どんな人も人間だから心がある。
悪いことをした人だけは傷つけても集団で攻撃してもいいわけではない。
何ができてもできなくても、人間だ。
人間は実際、本人に会ってみないと、そして普段の相手をよく見てみないとわからない。
僕は自分の気が長いから、人もつい同じだと思って疑わずに「一体何をしようとしているのだろうか」と良いことが待っていると期待して見てしまう。
僕に何かしてくれるというのではなく、善行の一部を見ている気分でいる。
僕は「善行」の手伝いなら喜んでやった。そうなのだろうと最初は思っていた。
だが、彼は違った。
目の前でいじめが起きても、それが自分のために起きているとしても、知らん顔をしている。
「大学の先生たちの殆どは、嘘をついている」
これが最近ある科学者が意を決して言ったことだ。学生たちにも嘘をつかせていると。
嘘をついているというより、「裏表がある」と言った方がいいだろう。
裏と表が全く別人。表からは想像もつかないことを当たり前のようにやっている。
博学な人達は、それに対する理由付けのレベルが高い。
なんとなく「そんなものか、仕方ないのか」と思えるような理由をつける。
前に何をしていても、話がコロッと変わる。それについての説明もない。
間違っていると気づいたら、「もう今は違うからいい」という顔をする。
それぞれ、言い訳の達人だ。大衆を如何に信じ込ませるかの勝負でしかないのだ。
真実など、彼らにとってはどうでもいいことなのだ。
まして心の中の行いなど、どうせ見えないものだからどうでもいいのだ。
ラジオに出ていた頃、例の出版社のことで僕は三か月殆どかかりっきりになっていた。
一般の人はそれだけ無給で時間を費やすことは、生きる上でかなりの犠牲だ。
勿論僕は一般の人と比べてももっと生きるのがやっとの人生を生きているのだから、本当に大変だった。
僕は本当に人が元気になるためにはどうしたらいいのか考えて活動をしている。
そのためにコツコツ費やして努力してきて、もっと勉強しようとしていた矢先に出会ったのが教授だ。
話がご破算になった時に「よし、次だ!」と彼は次の出版社に推薦しようとした。
「もうこれ以上犠牲を払い続けたら生きていけなくなる」と思ってその場で断った。
怒鳴りつけられたが、とにかくそれで終わることができた。
当時まだ幼かった娘が、家で一人で待っている。自分で教えた通りにご飯を作って食べて待っている。
「僕が大切にすべきものは、こっちの方だ」と思った。
自分の身近にいる人さえ大事にできない人間が、誰に何を教えて救えるだろうか。
彼のみならず、権力を持つ年老いた先生たちは、「できのいい若い連中」を利用している。
大学にいるポスドクの人に話は聞いたことがあった。若い人たちを奴隷のように使うと。
僕のように、自分が持っていない能力を持つ人間がいると、それを使おうとする。
自分の道具にするのだ。
更には「言っていることをパクる」のだ。
自分は何も述べず、他の人たちに話を先にさせ、必ず自分が優位に立てることを言う。
それまでの本人の意見とは全く異なる、否定的な意見だったとしたら、まずバカにする。
バカにしながら、バカにした人間の述べた考えを自分のもののように人に話す。
結局、権威ある人たちは発言力が強い。だから力ない人たちに意見をさせてはいくらでも自分が思っていることを「もらう」ことができるのだ。
他人のものを奪い、自分のもののように使って自分の身を輝かせるのだ。
僕はさる先生に意見を求められた時、当然様子を見て話す内容は考えていたが、「普通の家の人なら知らないこと」を述べた。
それをパクられた時、もう言ってはいけないと思った。
殆どの人は知らない世界がある。存在すら知らずに生きている。
しかし「知らない」を認められず、自分が一番わかっている顔をしたい老人たちは、人々の意見を自分の物にしながら、奪った相手を蹴落として生きている。
知らない人たちには、自分がすごいと思ってもらえる。
だから意欲ある若者たちは真っ先に食いつぶされていく。