ジョナサン・ハイトの著書からの引用です。
米国の思想家ヘンリー・デイヴィッド・ソローは1854年、簡素な暮らしに関する著作『森の生活:ウォールデン』のなかで、次のように書いている。
「ものの値段とは、それと引き換えに直ちにまたは長期にわたって要求される人生の量のことである」
これはのちに経済学者が「選択の機会費用」と呼ぶものの洗練された表現だ。つまり一度、お金と時間を何かに費やしたことで、もうできないすべてのことを指す。
そのとおりなのですが、現代社会では、人生を大量に「気持ちの慰め」に使う人が多いですね。
過去の不幸に嘆く人は、救いを夢見ては推し活や、現実逃避の恋愛をします。またはバカにされた悔しい気持ちを晴らそうと、やりたくもない勉強や仕事をして優越感に浸ろうとします。
その時に費やした金銭は、誰かの時間、つまり命の量を使ったものです。
自分で自分の稼ぎを妄想のために費やし続ける人は、我慢してきた鬱憤を晴らすために我慢してきたことで得た金銭を大量に推し活的な何かに費やします。
妄想を膨らませれば膨らませるほど、今我慢している日々が不幸なものに感じられます。
そして更に現実逃避した未来を求めて、我慢を続けるのです。
最も無駄だと個人的に思うのは、妄想の恋愛です。
現実に本物で恋愛していけばいいのに、実在の相手をネタに空想の体験をしようとします。
その時に使った時間、そして金、つまりはすべてが「寿命」ですが、そのうち破綻して消えてしまっても、戻ってこないものです。
そして年だけ取っていて、現実の経験からの成長も得ず、自分はまるで変わらないまま「過去には可能だったことが、既に不可能になった」という今に至るのです。
「この人が救ってくれる」と勝手に妄想して、相手の命を、自分の命を、どれだけ無駄遣いする人がいるか。
僕は若さも命も大事にしているので、決してやりたくないことですが、今の日本では若い頃から現実逃避に「現実の苦労」を消費する人たちが非常に多いと思います。
「そんなことしたらどうなるかわからない!」
この当たり前の道を避けていることが、我慢と不満の人生を選んでいる原因です。
何をしたらどうなるかが「わからない」のは当たり前のことですから、命を使い切ってしまう前によく考えたほうがいいのではないでしょうか。
自分の思い通りになどならない世界に生まれてきた、と自覚できない人は、他人に自分を育ててもらい、更に他人の期待通りに成長したら「望みを叶えてもらえる」と期待します。
それでは、他人にとって一切利にならない存在、言い方を悪くするならお荷物な存在でしかありません。
「望みを叶えてもらう」ことを目的としなくなるのが成長ですから、一瞬でできると言えばできることをしていないのは自分の方なのです。
実際の体験を積み重ねても、いつまでも「まだわからない」と思って生きる人はいます。
人生を最期まで費やさなくても、今までの経験から現実的な推測をして、望んでいることが起きそうかどうか判断しなくてはなりません。
「本当は私のための世界なのに、まだ運命のスタートに出会っていないだけ」
そう思い込もうとすれば、死ぬまで続けることはできます。
しかし本当に人生を使い切ってしまったらどうにもならないし、他人にお願いして「今から頑張るから」と自分のために状況を作り直してもらうことも、何もできないのです。