親や社会に洗脳されている時には特徴があります。
自分で気づけます。
気づけるので覚えておいてください。
「ストーリーが存在している」
現実にはストーリーなんてものは存在しません。起きたことはただ起きただけ。経緯があって起きただけ。それが「ありのままの事実」です。
何もかも経緯が理解できれば納得できますが、ストーリーがある時は違います。
自分が事実ではない何かを、現実に起きていることと認識している。
それにより、迫害してもいい人が生まれたり、奪われても仕方ない人が生まれたりします。
虐待の容認です。
そして、自分自身が虐待されても仕方ないと我慢したり、虐待しても許されると安心していたりします。
ストーリーがあるということは、既に設定があるということです。
その設定を現実のものとして、自分は生きなくてはならないわけです。
そうなると、できることでもできなくなったり、やりたくてもやれなかったり、設定やストーリー上の問題に合わせて生きて行かねばなりません。
人間は自分さえ良ければ「嘘のストーリー」を正しいものとして生きていくものです。
それに抗うのは難しいでしょう。
自分より弱い立場の人、黙っていてくれる人がいても自分の利己的な欲求を抑えるなど、到底できないしやる気もない人の方が圧倒的に多いでしょう。
だから、やられる方も奪われる方も、自分もやってしまうのだから仕方ないと言えます。
向上に努めなくてはできないことですから、虐待が起きるのも、略奪が起きるのも、人類の常です。
人のものを奪わないように精神向上しなくても、簡単に奪える力があったらどうするでしょうか。
人を黙らせる権力があれば我慢させられる人は、人を黙らせて自分の欲を満たしたくなるでしょう。
やりたくなっちゃうからやるー。
そんな人は、一応まかり通るだけのストーリーを作らなくてはなりません。
先日も、人んちの資源が欲しい大統領が理由をつけて人の家を襲って奪ってしまいました。
それで利が得られる人たちは賛同します。
とにかく欲を満たすものが手に入るならば、なんでもいいのです。
人間なんていくら死んでもまた生まれてきますから、どうでもいいのです。
それが利己的な人の発想です。精神向上は「頑張って考えなくてはならないこと」を考える人しかできないものです。
頑張って欲を満たすための算段を考える方に力を使う人もいます。
社会的に正義になれば大衆は許してくれます。喜んでさえくれます。
そんなに大衆は賢くないので、騙すのは容易です。
知りもしない、見たこともないものでも話を聞いただけで知った気になってくれます。
教えたことを知っていることかのように思い込んで、人生そのものを生きてくれるのです。
物の価値観も、生き方も、なんでも意のままに操られてくれます。
与えたものを使わされているだけなのに、自分で使っている気になって喜んで使ってくれます。
本当に意のままに操れるものです。
意思などありませんから、簡単なことです。
そんな風に意のままに操られている人には、ストーリーがあります。
自分に設定があります。
望ましくないところで言えば「私は毒親育ちだから幸せになれるわけがない」
これで終了です。簡単に諦めてくれます。
我慢して、不服でもその設定どおりに生きてくれます。
逆に、「私は恵まれた家庭で育った権威ある人の子だから、特別扱いしてもらえる」
この場合も、勝手に周りの人がそうしてくれます。
意のままです。ストーリーさえ信じ込ませれば、意のままに動かせます。
その設定やストーリーを作っているのは、自分達が見たこともない誰かです。
勿論、現実にはストーリーなどありません。設定もありません。ただそうである事実だけが存在しています。
しかし、「こうなるものだ」と思い込ませれば、自然の摂理にどんなに反したことであっても、人間が我慢して頑張ってやってくれるのです。
誰かが「こんな理想郷を作りたい」と言い出せば、あらゆる力を駆使してたった一人が観たい世界を作ろうと力を貸すのが大衆です。
意思を持って参加せずにいれば、意思のない人たちに迫害されます。
人間は集団からの排除を恐れるため、段々と意思のない大衆が増えていきます。
とにかく、思い込ませた人が勝ちなのです。
そのやり方で生きるために、「他人に良く思われよう」と権威ある人たちの真似っこをして大衆も生きるのです。
その利は微々たるものですが、それでもあやかれるなら同じ生き方をするのです。
真似したら自分も得できる!と思ったら、真似するのです。
そして望みを叶えて喜ぶのです。
自分の人生はありません。ただその場その場で欲を満たしたいだけです。
それを繰り返して色々欲を満たして死んでいきます。
それが外ヅラで生きている人たちの「楽しい人生」です。
我慢しても、嫌なことがあっても、気に入らないやつをやっつけて言うことを聞かせればいいのです。
または、他で同情を買い、誰かを悪者にする「ストーリー」を無関係な人に思い込ませて他人の力を使うのです。
多くの人は、そのように自分だけの欲を満たし続けるために生き、死んでいきます。
人類がそんなものなのです。
しかし素敵なストーリーを体験できます。
頭の中で想像して、自分をどんな人にでも変えることができます。
ホモサピエンスが楽しんで生きていけるのは、その想像力のお陰です。
想像を楽しんで生きられるから、人生が楽しいのです。
自分を良く見せて想像上の人物になり切れば、本来の自分では得られないものが得られます。
一時のことですが、一時楽しみたいだけなので別にいいのです。
何も本人も本気で思っているわけではなく、本気にしてもらいたいだけなのです。
現実を知らない人はいません。自分のことについてだけは知っています。
ただ、「他人のことについてストーリー設定を信じてしまった人」は、自分の設定と相俟って他人のストーリーを手伝っていくことになるのです。
相手のストーリーに合わせて動けば、自分の設定に合わせた人になれます。
「いい人」になれるストーリーを運んでくる人がいれば、喜んで知りもしない人を悪者にすることに加担します。
そして自分が悪者にされた時には被害者となって同じく「いい人設定」の人に救いを求めます。
こうして持ちつ持たれつで幸せを守って生きているのです。
想像の世界を互いに守り合うことで、気分よく優越感に浸って生きていけるのです。
その楽しみを選んでいる人と、ストーリー展開を放棄して実際の自分で生きている人がいます。
選んでいるだけなのです。
自分の設定を放棄できない人は、どうあっても他人のストーリーの中で生かしてもらうしかありません。
自然に起きたことに沿って生きるには、自分の理想の設定を捨てなくてはなりません。
それでは生きている楽しみが無くなります。だから放棄しないのです。
理想の人として生まれきた、私は特別な存在だ。
この設定だけは手放せない。それは多くの人が理解できるでしょう。
自分だけがこの世で特別な存在なのですから、それを放棄するなんてことは到底無理です。
最高の人生じゃないですか。特別な存在として生まれてきたなんて。
そんな最高の設定を捨てて、ただの人として生きていくなどいいことが全てなくなるようなものですから、選びたくないのは寧ろ「普通」と言えるでしょう。
それに、社会的にも周りの人にも許される形で誰かを犠牲にすることができるし、悪いことをしていることにならないままで欲しいものまで手に入るのです。
最高でしょう。
自分は安心安全な立場にありながら、自分だけ特別な存在としての人生を生きられる。
何をしても誰かが救ってくれますから、最高の人生を生きていけます。
どんなに苦労しても、その話を聞いた人が新たに欲しいものをくれるのです。
この生き方を選ぶ人が、ストーリー重視であるのは当然です。
ストーリーあっての幸せですから。
誰かのストーリーで悪者にされても、その分見返りとして他で欲しいものがもらえます。
だからいいのです。
権力を持てば正義を振りかざすことで、何をしても認められるのです。
欲しいものはどんどん手に入るし、他人にはいくらでも言うことを聞かせられる。
最高の人生なのです。
現代社会の多くの人の心からの望み、憧れの人はヒトラーです。
社会的に既に良くないとされているから言わないだけで、やりたいことは彼と同じです。
独裁者ということです。
沢山のプチ独裁者がいて、沢山のストーリーが作られます。
より力ある独裁者が社会に通用するストーリーを作ってくれるので、それにあやかる形でプチ独裁者たちはストーリーを作ります。
他人の設定を利用して、それになぞらえて二次創作したストーリーを作るのです。
それにより、範囲は小さくとも独裁者になれるのです。
独裁者と独裁者が戦うのです。
その枠外にいる人は、ストーリーなんて知りません。
誰かが言っていることは、言っているだけのことです。
ただ、代わりに「起きていること」に対しての観察力が優れています。
ストーリー展開を作ることに長けた人もいますが、それを放棄した人はした人で、別の能力を育てています。
見せかけること、説得に力を注いできた人はその能力を延ばしました。
どうであるかの事実を重視した人は、妄想を振り払い状況を認識する能力に長けました。
どう生きるかにより必要な能力が変わるので、そうなっただけです。
能力は長い事培っていかねば育たないものです。どっちを選んでも苦労はあります。
何に喜びを感じるか、それも人により違います。
私は特別な人、という設定を選んだ人は、とにかく親離れはしません。
そうしないと、特別な人でいられなくなりますから。
父は父、母は母、という存在である。
その設定なしに、自分だけ特別になることはできません。
代償として成長を諦めただけで、見返りとして得ているものもあるのです。
親も人間なのだ、というのが事実ですが、そうなると自分から見た親は一側面でしかない、ということになり、悪者にすることもできなくなります。
親だけが、好きに悪者にしても関係が切れない安心安全な存在です。
親を犠牲にして作ったストーリーは、一番安心なものなのです。
何も悪くない、被害者の私であれば、いつまでも特別なものを待ち続けることができます。
待っていること自体ではなく「特別な存在だから」の部分が重要なのです。
そして、その頂点みたいな人が時々現れるのです。
今もいますが、社会的に独裁者になっていける人です。
独裁者は必ず正義を掲げます。
ストーリーがないと許されないことをするからです。先に思い込んでもらわなくては、今からやることを誰も許さないでしょう。
「あいつは悪者だから殺してもいいのだ」という流れを人の頭の中に作らないと、ただの人殺しになってしまいます。
だから、洗脳は大切なのです。
最も重要なのです。形あるものを駆使して人を洗脳していき、自分が望んだことが起きていると思ってもらわなくてはなりません。
思い込ませ続けるための努力は惜しみません。
気にいらなくなったら、また新しいストーリーを作ります。
「やっぱやめた」でやめられるのです。
「前はそう思ったけど、やっぱりそうじゃない」とか「最初はそう思ったけど違った」と理由を作り出し、もう一度新しいストーリーを作るために、前回まで「良いもの」としたものにはまた「悪いもの」に変わってもらい、もう一度「酷い目に遭った人」のストーリーを一からやり直します。
元々、被害者設定で特別な人役をやっている人は、このストーリーは外せない流れなのです。
「酷い目に遭った人」でスタートしないと、自分の設定上の流れを作れません。
最初は自分を救ってくれる人!と良いポジションにつけた相手でも、望んだ通りになってくれないと不満が溜まってきたら、今度は悪者役に変えてストーリー変更するのです。
何度でも同じことを繰り返しますが、大事なことは「私は被害者」である部分です。これは既に自分の人生そのものを作る軸になっているので、変えることはできません。
なんとかそのスタートで、望んだストーリーのまま死ぬまで続けなくては成功にならないのです。
作り直したストーリーは、また別の誰かに思い込んでもらいます。
他人が自分の望んだストーリーを信じてくれる限り、本人は幸せなのです。
ただ、死ぬまで望んだ通りに進まないから不満があるのです。
そのうち自分が相手を操らなくても、望んだ通りに向こうから勝手に動き出すことを期待しているのに、いつまで経っても勝手に自動的に望んだことをし始めてくれないから、「こいつはダメだ」になるのです。
とはいえ、そんなことが確実に起きるなんて確信を持って信じているわけではありません。
その場その場で気分を楽しみたいだけなのです。
そのためのストーリーです。そして自分の役どころです。
それで身を守るのです。
それにより、欲を満たすためです。
自分だけしか望んでいないことを叶えるために、他の人にも利を与えて手伝わせるのです。
勿論、心通う誰かなんていませんが、そんなことは最初から望んでいません。
そんなものを望んでいる人は、最初から「自分だけが特別」という孤立した立場になろうとしません。
仲間が欲しい人はやらないことですが、人類の中で自分だけが違う存在であるという優越感を重視した人は孤立したとしても「優れた人側」として孤立するならそれでいいのです。
欲を満たす時、してもらいたいことをしてもらう時でも、素直に「こうしてほしい」とお願いはしません。
全てはストーリーの元に行われなくてはなりませんから、他人がそうしなくてはならない理由を作ります。
そうやって、次々望みを叶えていくのです。
現実にはストーリーなんてありません。
人間はただの動物です。
生まれてきて死んでいくだけです。繁殖して老いて死ぬ。それだけです。
しかし、その間に育てたり奪ったりしながら、想像を楽しんで生きているだけなのです。
それ以上のことができるまでに発達した人たちは、ストーリーを信じません。
そんなものはない、と既にわかっているからです。
例えば、名の知れたところでは人類の知性と呼ばれるユヴァル・ノア・ハラリ氏。
神様なんて誰も見たことはないのに、「神様がこうしろと言っている」と誰かが言えば、ホモサピエンスには想像力があるから信じ込んで人々が言われたとおりにしてくれる。
彼はそのように述べていますが、わかっている人はわかっています。
神の力を授かったとか選ばれたとか言い出すのは、ただ自分の望み通りにしたいだけだからだと。
そのくらい認知能力が高くなり、言われたことを現実として信じ込まない人になると、もう誰がストーリーを語ろうが、それを事実として認知してくれないのです。
「って、言ってる人がいる」
冷静にそう考えてしまうからです。そして現実的に自分で考えてしまうので、騙せないのです。
その代わり、自然に起きたことを楽しんで生きています。
殆どの人が他人のストーリーを真実だと思い込んで奪われていく自由を、認知能力が高いために奪われずに生きていけますから、社会そのものが同じであっても精神的にはより自由に生きていけます。
一方、ストーリーを信じ込ませて他人を意のままに動かさねばならない人は、ひとつに欲もありますが、自分の存在価値を他人を介してでなくては感じられないからでもあります。
自分で自分を確認し、精神的に自立できないのです。
人をバカにできるから自分は優れている、と思えます。
他人が同意してくれるから自分が正しい、と思えます。
この時もやはり思えるだけです。
そう思い込み続けるために、どうしてもストーリーも他人も必要なのです。
素晴らしい人生を歩めそうな気がしますが、実際には苦難もあります。
自分の意のままに他人を操り、それができてもできなくても自分は特別な存在として生きていけるならば最高である気がしますが、難点として「自由を捨てなくてはならない」という苦難があります。
自由を選ぶ時、自然に合わせなくてはなりません。
「これはこういうものだから…」のストーリー設定を捨てなくてはなりません。
何が起きるかは元々知らないのですが「何を起こさせるか」を決められなくなります。
他人に言うことを聞かせられないと、未来が不安になります。
どうせ最後は死にますが、他人に言うことを聞かせられないと他人がどう動くかもわからないので不安なのです。
ストーリーに守られる以上、自分はそのストーリー上の人物として生きなくてはなりません。
それだけが、難点と言えるでしょう。
自由を放棄しても、現実以上の人として生きていけるなら最高にいい人生になる気がします。
やらされるにしても「社会的に理想的な方」ができるのですから、一生決められた中で生きていても得することばかりです。
自由がない。
その程度のこと、と思えます。
その程度のことです。
その程度、と思えば、今後決められたストーリーを生きるとしても、案外幸せを感じられるかもしれません。
なんだかんだ言っても食べて寝て、生きてはいけますから、自由にはなれないとしてもその分贅沢ができるならば万々歳でしょう。
先日、異国を支配に行った人を見ればいいのです。
彼の人生こそ、最高の人生でしょう。
あそこまで自画自賛してなんでも思い通りにできたら、最高でしょう。
彼はみんなの心の憧れです。
大衆がやりたくてしょうがないことを実際に叶えている、理想の人と言えるでしょう。
狭い範囲でしかストーリーを信じ込ませることもできず、メディアの力を使うこともできない。
そんな大衆として生まれた人たちは、さぞ彼が羨ましく思えるでしょう。
せっせとひとりひとりに何かしては話して聞かせなくては、たった一人も思い通りにできない。
そんな力無い人にとっては、彼は正に自分のなりたい理想の姿に見えるでしょう。
人間の中には、「この社会はいつ誰が作り出したか」も考えることなく生きる人も多くいます。
誰が言ったかわからなくても、言われたからそうなんだ、と思い込んでくれる人が沢山います。
それでいいのです。
そのような人がいないと、自分だけのストーリーを叶えることができないからです。
小さな範囲でもいいから、独裁者になりたい。
それが人が当たり前に望む現実でしょう。
独裁者になりたいと言葉で理解しているわけではありませんが、自分を中心にした世界を作りたいということは、そういうことです。
頭の中には自分が正義の味方だったり、素晴らしい人だったりする設定やストーリーがありますから、それを語って語って、語りつくして生きていくのです。
そのような人が弱いのかと言えば、僕はそうでもないと思います。
心理的には成長しない人は、孤独に耐えられます。
物理的に意見が合う人、一緒にいる人さえいれば、精神的な孤独には耐え続けて生きていけます。
独裁者になれる人の強さは、それだろうと思います。
形あるものを得ても得ても心から満たされることはありませんが、見えるもの聞こえるものだけを現実だと思い込む能力に長け、不安になってもまた誰かに思い通りのことを言わせたりやらせたり、それを死ぬまで続けながら生きていく強さがあります。
特に個別に人に対しても執着がありません。
個別認識していません。だからこそ、誰がいなくても代わりがいれば気が済むし、他人が動いてくれればそれでいいのです。
自己執着が強いですから、他人は誰でもいいのです。
表面上思い通りに動くならばよし、そうでないなら捨てる。
ただそれだけのことで、非常にドライな生き方と言えるでしょう。
感情が湧いてくることはないのです。
怒りが起きても、「この人を失った悲しみ」などの複雑な感情を知ることはありません。
認知能力が発達すると、どうしても辛い感情を強く感じなくてはなりません。
起きたことが何か、の認識が変わるからです。
その代わり、小さなことでも喜びを感じるようになるのです。
他にこんなことをしてくれる人がいるだろうか?と考える人と、その人がしてくれた内容が気に入るかどうかを考える人では、同じことが起きても全く感覚が違います。
認知能力が低ければ低いほど、思い通りのことを起こさなくては喜べなくなります。
大きな力無しでは幸せなど感じないのです。
ただ、恐らく、死ぬときには違うことを考えるでしょう。
もうおしまい、となるのですから、振り返ってやっと「あの時は特別なことが起きていた」などとわかるのでしょう。
全て終わらないと、それが当たり前かどうか、判断できないので仕方ないのです。
自分が特別な存在なのかどうかも、死ぬまでわからない人が大勢います。
死んでもわからないのかもしれません。自分は死んで行くので、世界も同時に消えたように思えるでしょうから。
僕は数年前亡くなった母が、亡くなる直前まで「まだ続きがある」と思い込んでいたため、入院した病院で死を待つだけなのにきょとんとした顔をしていたのが忘れられません。
もう六十年も生きたんだから、十分やりたいことはやったでしょうに。
まだ、これから、外から、何かがやってくる。と思っていたのです。
頑張ってきた私、をいつか認めてくれる人が現れる、と信じて生きていた人ですが、終わりなんてあっけないものです。
人の一生なんて、他人にとっては本当にあっけないものですね。
僕もあっけなく死んでいくだけですが、誰もがそうです。
他人なんて死んだら忘れられておしまいです。
死んだ後に感謝されたくてしょうがない人たちもいますが、死の瞬間意識は消えてその後は知ることなどできません。
不自由とは言え、他人が望んだことをしてくれたなんて人たちは本当に幸せなことです。
人様が自分の未来を削り、何かを諦めてくれたのですから。
自分が絶対にやりたくないことを、してくれた人がいるのだから、本当に恵まれている人たちです。
死んで行く時に、プチ独裁者であった人には聞いてみたいものです。
「人生たのしかった?」
これが一番気になるところです。
特別な存在として生きた人生、楽しくないわけがありません。
この世の主人公として生きた人生ですから。
それでも、死ぬ直前に後悔する人が絶えないのは、なぜなのか。
不思議なものです。