ。
 本人が幼いのだ。

 サンヒョクもヒロインにフラれるとなると途中死に体になるが、それでも紆余曲折を経て彼らは成長していく。

 この人はいい人、この人は成長していない人、という時間が止まった認識をしてはいけない。

 ここが、このドラマのいいところだと思った。

 それぞれが、互いに傷つけあったり思いやったりしながら、少しずつ成長していく。

 「愛してなくてもいいから一緒にいてくれ」と言っていたサンヒョクも、結婚を目前にしながら本当に愛する人の元に行かせるためヒロインを諦める。

 延々と周りに流されて優柔不断だったヒロインのユジンは、愛する人が事故に遭い命の危険に晒されたことで覚悟を決める。

 今まで黙って泣いてばかりだったヒロインが、意思をはっきり持って、周りに止められても自分の本心で行動するようになる。

 一番諦めが悪いのはチェリンで、やはり考え方が幼い。だが、元の動機が他のキャラ達とは違うのでそれも致し方ない。

 「この人をとられたくない!」という気持ちなのだ。

 運命で結ばれる、とはこういうことだろう、と思えるドラマだ。

 当時、多くの人がこのドラマに夢中になったのもわかる。

 意地悪役のチェリンでさえ、実際にいる恋人の陰口を叩いたり噂話をしたりしながら、馬鹿にして付き合っている女とは違う。
 彼女の美点は、「好きな人に本当に夢中」であることだ。
 彼を手に入れたい一心で、彼をバカにしているわけではない。

 執着心の強い初恋という感じだ。

 少しずつ、話は展開していく。

 それぞれが、悩んだり苦しんだり傷ついたりしながらも、謝ったり許したりしながら少しずつ進んでいく。

 この、謝ったり、許したり、が現実の関係にも必要なのだ。

 自分の願望の世界に生きる人は、部分的にうまくいっていることをやれば、それ以外の部分は「あれは本当に思ったわけじゃないから」などと誤魔化してなかったことにできると思っている。

 なかったことになる部分、なんてない。

 このドラマの通り、起きたことは全部起きたことだ。

 全てが「その人の動機」から起きているのだから、消えていい部分はひとつもない。

 ひとつでも消えたら、その人が消えてしまう。

 その人の精神があり、すべてが起きているのだから。

 うまくいっている、うまくいっている、を繰り返し続けたら「成功」なわけではない。

 起きたものは起きた。消すことはできない。事実をもみ消したいのは、人を好きになったわけではないからだ。理想の展開を体験して一人でよがりたいからだ。

 起きた現実を受け入れずに進むドラマはない。

 現実を無視して恋人をいじめているような人間は、このドラマの意地悪役チェリンの足元にも及ばない。
 チェリンは執着心は強いが、ストレートに怒るし、泣く。そして謝る。

 だからこそ、フラれて泣きじゃくる姿に同情もしたくなる。

 素直さは大事なのだ。

 周りを自分の道具にしてしまう人は、現実に起きていることを無視する。時間を止める。

 だからドラマのわき役にもなれないのだ。

 このドラマに居場所がある人は、それなりの人だろう。

 今、このドラマを観て、僕のように昔とは違う感想を持つ人も多いかもしれない。

 時間が随分経ったから。

 たとえ、愛されることがなくても、あの人が元気で生きていてくれればそれでいい。

 ヒロインの愛の力が目覚めてから言うセリフだ。

 当時はわからなかったが、今回はこのシーンを観て、この瞬間にヒロインの愛する力は覚醒した、と思った。

 無償の愛の力だ。

 それぞれが、自分の執着を捨て、愛する人の幸せを願い苦しみを受け入れる。

 そこに愛の力がある。

 自分の我を通して、愛する人を苦しめたくないと思うのだ。

 自分が嬉しくても、相手の笑顔が無くなったら意味がないのだ。

 自分のことしか考えない人ならば、自分を愛せという圧力をかけるために言うのだろう。

 「愛してたら相手の幸せだけ考えるよねえ」と。

 支配だ。これは愛でも恋でもない。

 少なくとも、このドラマに出てくる四人は全員恋をしている。

 僕も今では愛を知っている。

 たとえ自分が何かをしていると相手が気づくことがなくても、見えないところに僕がいたと相手が一生気づくことがなくても、それでも相手のために何かできるならばそれでいい。

 あの人が、元気でいてくれて、笑顔であってくれればそれでいい。

 自分が愛されることがなくても、二度と会うことがなくとも、それでも構わない。

 無償の愛とは、そういう気持ちだ。

 それまでの恋愛で体験したどれとも違う、初めて知る感覚を僕は知った。

 本当に、無償なのだ。見返りなどひとつもない。

 それでも構わないのだ。

 他人を操作するために心を閉ざして生きる人は、心の中に誰の居場所も作らない。

 だから常に孤独なのだ。

 目に見える形で安心できないと、常に不安なのだ。

 「愛とは形」

 それが、誰にも心を開かない人だ。形ある証拠を見せられないと、それが一般的に誰が見ても「良いこと」でないと、信用もできないのだ。

 自分に愛がないから。

 かつて、愛する人に説教されたことがある。

 小言と言ってもいいのかもしれない。

 その様子を見て、こんなにも愛してくれる人がいるなんて、と僕は感動した。

 彼女の愛を感じた。

 「僕は頑張ってるのに、批難した!」などと思わない。思うやつもいるだろう。

 その時点で、僕に愛を受け取る力がなかったら、「僕のことをわかってくれない」と彼女を恨んだかもしれない。

 真実の愛は、消えることはない。

 心の中に残る。

 いつまでも、思い出として残る。

 その思い出に支えられて生きていける。

 愛はなんの問題もなく、傷付くこともなく、育っていくことはない。

 苦しみの果てにある感情だ。

 僕も散々言い合いをした。

 だが、結局はお互いに好きだから、最後には仲直りできる。

 相手を苦しめたくないという気持ちが互いにあるから。

 自分だけの欲望を満たそうと互いに思っていないから。

 「この人が好き」なのだ。

 だから、言動を制限するようなことはしない。

 おままごとがしたい人は、先に話し合いをする。

 既に恋人同士になっていても、男が女がと何が正しいのか決めようとする。

 普通はどうだとか、私の友達はみんなどうだとか。

 「女っていうのはね」と教育しようとする。そして理解して望むことをやろうとしてくれるのが、「好きになってくれた人」だと思っている。

 自分を嫌いになれないように、「なぜこうなっているのか」の経緯を、つまり過去を、私語りで全部教えようとする。

 それをやれば、恋愛感情そのものが消えていく。異性としての意識がなくなる。

 それがわかっていない。

 なぜそうなのか、と後から理由を説明されたら魅力を感じるわけではない。

 あまり知りすぎると、興味や関心がなくなる。

 「情報で人を選ぶ人」はよくそれをやるが、それは「情報で品物のように選んでほしいから」でしかない。

 自分自身がそうしているからだ。

 本当に誰かを好きになるとは、そうした打算的な気持ちではないのだ。

 寧ろ、得することなんてない関係。

 それでも、ただその人といたいのだ。


 どこか素晴らしい場所にデートをしなくても、豪華なプレゼントがなくても、全く関係ない。

 ただ、その人の何かに対する反応や、感想や、考え方や、表情や、今あるその人の何もかもが、好きなのだ。

 別れる時は、身を斬られるような痛みと共に、内面にある半身を失わなくてはならない。

 体に風穴が空いたような感覚になる。

 それでも、愛は消えない。

 思い出も、愛も、消えることはない。

 何よりも、愛し合うことによって成長した自分自身に誇りを持って生きていける。

 この自分自身が、なぜ今の自分になれたのか。

 それを考えれば、必ずそこに愛し合った人がいる。

 本当に愛し合う時、相手も自分も自然体で付き合っている。

 だからそのあとに、もし自分を罵倒して貶めてくる女に出会っても、今の自分を守っていける。

 「あの人が愛した自分」であるからだ。

 今ここで自分を罵倒する女に気に入られなくても生きてはいけるが、もし目の前の女に気に入られるために自分を曲げてしまい、愛する人が自分を見限るならば生きていけない。

 自分を傷つけないように、自分の未来を考えて、本当に大事にしてくれた人がいる。

 反対に、自分を傷つけ、貶め、利用しようとしてくる人がいる。

 表裏一体なのだ。

 僕を罵倒していた女が他ではどうであっても、少なくとも僕の中では、受け入れてくれた人と、苦しめてきた人だ。

 本当に愛する能力がある人は、何かをしても恩着せがましくしない。

 自分自身が自分の意思で、覚悟を決めて生きているから。

 気高い精神があるのだ。

 自分が何かをしてうまくいかないことがあっても、それで相手を罵ることはない。

 そこには愛があるから。

 うまくいかないと後から文句を言う人は、相手を操作するために我慢していただけだ。

 それまでの優しさが表面上だけだったと発覚するのは、上手くいかなかった時だ。

 本当に好きであったならば、上手くいかない時こそ次の段階にいくべきチャンスなのだ。

 喧嘩になるならば、その時に素直になってより心を通わせることができるのだ。

 
 期間でいえば、短い時間だった。

 それでも、時間は問題ではない。

 そこで僕は本物の愛を知った。

 愛する能力は一人で育てることはできない。必ず相手がいて育っていくものだ。

 望んだ展開にならないなら、いいや、と諦められるならば、本物ではない。

 博打をしているわけではない。

 愛は常に能動的なものだ。

 他人と比較して、手に入りそうなら愛するなんてことはない。

 実際には、「うまくいきそうな相手を選ぼう」とする人も多い。

 だが、「うまくいった相手」が好きではないならば、愛としての意味はない。

 形の上でうまくいっても、自分自身が相手を愛していないのだから。

 「愛してない人との結婚がうまくいった」

 こんなおかしなことになる。

 ドラマの中で、ユジンとチュンサンは自分たちが愛し合っても親に反対される。

 二人が愛し合っているだけでも奇跡のような出来事なのに、更に親に認められ、他人に賛辞され、世間的にも理想の形にして…と欲張ってばかりで、結局中身など忘れてしまったような人もいるだろう。

 形の上でもうまくいくから、この人を愛する、と望んだ通りにできるわけではない。

 何もかもが理想通りにいくわけではない。

 それでも、心は自由だ。

 心で何を思い、誰を愛するかは自由に決められる。

 心と体は必ずしも一致して動けるとは限らない。

 心とは裏腹のことを口にすることもある。

 心でやりたいことをできないこともある。

 それでも、感情は自然現象だから、誰にも止められないのだ。

 自分が傷ついても、この人を守りたい、と思ったことが、君にはあるか。

 その人を守るためならば、誰に何を誤解されようがどう思われようが、どうでもいいのだ。

 どんなに頑張ってよい子にしたところで、文句を言うやつは言うし、陰口を叩くやつは叩く。

 それは本人の人間性でしかないから。

 だったら、せめて自分が望んだ通りに自分を動かしたいと思わないか。

 せめて、自分自身がこれで良かったと確信できる、自分でありたいと思わないか。

 理想のゴールや形が残らないからといって、僕は自分が愛した人を愛さない方が良かったと思ったことは一度もない。

 永遠の世界など、どこにもない。

 僕たちは生まれてから刻一刻と死に近づき、徐々に変化し、やがて衰えてこの世から消えていく。

 その経緯の中で、起きてから最後まで残らないという理由だけで、誰かと愛し合う経験がない方がいいなんて僕は思わない。

 いきなりそこにたどり着くわけではない。

 チェリンのような執着の恋愛があり、サンヒョクのような初恋の憧れもある。

 その時その時、自分が欲したものがあり、その時その時自分の判断で動き、傷付き、失敗して、その経験から学び立ち上がり、真実に近づいていくのだ。

 傷つく覚悟をするには、人を好きになる必要がある。

 好きな人の心を守るために勇気を出すくらいできなくては、ヒーローにもヒロインにもなれないだろう。

 自分程度の小さな人生の中で、世間に知られることもなく起きている小さなドラマの中でくらい、主人公として振る舞った方がいい。

 覚悟を決めると、人は化ける。

 別人のように。

 それがその人自身の魅力だ。

 それをいつまでもそばで見ていたいと思う、そんな気持ちもあるのだ。

 熱で苦しんでいる最中にこんなドラマを観たからか、多少感傷的になったようだ。

 とりあえず、僕は真実の愛を知っているから、それを知らないみんなにも体験してほしいと願っているのだ。

 その愛、一度きりの体験でさえ、自分の人生を支えてくれる。

 そのくらい、愛の力は偉大だ。

 憎しみや恨みなど、ものともしない強さがある。

 君にもぜひ、その強さを体験し、支えにできるようになってほしい。

 いわゆる毒母であった僕の母も、最後には素直に詫びて多少なりとも素直に物言うようになった。

 僕が恨みも憎しみもなく、母への愛を持って生きたからだ。

 愛は憎しみを超える。

 恨みを振り払い、幸福へとたどり着くには愛の力を携えていくしかない。

 僕はそう確信している。

 今は全く分からない人もいるだろう。それはそれでいい。

 僕は人を憎んでいた時もあるから、そうした人たちもまた、当時の僕の仲間として見ていられる。

 だがそれは、決して素直な気持ちではないはずだ。

 意地を張って一生の宝となるような友情や愛を、自ら捨てることはない。

 何よりも、恨んでいる時より、愛している時の方が、気分がいいのだ。

 君も自分自身が気分よく生きられるよう、嫌な感情を携えて進まないでくれ。

 そしてもし、君が愛のために傷ついて進むときあらば、勇気ある君を僕は応援している。

 その勇気が、君自信を輝かせるだろう。

 では、君も風邪には気をつけたまえよ。

 僕もまさかこんなにひどくなるとは思わなかった。

 なんだか段々若くもなくなってきたようだから、これからは気を付けるとしよう。

まだ見ぬ君の友人

 最上 雄基

追伸…誤解しないでもらいたいのだが、真実の愛も簡単に手に入るものではない。どんなものでも、自分自身の努力と積み重ね無くして得られることはない。生涯手に入れることができない人たちの方が、遥かに多い。たとえば僕の両親のように。

いじめをする輩に思うこと ~まだ見ぬ友人へ~

まだ見ぬ友人へ

 久しいな。今回は僕が思うことを、まだ見ぬ友人の君へ伝える。

 僕が個人的に思うことでしかないが、いつもいつも「何をどう言えばいいのか」ばかり考えているとそれはそれで疲れてくるので、今回はいじめをする輩について僕が思っていることを聞いてほしい。

 僕も時々、人を見下してくる輩に出会う。

 これのことか、と気付いたのだ。

 人の存在価値を蔑ろにしてくる輩。

 悪気もない、故意でもない、なんでもないことで、最初からいきなり人が悪いことをしたかのように、迷惑そうに、嫌そうに、存在していることが悪いと思わせるような態度を取ってくる。

 こういうやつなのだろう?

 僕は常々存在できない人たちのことについて考えているが、自分と違い過ぎて字面で如何に学んでもどうもピンと来ていないのだ。

 それは、同じ場面で同じことをしないために、僕から見たらいじめられっ子の見ている側面が見えないのだ。

 恋愛関係になって人をいじめようとする馬鹿がいる。

 一応言っておくが、普段はそれなりに抑えて大人らしく大人しい文面にしているが、今回は五割くらい口が悪くなるかもしれない。まあそのへんは友人の君なので気にしないでくれと言っておく。

 とにかく、そのようなバカ者は、密室の関係になった途端にギャラリーもいないのに、僕のせいで困らせられている、苦しめられているという態度を取る。

 だったら別れればいい。

 そもそもそんな性格をしている奴は、僕が好き好んで付き合っていない。

 わざわざ自分から好意を持っているかのように見せて近づいて、いざ脅してでも付き合うよう屈服させたら、今度は密室の関係でいじめ。

 ただのサディストだ。

 最初は支配関係を作るための努力。それが女子らしく見せることだったり、尽くしているかのように見せることだったり、気の毒な人だと思わせることだったりするのだ。

 その全てが、異性との支配関係を作るためなのだから本当に心底くだらない。そんなことのために労力を使うならば、見ているだけで殴りたくなるような少女漫画のアニメでも見ていた方がまだマシだ。

 更に、苦労して相手を屈服させたら、今度は「恋愛している人たちがやりそうなことの真似事」をさせるために操作を繰り返す。
 支配するためにいちいち気を使っていたら疲れてしょうがないのに、それでもやり続ける。

 そして、どう考えても恋人を下に見れば自分自身の首が締まるのに、誰も見ていないところでいじめをする。

 人目につかないところで恋人とやりたいことが相手を侮辱することだなんて、どこまで異常な性癖なのか理解できない。

 恋人を侮辱しているのが、素敵な恋人だと思っているのだ。自分の方が優位に立っているから、相手はクズで自分は素敵な彼女。

 頭がおかしい。

 どんなに腹が立っても、自分の恋人だから恋人としての自分自身を守るために、相手には尊重した扱いをするものだ。別に相手がいい女だとか性格がいいとか、全く関係ない。どんな女でも自分が恋人としてどうあるべきかを実行するのみなのだから、この人を相手にどう接すればいいのかは工夫しても「見下す」なんて扱いは「素敵な恋人」のやることに入らない。

 そのように、自分自身が自分の理想の恋人に近づくように努力するから、お互いに頑張るほど良い関係になるのだ。自分自身も経験を積んでレベルが上がるのだ。

 とにかく、恋人との関係でそんなことをやる奴もいるが、どうでもいい関係の、逆に社交辞令で接していてもいいくらいの難易度の低い相手に対してマウントを取りに行きたい輩がいる。

 自分の頭が悪くて説明が下手だからこっちが説明を誤解しているのに、こっちが理解できない人間という扱いをしたがる。これは、僕自身は割と体験していることなのだ。

 僕は天才だが、大抵の天才は学歴エリートに嫌われる。
 相当優秀である人にも敵意を持つ人がいるが、上に行けば行くほどその割合は減る。

 つまり、中途半端エリートがよく敵意を持つのだ。

 なんとかして「望んでいる場面」であることにしたがるのだが、これが黙って相手の支配を受け入れてしまう人たちが弱い相手なのだろう。

 例えば、子供が何か考えあって遊んでいたとする。

 すると、母親がそれを見て大げさに驚く。

 「まあ!あなた何で遊んでるの?!」

 子供はその大声にビクリとする。そして怯えて固まってしまうのだ。

 どれだけ悪いことをしてしまったのか、母親の態度で自分のしたことが怖くなる。悪いことをしているつもりは一切なかったのに、何かわからないが大変なことをしてしまったのだと感じて怖くて泣いてしまう。

 泣いてしまった子供を相手に、母親が大層迷惑なことをされてしまったかのようにため息をつく。

 そして、「ママを困らせないでよ!」と大変な苦労を掛けられているかのように子供を責める。

 子供は泣いて謝る。

 「ごめんなさい。ごめんなさい。」

 どうだ?こういうことなのだろう?

 一言で言って、クソみたいな人間だな。

 それで人をいじめて癒されるというのだから、頭の中の回路がすっかりおかしくなっているのだろう。8bitくらいのエンジンしか積んでいないんじゃないのか。

 更には、いじめをして自分がすっきりしたら、記憶力がないのですっかり子供のことを忘れてしまうのだ。

 「あら、まだぐずぐずして。しつこい子ねえ。自分が悪いんだからしょうがないでしょ。」

 この鬼が乗り移っているような人間が自分の母親だった時、人生が地獄で始まったことを知らねばならないだろう。

 僕は子供が大好きだ。子供の頃から自分より幼い子供が大好きだ。

 だから子供をいじめる奴は誰であろうと嫌いだ。

 何も知らずに生まれてきた子供たちを傷つけて癒されるなど、人の道を踏み外したどころの騒ぎではない。

 そして、人をいじめる輩は赤の他人にもそれをやる。

 困らせられている人。

 迷惑をかけられている人。

 普通に説明すればいいだけの場面であっても、「困ってますよ顔」で迷惑な相手に自分が優しくしているかのような態度を取る。

 「こんなにダメな人間でも、頑張って対応している私」という態度だ。

 頭が悪いのだ。

 自分が無能であるとわかっていない。

 同じ場面で、自分ほど苦労していると感じさせない有能な人もいる。

 同じ事態に、自分ほど大きなことだと扱わない優秀な人間がいる。

 ただ自分が無能なだけなのに、その無能さを棚に上げて相手が問題だということにするのだ。

 自分の程度がどのくらいかわかっていない。現実より遥かに優秀だと思い込んで生きているだけの、ダメ人間だ。

 そもそも、いじめについてどう思うか。君はどうだ。

 あんなものはやるだけで恥、末代までの恥と言っていいほど精神鍛錬の足りない輩がするものだ。

 良し悪しや問題点など、指摘することはできない。

 その行いそのものが恥。

 いい年をして、大人にまでなったのに大人を捕まえていじめをするのだ。

 貴様に生きている価値があるのか、と僕なら思う。

 赤の他人が生んで育てた人様の子を、何が理由であっても自分の無能を棚に上げて「迷惑な人扱い」してかかる。

 謙虚な人が身を低くすれば、喜んで上から乗っかる。

 そのくらい馬鹿なのだ。どういう教育を受けたらあんな大人が育つのだ。

 礼節を重んずるということを知らない。

 「礼節を重んじてないよね!」と人を罵るくらい、言葉の意味もわかっていない。

 言葉だけ覚えて行動では示せないならば、役立たずでしかない。

 いじめに何かいいことはあるか?

 いじめられた人がいじめられたことによって、それ以前より良い進化を遂げるのか?その行動の影響が未来にどう良い結果をもたらすのだ?

 その程度の未来も考えずに今ここでなんとなく気分的なもので人をバカにする。

 そんなクズが、どうして平気で明日も明後日も生きていけるのか?

 神経が図太いのだろう。自分が生きている価値がそれでもあると思えているのだからおめでたいと思わないか?

 それだけおめでたい人は、いじめられた人が傷ついた気持ちなどわからないだろうし、そもそも傷ついて悲しいという気持ちがわかる人間は、いじめをしない。

 被害者という立場に身を置いて喜んでいる輪がある。

 それも恥ずべきことだ。

 なぜならば、恥でしかない行いに負けているのに、自分を恥じることもできないからだ。

 いじめられたことは、嬉しいことではない。

 喜んで人に言うことではない。

 恥だ。と思えないのは、相手と同レベルになっているからだ。

 みっともない真似をする輩の相手役に抜擢され、見事演じているのだから同じ穴のムジナだ。

 ちなみに、僕は気が弱いのでとても僕の相棒のように間髪入れずに突っ込んでいけないのだ。

 相棒ならその場で即言える。

 「え?なになに?なんでいきなりバカにしてくんの?」

 大企業に勤めながら、飲み会で上司に「ふざけんじゃねえぞ、このハゲ!一発殴ってやる!」と食ってかかった奴だ。

 熱くなるとどうにも止まらないところがあるが、さすが僕の相棒だ。

 その場にいたら、間違いなく僕も加勢する。

 しかし、人をなんとかして見下そうとしてくる輩には、面と向かって対峙するほどの価値もない。

 頑張れ頑張れ、頑張って優位に立つために罪悪感を植え付けろ。

 僕は、そんなものに屈しないがな。

 上から押さえつけてくる奴には、更に上から「寛容に」見下しておく。

 ごめんごめん、今の難しかったよね。普段そんなに考えて生きていないのにいきなり色々言ってごめんね。

 程度に合わせなかったこっちが悪いんだから、気にしないで!

 そのくらいのノリでいい。

 こうした場面では、やはりきちんと個別化して、普段から自然に他人と接した体験が役に立つ。

 同じようにしていても、他でそんな扱いをされない。

 他の人がそんなことは言わない。

 「今出会ったこいつだけ」が、「みんなもぜったいそう思う」と小学校一年生レベルの聞くに堪えない屁理屈を、それがあたかも事実であるかのように大げさに表現する。

 役者というより、芸人だ。役者だったら舞台役者。大げさすぎる。

 大体、誤解しているのだ。

 君も誤解しているのではないか。

 大人になって、他人を相手に何があっても「迷惑そうな顔」なんて目の前でするものか。

 人権を守るためには、そんな真似はできない。

 相手を傷つけないため、尊重するため、心の中で驚くことがあったとしても、相手はなにも意図していないのだから驚かせたり不安にさせたりしないように自分自身を制する。

 それが大人というものだ。

 ヒステリーを起こして罵倒しまくるような女子が、人を攻撃してすっきりしたら今度は「私はかつていじめられたせいでこうなった」と私語りを始める。

 そんな話は聞きたくもない。

 すべてが私ひとりのストーリーなのだ。

 私一人が演技を始めたら、それを信じた人たちがついてくる。そしてその先までどんどん展開して、演じている私の望んだ通りの世界になる。

 そんな期待をする。遊んでいるだけなのだ。

 例えば、僕がいきなり自分を演じて普段と違うキャラクターをやったら、そのキャラクターを僕の普段の姿だと信じた人が僕の期待通りの反応をして、僕が行きたい未来に進んでくれる、と期待しているようなものなのだ。

 自分が演じている「期待のキャラクター」に合わせて、相手も期待通りに動くと思っているのだ。

 おめでたいな。

 そんな甘いことを考えて生きているならば、キャラの維持に必死なのもわかる。

 本物でもないのに、今、何かさせたい時にそこだけ切り取ったように演じてどうなる。

 本当に人間の中ではクズ中のクズ。

 与えられた命も他人の命も、社会に存在する何もかもを愚弄する存在自体が恥のような「なんらかの生き物」でしかない。

 人間になりぞこなったとしか思えない。

 そして僕が今述べているような「ただの事実」を述べられると、怒り狂うのだ。

 どうして自分一人が演技をしただけで、周りが望んだことを「頭の中で」思い描き続けるなんて魔法のようなことを現実に期待できたのだ。

 この世界は何かのお芝居の舞台なのか?誰が用意したんだ?

 貴様がこの世界を用意したのか。

 よくそんな人生で自分に許されるな。羨ましいぞ。

 僕なら自分にそんな人生を歩ませることを許さない。

 お芝居をして気分に浸るために人生を使い切るなんて、僕なら僕に許さない。

 生きた人間に対しては、当たり前に真剣に接する。

 自分の言葉が嘘ならば、人を騙すことになる。

 気持ちが嘘ならば、人を路頭に迷わせることになる。

 クズ中のクズと言ったが、そのような人が「犠牲を払って何かしてやった」という恩着せがましい理由で、自分を悪くなど言わないし思わないと思っているのだから片腹痛い話だ。

 あれこれしてやったのに、それでも悪く言うならばひどい奴なのだ。

 自分があれこれしてもらったらホイホイ喜んで人生を使えるほど、自分自身の人生をその場の気分で遊びに使えるからそんなことを他人に期待するのだ。

 他人は自分ほど遊びで生きていない。似たような人はいるだろうが、そんなものは自分の生まれた家の家族だけでやっていればいい。

 僕は本当に良い友人関係や恋愛関係を体験した。

 しかし、それすら「私はそうは思えない、本当はそんなことない」とか言ってくるアホがいた。

 バカなのか?

 これはつまり、「私に信じてもらえないと不安になって信じてもらうために頑張る」と期待しているのだろうが、お前は俺の母親か?俺はいくつだ?

 ほら、段々本音に近づくと、こうして「俺」とつい書いてしまうのだ。

 自分が僕を疑って僕が不安になって信じてもらうために必死になったとてだ。

 それでは完全に僕が内面的に幼稚園児だ。そんな男が好ましいならば他を当たればいい。

 というか、そんなことを他人とやりたいのだから、僕には変態にしか思えない。

 変態だろう?

 それが恋人とやりたいやりとりなのだ。もう少し女子なら夢のあることでも考えたらどうだ?と思う。

 「私を他の人と比べないで!」と叫んだバカもいた。

 それは親に言うことであって、他人が自分と他人を比較しなかったらそもそも自分を選ぶこともない。

 なぜ、そのように「それっぽいだけの状況にさえ合わないセリフ」をかっこよく言い放てるのだ。恥にしかならないのに。

 みっともないと思わないのか。

 そしてその行いの後にまだ続ける。離れてからもまだ続きをやる。

 他人に詫びることもない。いつまでも嘘で演じていたことも「本当であるかのように言い続けるだけ」で一人で本当であることにして生きている。

 本当にいい女ならば、後で反省して素直になることもできる。

 しかしそれは、いい女だからだ。

 素直になったらダメ人間をやめなくてはならない。

 人を次々人間として価値なしの扱いをしているクズをやめて、まっとうな人間にならなくてはいけない。

 そんなことは地獄に生まれて地獄に死ぬ外道の行いではない。

 そして、自分に都合が悪くなってくると、人の言葉を自分が思うことかのように言う。

 「それはこっちのセリフ!」

 なんで?

 理由は?

 きちんと説明もできない。なんのために日本語を教わったのだ。自分の人生でまともに使うこともできない言語能力で、よく今まで生きてこられたな。

 義務化されたこと以外は適当に生きているから、言語を使いこなすだけのコミュニケーション能力もないのだ。

 そしていちいち事実に傷ついて怒る。僕がそうしたわけではないのに、夢を見るために現実を無視する。

 別に厳しくもない。そのような人間が母親になり、さっき書いたような虐待をして癒されるのだから。

 なぜ、そんなにも存在するだけ他人にとっては時間の無駄にしかならない存在になったのだ?

 自分自身をどう鍛えて、どういう人間に育ててきたのだ?

 自分の行いが、本当に優しい人たちを次々委縮させ、更には愛ある家庭で生まれた明るい人たちに警戒心を抱かせ、どんどん人に親切に自ら接する人を減らしているのに、そんなことは気にもしていない。

 自分自身のことについては棚に上げる。

 棚に上げたところで自分の価値が上がるわけではない。

 他人をバカにしても、相手がバカになるわけではない。

 自らの人間的価値を貶めるだけなのに、そんなことすら気にできない自制心の無さだ。

 そもそも、人を見下してバカにしている時にそんなにいい気分がするか?

 僕は全くしない。

 そんな真似をしていたら、自分が嫌な人間だとしか思わない。

 僕の場合は、子供の頃からすぐに思った。

 こんなことをしている人間になりたかったわけじゃないのに、と思って「生まれ変わらなくては」と決意したのはまだ十歳の頃だ。

 小学校の四年生まででもう懲りた。

 こんな人間になってしまったのも全て前世の業だと思い、今まで犯した罪の分は今生で償っていかねばと覚悟を決めたから、その後の修業の道がある。

 人を見下して自分が優位に立とうとしていた自分。

 他人を押しのけて目立とうとしていた自分。

 優しい子がいると舐めてかかり、その子なら自分の言うことを聞くと期待して利用しようとしていた自分。

 全て外道の行いだ。

 その行いがあり、その罪で地獄に落ちていた。

 地獄に落ちると、幸せを感じなくなる。

 不幸だ不幸だと言いながら、憎しみや怒り、嫉妬など負の感情ばかりを「感じなくてはならない人生」になってしまう。

 感じるものは自分が選んでいるのだから。

 その行いによって、自分が感じるものが決まっている。

 それが精神の世界だ。

 だからこそ、自分自身が不幸にならないために自らの精神を鍛え、負の感情に心が負けないようにしていくのだ。

 いじめをする人間は、自ら進んで地獄に落ちている。

 「困らせられている自分」であろうあろうとしているから、本当にそうなっていくのだ。

 嘘が真実になっていくのだ。自分がなりたい自分になっていくのだ。

 僕は生きる気力がなくなるのだ。

 人の存在価値を貶めてまで、その人は存在する価値があるのか。

 その人の人生には、何人前もの価値があるのか?

 「あの人たちをいじめてでも、どうか存在してください!」と誰がそんな輩に頼むのだ。

 人の人生を犠牲にしないと、今生きている人生は成り立たないのか?

 そんなに特別すごいことでもしている人生なのか?自分程度のことをしている人間は他にもいくらでもいるんじゃないのか?

 いじめをするくせに、いじめる自分が傷つくからいじめてしまう理由を理解して誰も責めないでほしい、思いやりを持て、そんなことを求め自分が被害者みたいな顔になる奴もいる。

 つまり、まだいじめをしているのだ。その行い自体がいじめなのに、魂がいじめでできているから、何をしても人を傷つけることしかできないのだ。

 完全に心が邪悪になってしまっていて、心から親切にすることもできない。

 ただ自分をいじめる輩にはびくついてご機嫌をとる。

 普通の人や感じ取る力が強い人には害にしかならない、いじめっ子にとってだけ必要ないじめられいじめマシーンみたいな存在だ。

 必要としてくるのはいじめる人だけ。

 他の人からはどうでもいいか、いない方がいい、の二択みたいな存在。

 君はどう思う?

 僕は人間が好きで、人間と仲良く生きて生きたいから、本当に嫌なのだ。

 邪魔をするからだ。仲良くみんなで生きていく邪魔をする人間。

 仲良く生きて生きたいから、お前はどこかに失せてくれ。

 そう思う。いじめをしない人たちが集まっていれば別に問題は起きない。

 いきなりため息をついてまで人を「問題ある人扱いしたい輩」は、本人が問題だ。

 自分でわからないのか?

 漫画やドラマじゃないんだから、大人が他人の目の前でそんなことしていいわけがないだろう。

 何かこの世界を勘違いして生きているのではないか?

 お芝居なんてどうでもいいから、現実にカス同然の真似をして現実にいらんことを差し込んでくるのをやめてほしい。

 いらない。

 全くいらない。

 それしかできないなら、貴様がいらない。

 自分をいじめる人たちだけと仲良くしていろ。

 としか思わない。

 だが、そんな人間を知る度にいいこともある。

 そんなことがあるのかって?

 あるさ。

 これまで友情を育てた仲間たち、愛を育んだ恋人、そして今いる家族や仲間たち。

 それが「思う以上に価値のある宝物だった」と知る瞬間だ。

 僕は他人に厳しく出る時もある。友達にもだ。

 だが、必ず心の中では相手の幸せを願っている。何か故あって強く出ることはあるが、そのような時は大抵誰もその人に何も言わない時、だ。

 それがわからない奴ならば、元々友達ではなかったのだ。

 相手が真剣に接している時に、心の中で何を発しているのかもわからない人間は、どちらにせようまくいかないからそこで終わっても仕方ないのだ。

 「好きだと思う」と「好きだと感じる」は違う。

 わかるか?

 恩着せがましい、罪悪感を植え付けてくる人に二重束縛されている人は、これがわからない。

 「~してくれるから、好きなんだと思う」と言う。

 それは目に見える行いや言葉が「偏見で見るとそうなるから」でしかない。

 では、一体どう感じるのか。

 その「好きなんだと思うこと」をしてもらっている時、自分の心はどう感じているのか。

 感じる時は、心で感じる。心臓のあたりで感じる。

 感じることに任せなくては、真実にたどり着けない。

 感じながら思うことができる人は、その場で感じている。

 感じていても、不安にはなる。それでもそれを乗り越える。

 恋人の場合は違う時もある。

 「言わなくてもわかれ」と言うと「そんなの無理、言わないとわかんない」と返ってくるときもある。

 あの「何を思っているのかわかっているのに、それでも言わせたがる行動」はなんなのか。

 それでも、仲間に対しては嫌な気持ちは微塵もない。

 信じている、愛している。

 最高の気分だ。

 本当に、涙が自然と頬を伝ってくるほど、それに自分自身が驚くほど、最高の気分なのだ。

 あの感覚がわからないまま、「私はこんなに不幸」と見せつけながら生きていく人の気が知れない。

 僕もかつてはそうだった。

 「こんな感覚があるならば、もっと早くに勇気を出せばよかった」

 小五にして、なぜ自分はこんなに人生を無駄にしたのかと嘆いたほどだ。

 それほどまでに、真の幸福感は絶大な感覚なのだ。

 君は、恐らくその感覚を知らない。

 だが知らないなら知らないで、その方がいい。

 君はこれから生まれ変わることができるから。

 今までなど無駄な日々だったと後悔するほど、絶大な幸福感を体験するだろう。

 これからは、無駄な日々を生きないようにしよう、と心から思えるだろう。

 そして僕自身も、これ以上無駄な日々を過ごしたくないのだ。

 こっちは本気でも、相手がコロコロ意見を変える嘘つきでは、感動的なドラマになるところもくだらない存在しなくてもよかったと思えるほどの無駄な時間にしかならない。

 人間関係は、相手が存在する。

 だからこそ、自分が勇気を出さないせいで相手の感動や幸福まで奪ってしまうかもしれないという責任がある。

 互いに責任を負うからこそ、どちらもが「自分は後から」なんてことはできないのだ。

 覚悟を決められない輩は、自分の御試し感覚で他人を犠牲にするな。

 相手の時間を使うのだ。相手の命を削らせるのだ。

 その犠牲を無駄にしないために、自分自身の命を削るときも覚悟を決めなくてはならない。

 お互いの勇気が生み出す感動がそこにあるのだ。

 まだ見ぬ友人よ。

 もし、君が僕に出会うことあらば、その時の君は覚悟を決められる君であってくれ。

 僕はこれからも覚悟を決めながら生きていく。

 君が後悔の海に溺れても、泣きながら向こう岸にたどり着くことができるならば、君の未来には幸福を知る別世界が待っているだろう。

 では、君もいじめには気をつけろ。

 自分の人生を一秒たりともそんなくだらないことに使ってくれるな。

 他人の演技に合わせてやるんじゃないぞ。

 まだ見ぬ友人との約束だ。

 

まだ見ぬ君の友人

 最上 雄基