男がホイホイ近寄れるような女は安い。
近寄り難さがあるから本物なのだ。
簡単に寄り付いて来られるのは、それだけ安いからだ。
好かれているからではない。
だから、ハーレムが欲しい人は父か母をやっているのだ。
「安心できる人」になりたいのだ。
異性の場合は安心できる人と言えば父と母しかない。
恋愛感情的に好意を持てば、無意識に自分を守ろうとする。
「傷つくリスク」が生まれるからだ。
好きだからだ。
なんとかして好きになってもらおうと縋り付かれるのは、モテているからではない。
表面的にはちやほやされているから好かれていると思われるだろうが、そういう類のものではない。
そしてお母さんとセックスしたいのはマザコンだ。
お母さんに受け入れてもらいたいから、「身代わり」として存在しているのだ。
「みんなの母になりたい」
聖母のような存在になりたいのだろう。
それにしても、ママ活の人といい、合コンの時といい、僕は友達に騙される。
僕はそのようなことには疎いし、関わりたくないのであまりよく知らない。
誰もが自分たちのように節操なく生きていると勘違いしているのだろうが、そんなことはしたくない人はしたくない。
あんなものは自信がなく臆病な人間がやることだ。
人を相手にしながら自分は勇気が出せない。
傷つくリスクも犯せないから、寄り付いてもらえそうなもので惹きつけて、相手の様子を見てはこの人じゃない、あの人じゃない、とあたかも「選んでいるかのように」扱うのだ。
優越感に浸ることで自信の無さを紛らわせているだけだ。
一度も本気になれないのに、あの男この男、とその場その場ではうまいこと言いながらちょっと体験だけしておいしい思いをしようとする情けない人たちだ。
うまくいくかいかないかなどよりも、その時その時、本気で接している人の方が遥かに美しい。
傷つかないように人を馬鹿にしている人よりも、傷ついて泣く人の方が人としては遥かにマシだ。
人を物扱いしているといい気分になる人がいる。
「この人ならと思ったんだけどねえー」
あの人もこの人も気に入らないのだ。
自信がなくて本気にもなれないのに、人のあら捜しをして「これ以上は進めないようにする」のだ。
ただ勇気がないだけだ。
一生その先には行けない。
だが、夢のハーレムで本気になる恐れから逃げていた方が、彼女たちは現実逃避ができていいのだろう。
本気で生きてる人に本気で接してこられたとき、その瞬間に勇気を出せないようでは、待ち望んでいる「本当に感動する体験」などできないだろう。
本番にやり直しはきかない。
あ、まずい、と思ってから何かしたところで、もうその時は戻ってこないのだ。
僕はかつて本当に愛し合う体験をしたが、夢みたいな話ではなく最後には別れている。
だが、どちらも本気だったから、「愛し合ったまま別れる」という奇跡的な別れを体験した。
本気にならなかった人は後悔する。だから恨むし嘆く。
なかなか出会わない相手だが、本気で生きている人同士しか体験しないものなのだ。
その勇気がない人間には永遠に手に入らない感動というものがあるのだが、ハーレムに逃げ込みたい人はそんなことも知らないまま死んでいくのだろう。
ハーレムは自分が傷つかないように異性に守ってもらうための楽園であり、その楽園を維持するためには自分だけが特別な存在でい続けなくてはならない。
一対一の関係を成功させるためには、多数に守られる状況から脱する覚悟が必要だ。
だが、そんなことできないから、結婚で失敗しては女同士で群がりつつ、男は複数人をとっかえひっかえ、という節操なし愛もなし情緒も本物もなしの楽園に逃げ込んでしまうのだろう。
現実で失敗したのに複数人にもてはやされて、離婚した事実からも目を背ける。
現実を受け入れ絶望を乗り越え、失敗を糧に一人の道を進んだ人は、今度こそ真に美しい人として花開いていくのだろう。