昨夜、雑談のワークショップを行い、超長時間に及びましたが大変有意義な内容でした。
大変有意義だったのですが、皆さん確実に役立てて欲しいところです。
自分中心の視点で生きていると、「嫌いな人から離れられない」と説明しました。
「嫌いな人にも好かれたい」
このように加藤諦三先生も説明されている状況が、僕にはピンと来ていません。
違う視点で生きていましたから違うものに見えています。
しかし、ある生徒の話を聞いていて「これだな」と思った話をしました。
僕がかつて見たことがある、クラスメイトの話です。
本人が相手の性格が良いと思っているわけでもなく、「え、ズルい」などと思いながらも、なぜか傍から見ていると「仲良くしたがっているのは本人のように見える接し方」をしているのです。
当時の僕は「あの子の何がそんなに好きなのかなー」と思っていましたが、どうやらそれが
「嫌いな人にも嫌われたくない人」
だったようで、昨日こんな感じだったよと僕が説明しましたが、皆さん身に覚えがあるようでした。
僕もその時は全員がクラスメイトだったので、その子を助けました。
喧嘩など売らなくても、戦わなくも、向こうから出ていくものです。
ハッキリした態度でいれば、自分に従う子を集めて我が物顔でいる馬鹿者は勝手にいなくなります。
僕は何かの行事のために話しかけられて、ものの数分で「こいつ、性格悪いな」と思った子なのに、なぜかその子をちやほやしている子がいる。
それが気になったので、「あの子はそんなにいいところがあるの?」と聞いたため、発覚した話です。
「本当はあの子性格悪いって思ってるけど、仲間外れにされるのが怖くて誰にも言えない」
そんなやつがいるのか…と不思議に思ったものです。
自分が性格悪いと思ったならば、接しないものではないのか。
別に争う理由もないので気にはしないとしても、我慢して仲良くしている必要はないのに。
そう思うのですが、そうなっている理由があります。
ひとつは、「ナルシシスト」。自分が中心の世界を生きています。これは最悪です。
僕もたまたまクラスメイトだったので助けましたが、立場上仲間でもないならば助けないです。
遠くから見ていて「あんな奴とでも仲良くしたい奴はいるものだ」と思うだけです。
その時は、「人はよく知らないとわからないものだ」と丁度相棒と出会って思っていたところだったので、なんとなく気になって聞いてみただけです。
僕が「なんだこいつは」と思った奴でも、何かいいところがあるからああして慕っている奴がいるのだろう、と思ったのです。
しかし、その友人他、性格が悪いそいつに群がっていた「気の弱そうで受け身な子たち」には共通の問題がありました。
「自分で決められない」
だから、勝手に決めたい奴が君臨していたのです。
「あの子が嫌だ」
そこまではいいのです。その先です。
自分がどうしたいのかも決められないのです。
意思のない集団でした。
本当に仲間になるためには、仲間が「見つかる」前から単独で存在していられなくてはなりません。
たとえ友達がいなくても、「こいつと仲良くしたくない」と思ったら一人でいられる精神が必要です。
そうすると、自分と本当に「似たような連中」が見つかった時に、自然と仲間になります。
結局、その子は助けた後で、僕について来ようとしたのです。
正直、その子は僕の仲間には入っていけないタイプでしたが、僕はあちこちに仲間はいたので
「もう大丈夫だろ、あとは自分たちでやれよ」
と一時入っていた「支配されていた子たち」の輪から出て行こうとすると
「待ってよ、一人だけズルいよ」
と言い出したのです。
僕は「もう嫌な奴はいなくなったんだから、後は自分でやれよ」と言って離れて行きました。
別にクラスメイトでなくなるわけでもないのに、いつもいつも集団になっていないとその子はダメだったのです。
「友達になりたいなら、自分から人には話しかけろ」
そう言って僕はいつも通り「仲間が沢山いる一匹狼」になりました。
そう称したのは僕の相棒です。どこに行っても仲間はいるけれど、いつも一人でいる、と言われたことがありました。
フラフラと猫みたいに気まぐれなのに、寄ってくると犬のように懐く、と言われ、そう見えるんだなあと思ったものです。確かにそうではあるのですが。
その時は深く考えもしませんでしたが、助けてあげた「意思のない子」は結局「不安に勝てない」のです。
場をシラケさせる発言をする奴がいても、気まずい空気に堪えられないからつい慌ててフォローしてしまう。
そんな子でした。
「喧嘩になったらなったで、面白い」とは思えない子です。
優しさではなく、自分の不安から慌ててフォローするのです。
一見「好意があるかのようにも見える」のです。
もし、その子が「自分の意思で誰の仲間になるか」を決められる子なら話は全く違っていたでしょう。
見ていると、何かある度
「えーん、えーん、どうしよう」
そんな風にオタオタする子でした。
もうひとつ大事な点があるのですが、支配してあたかも人気者のように振舞う子より、オタオタしている子の方が面倒な雑用をこなし、きちんと働いているのです。
ちなみに僕は、「どっちにも属したことはない」です。
その状況にある皆さんは、その中でもめ事をなんとかしようと考えていると思います。
しかし、輪に入らない奴は、最初からものすごく遠い蚊帳の外から見ています。
その中にい続けてなんとかしようとしているのは、自分が中心の世界を出られないからです。
「私」を主人公にした世界だと思っているからです。
自分を中心に、全ての人の機嫌を良くしようとする。
能動的になっていないから、接している全ての人のご機嫌を取ってしまうのです。
そして、そこに「助けに来てくれる誰か」を待っているのです。
現実的に脱する方法を述べるならば、「その輪に入りそうにもない奴らの仲間になる」です。
自分が、その仲間になれる「単独でいられる人間になる」ことです。
クラスメイトには、人を見下した態度のやつもいました。
自分の方が上かのような物言いと態度なのです。
僕はその態度で来られた瞬間、即物申しました。
昨夜、丁度そんな場面でどうするか、の話をしました。
「なんだてめえその態度は、同じクラスメイトの仲間に何偉そうな口効いてんだよ」
そんな風に即物言うので、怖いと思われることもありましたが、僕たちは「仲間を平等に大事にしている」ので、その枠からはみ出して支配しようとする輩を絶対に許しませんでした。
その代わり、対等に尊重し合う仲間たちの友情や結束は強いのです。
そして偉そうにマウント取りにきた奴は、物申した瞬間態度豹変です。
ある子は急に縮こまって言いました。
「私、家で一番上で、いつも下の子ばかりと接しているから…」
三人姉妹の長女だった子がそう言いました。
そこで「そうか、じゃあしょうがないね」なんて優しく言いません。
「ここはてめえの家じゃねえ。俺たちはお前の弟でも妹でもねえ。勘違いしてんじゃねえぞ。」
そんな風に、親切に教えてあげると「あ、うん、ごめんね」と謝って、なぜかその後滅茶苦茶僕に気を使ってくるのです。
ご機嫌を取ってくるのです。
別に要らないですけど、小者だからそんなものです。
その時、別に僕だけがいたのではないのです、他に数人のクラスメイトがいて、皆で話していた場面なのです。
なんでもない雑談をしている最中だからと言って、冗談ならまだしも友達を見下すような態度を取って、ただで済むと思っているなら大間違いです。
恐らく、それがハッキリ言う、ということなのでしょう。
「ふさげんじゃねえぞ」とその場で言えない。
言うほどの必要がない関係性であるならば、「なんだこいつは」と嫌悪感を持ったとしても、放っておけばいいのです。
先に書いた「助けてあげた子」の話でも、結局自分がアイドルかのように振舞っていたやつは、対等にしか扱ってもらえなくなった途端、仲間に入ってこれなくなって勝手にいなくなりました。
昨夜、結局自分が「傲慢だから」離れられないのだという説明をしましたが、そこについては長くなるので今はやめておきます。
本当に長時間に及びましたが、僕もそれなりに話して観察してきた方たちが相手でしたので、それぞれの「会話の癖」についても指摘し、何をどうすればいいのかというところまで昨夜は説明できました。
そこにいるからには、いるべき態度や話し方をしているものです。
違うやり方で話せるようになったら、自然と離れるべき相手から離れ、仲良くなれる相手と仲良くなっていくでしょう。
受け身でいると、「こっちの人は優しいからいいけど、こっちの人は酷い」の状態で固定されます。
そして、「誰か助けて」になってしまいます。
そこで「輪の中に入って助け続けられる人」は、どちらにせよ「輪の中の人」です。
「自分もあっちの世界に向かってここから出ていく」ができて、いじめの世界を脱していけるのです。
いじめが無い輪、があります。
そこにいじめの世界を広げようとしないのです。
被害者も、いじめの輪にいる人です。
本当に「最初からいじめなんて無い世界」に生まれ変わりたいならば、一人で脱していくのです。
僕が今まで出会った「妄想恋愛ストーカー女子」も、本人がいじめをしていたとしても、本人も漏れなくいじめられてはいました。
ただ、そこから脱しないのです。
僕も自分の仲間になるならば守ることはできますが、いじめる人たちの仲間になっている人なのでどうにもできません。
助けるべき立場にいないからです。
「自分に害のない、仲間になってくれる人たち」の見分けがつき、かつ「この人たちと生きていける人間になる」と決められれば、家の中でいじめにあっていても一人で出ていけるのですが。
いじめられている人たちがわかっていないのは、本当の仲間は「自分たちが思う以上に仲間を大事にする」ということです。
嫌になったらやめるとか、気に入らなくなったら見捨てるとか、そんなことはないのです。
絶対に裏切らない。
ひとりひとりが責任を持って、自分の心の戦いに打ち勝って「仲間を守っている」のです。
仲間と生きていける人たちの輪には「排除される人」はいません。
まず、人が存在していて、そこからみんなでどう生きていくかを考えます。
よって、何がダメだから見捨てる、はないのです。
普通はどうするものだとか、強要して何かをさせるなんてことはないのです。
我慢すれば必ず嫌になります。言いがかりをつけられれば相手は敵意を持ちます。
全員が素直に、正直に、誠実に。
それが最低限守れるから、いじめのある輪で重要視されていることなど「どうでもいいこと」なのです。
大事にしているものが全く違うのです。
本人が誰もいじめない人になれば、必ず脱していけるでしょう。
しかし、「私が主人公」の視点で考える限り、自分自身も人に失礼な真似をしているのだと気づくことすらないのです。
「自分の方が傲慢なのだ」と自覚すれば、寧ろいじめてくる人となど、簡単に離れて行けるのです。
僕も長い人には本当に長い時間をかけて、個々に特徴を捉え、いじめられ続ける原因を特定しています。
「自分が何か悪いことをしたんじゃないか」
そう思ってつい威圧的な人に屈服してしまうようなのですが、その視点を変えていけるよう力を尽くしております。
「自分がダメだと、排除されるんじゃないか」
この不安が全くない世界にいくには、そうなものはそうなのだ、と何が起きるかわからなくても堂々としている勇気が必要なのです。