教授は、精神世界を考えれば恐ろしい方だと思う。
周りの人が病気になって、倒れていく。
それに対してなんら心を動かさない。
本物の神経症とは、こういうものなのだろう。
彼の本で「癒される」という人は、恐らく誰かを憎んでいる。
自分は悪くない、悪いのは相手だった、と知って「癒される」と思うのだろう。
しかしそれは自分を上に立たせ、相手を下にすることで得ている「優越感」に過ぎない。
宗教の手口と同じだ。
苦しんだり悩んだりしている人は、自分の苦労をわかってくれる、肯定してくれる人に弱い。
「あなたは悪くない、悪いのは相手だ、あなたはよく頑張った」
そのように言われ、吸い込まれるように導かれていく。
そこには崇高な理想がある。自分たちは正しい人間だと安心できる。
なぜならば、「あいつらが悪だ」と的にする人間たちがいるから。
自分たちは美しいものを見ながら「悪い人たち」を叩く。やっていることはいじめ、迫害だ。
だが自分たちは理想的なものを見て生きているから、自分がやっていることが人間に対して何をしていることになっているのか、全く考えない。
彼の述べることは、自己肯定なのだ。
「人の気持ちを考えない奴がいる」と聞けば、それは自分の思い通りにしてくれなかった他人への恨みからなのだ。
自分自身が「人の気持ちを考えた時のこと」を思い出して話せるならば、人の気持ちを考えない奴がいると述べる時に無視された相手の身を考えて可哀想に思えて悲しくなるか、人の気持ちを考えた時の自分の気持ちを思い出して、そうでない人の身になって気の毒に思う。
僕は大抵前者の気持ちで述べることが多い。
彼からは憎しみを強く感じた。過去に恨みがあり、憎い人間がいるということはすぐにわかった。
共感は想像して自分ではない人間に成り代わり感じるものだ。
自分と同じだと思って自分の過去を思い出して「同意」している場合とは全く異なる。
ラジオのことも、当初は知らなかった。僕はただ勉強したかっただけだから。
自分が出演することになり、「そんなに簡単に人のことを決めつけていいのか」と恐ろしくなった。
帰りは毎回とても辛い気持になり、涙をこらえながら帰った。
とても悲しい気持になった。
だが、彼のようにすると「ウケる」のだ。それは僕も知っている。
この分野でこのような人がやっているとは思わなかったが、若い頃からそれは知っている。
人の不幸や、悪人を裁くようなことは大衆にウケる。気分がいいのだ。
ハッキリ言えば、悪行でしかない。
だが、それが好きな人がいる。
だから嘘でも構わないのだ。生み出していくのは「金になる」からに過ぎない。
もっと強く発言するようにと注意された時も、「能力があるんだから自信を持て」という叱咤なのだが、僕は自分が正しいことがわかったところでそれが偉いともすごいとも思っていない。
彼が「正しいことを言っている側」であることに優越感を持つのだとわかった。
彼の常識では、それはいいことなのだろう。
だが、自分も間違っていたことがあるならば、間違っている人に対して他人から「お前は悪いことをしている」と指摘されるのがとても恐ろしく、傷つくことであるとわかるはずだ。
そのためのフォローを用意せずに、親しくもないのに発言すれば相手は行き場がなくなる。怖くなる。
悪いことをしてしまっていても、本人が悪さをしようとしてやっているわけではない。
仏の道の救済は、あくまでも「施し」を行うことだ。
それにより、餓鬼の心が改心するのを促すのだ。
説くのは道理だけでよく、仕組みがわかれば、あとは施しでいいのだ。