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恋愛・結婚、なぜいちいち破綻しているのか

 先日気づいてハッキリ言葉に変えられるようになったことです。

 是非皆さん真剣に考えてください。

 なぜこんなに恋愛や結婚で失敗して、相手を悪者だと思い込んでいる人が多いのか、何をしているのか、その理由がわかりました。

 「私をわかってくれる人」と、結婚しようとしている人が、失敗する人です。

 私をわかってもらおうとする、そして私をわかってくれる人を「特別な人だ」と思い込む。

 しかし、「わかってくれる」はなぜ起きているのか、何をしたらわかってもらえたと感じられるのか、それを自分でもわかっていない。

 自分で説明できない上に、自分にはどうしたらできるのかわからないことなのに、なぜか「わかってくれる人」という適当な存在が実在していると思い込んでいます。

 結論から言っておきます。

 「私をわかってくれる人」は自分にとって特別なわけでも、相手が自分を特別に思っているわけでもありません。

 偶然にも親が「私をわかってくれる親」であった人はいいとして、他人の中に「私をわかってくれる人」がいたとしても、それは何も特別な関係ではありません。

 子供を受け入れる親、他人を受け入れる人、これは「適応能力が高い人」のことです。

 自分以外の存在をそのままにして、自分が工夫し変化することで現実に対応できる人です。

 ですから、どんなに自分が我慢しようが頑張ろうが、親含め自分以外の誰も「適応能力を持つ人」に変えることは不可能だということです。

 自分が頑張った、我慢した、喜ばせた、すると、相手は様々な他人をそのままにして適応できる人間に変わった。

 親を変えたい人、他人を変えたい人がやっているのはこれです。

 一応確認しますが、理解できるでしょうか。

 自分がどんなに努力しても、相手の脳が発達したり、能力が開花したりすることはありません。

 相手自身が自分の意思で努力しないと、相手の能力は伸びないのです。

 適応能力は少しずつ育てていくしかないものです。特に、人間に適応していく場合は様々な人と知り合い、その中で考えて工夫して、自分自身が変化していかねばなりません。

 人はそれぞれ違います。

 それでも、それぞれの人とそれなりに楽しく会話できるようになるには、自分が様々なパターンのコミュニケーションを取れるよう、色々な顔を生み出すしかありません。

 勿論、「楽しく会話する」わけですから、自分自身も楽しくなくてはなりません。

 それなりにそれぞれと楽しくやり取りできるようになれば、集団生活の中でも自分が楽なのです。

 人とそれなりに楽しく仲良くなれると、相手が好きになります。

 仲良くないなら気になったことでも、気にならなくなります。

 好きな人なら気にならないのです。

 好きになれば、偏見も少なくなって行くのです。

 反対に、自分に適応させようとするのが、自分中心の世界から出ない人です。

 完全に自分に適応しながら、何をしても離れて行かない存在を求めます。

 つまり親です。

 どんなに適応能力がある人でも、元々知りもしない他人の本物の親になどなってくれません。

 親が他人に適応しない独りよがりな人だと、子供は自然なままでいても平気な人、自分に適応してくれる人を求めます。

 適応してくれる人がいると、こう思います。

 「この人は自分が好きなんだ」「この人は自分を受け入れてくれるんだ」「この人は自分と仲良くなりたいんだ」

 これが、本来であれば親に対して思うことであり、「自分は特別なのだ!」と思っていても事実そうなので問題ないのです。

 ところが、親が適応してくれない場合は「自分は要らないんじゃないか」などと自分の存在意義を疑うようになり、他人の中に適応能力が高い人を見つけてしまうと、「この人こそ自分の特別な人だ」と思い込んでしまうのです。

 適応能力が高い人といれば、どんなコミュ障も他の人といる時より遥かに楽しくうまく会話できている「ような気がする」ものです。

 それを「仲良くなれている」と感じるのです。

 自分は何も変わっていません。自分をどんどんアピールしていい気分になるだけです。

 その自分にさえ適応してくれる他人が、稀にいます。

 僕はそのチャンスを一度でつかみ取り、親離れしていきました。

 しかし、僕の場合は稀で、殆ど場合は本物の親のように扱ってしまうようです。

 反省しない、後悔できない。

 自分にとっては「いい話」ですから、相手の存在さえ無視し続ければそのまま何も傷つかず恥もかかずに生きていけるのです。

 成長する時は傷つくのが当たり前ですが、その痛みを恐れて乗り越えない。

 そしてせっかく適応してくれた他人を蔑ろにし、自分自身は相手から適応する能力を学ぶこともなく、自分一人のストーリーの続きを生きていく「特別な主人公」となるのです。

 人に適応すれば、それなりにどんな人とも楽しくやっていけます。

 ただし、それは「深い関係ではないから」です。

 僕がよく例に出す妄想恋愛ストーカー女子ですが、もしそこまでの性格でなくとも万が一告白されたら断りました。

 なぜならば、「生理的に無理」だと思う人だったからです。

 しかし、そんなことは思っても言えば傷つくことです。

 相手を傷つけることは言葉にする必要はありません。

 ちなみに、何が無理かと言うと、率直に言って「不潔、不衛生」だと思ったからです。

 僕が思う基準は、僕自身が普段どうであるかで決まります。

 みなそれぞれ自分が普通だと思う衛生観念の元で生活しているものです。

 その基準が違いすぎる人だったので、友達として楽しくやっていくことは可能でしたが、恋人になることは無理でした。

 そしてそんなことを我慢してまで、相手が勝手に好きだと思い込んだという理由でお付き合いなどするものではないし、したくはないです。

 これを読んでいる人が女子ならば、あなたが目の前にいるとき

 「話している分には面白いけれど、ちょっと身だしなみや行動において、だらしなく不潔な人だなと嫌悪感を抱く男」

 を想像してください。

 僕の場合はそんな感じでした。ただ、顔や態度に出したら相手は女子なので傷つくと思い、そこは考えないようにして会話の方だけ考えていました。

 僕は相手と親しい関係ではありません。僕が個人的にどう思うかなど、相手には関係のないことであり、余計なお世話だからです。

 大体、他人といれば必ず気になることはあるものです。

 「そんなことしない方がいいのに」と思ったり「そんなことするの?!」と驚いたり。

 しかし、それは口には出さないもので、自分自身が気にならなくなるよう変化するものです。

 妄想恋愛ストーカー女子の場合は、「その状態が気にならない人間に僕自身がなりたくない」と思ったので、無理でした。

 人格の問題もありますが、それ以前の話です。

 ただ、そうしたことは誰も言わないものです。

 気になるから親しい関係になろうとしていないのですから、それでいいのです。

 別に悪口を言うわけでも、嫌うわけでもありません。

 それが適応というものです。

 必要な範囲で人と仲良くしていければいいのです。

 運命の人のような特別な相手は、最初から違うのです。

 特別に憧れる存在は、運命の人ではありません。

 「自分と似た人」が運命の人です。

 表面では違うタイプでも、本質が似ている。

 道徳性や哲学において、考え方が似ているのです。

 自分と似たようなことを考えている人だから、コミュニケーションにおいても察することができるのです。

 口に出さなくても、何を言わんとしているのか、何を考えているのか、わかるのです。

 驚くほど気が合う人が、稀にいます。自分に似ているのです。

 そして、重要な点は「その時点で自分を好きになっていないと、相手を好きになれない」ということです。

 自分を嫌う人は、運命の人といながらその相手といがみ合っています。

 自分を嫌いなのだから、似たような人といると「嫌な部分」が気になって、それを変えたくなるのです。

 また、自分が「この人がいい」と思う人がいても、その相手を自分に似た人に変えようとします。

 人間は「似た者同士」で寄り集まるものです。

 自然なままの二人が出会い一緒にいれば段々と互いを知るほど好きにもなれます。

 しかし、我慢して装っている者同士が一緒にいても、互いに「自分はこんなにしているのに」と文句を言い合うだけになるのです。

 どちらにせよ「似た者同士」であることには変わりないのです。

 適応していく、という能力自体を、僕は自分に適応してくれた友達から体得しました。

 言葉で言うのは簡単ですが、出来るようになるためには自分を受け入れ適応できる人を相手に、自分に対してどう対処して接するか実際に体験して体得していくしかありません。

 僕は既に母親に適応し性格が歪んでいましたから、体得している人様とのやり取りを通じて、適応する術を身に着けるしかなかったのです。

 最初からないものはどうにもなりません。

 親は変えることもできませんから、能力だけ人様から体得しなくてはどうにもなりません。

 それを他人にもやろうと思って今まで「手本を見せ、体得させる」というやり方を実践してきましたが、誰もやりませんでした。

 別に他の人でも構わないのですが、僕自身も様々な人に適応する能力がある人を見つけることは難しいので、最初からわかっている相手から体得した方がいいと思っていました。

 例えば「知らないことに対する反応」を、相手のやり方を見て実践で学びます。

 僕の場合は「なんでも知っている人」になりたかったので、知ったかぶりをするか、知らないなら会話に参加しないか、そんなやり方でした。

 そこで、友達とのやり取りを通じて「相手のやり方を見て盗む」のです。

 技はそうやって他人から盗んで体得するものです。

 真似っこしてパクるということではありません。本質的なことを見極め、自分が何度も実践して身に着けていくのです。

 僕は誰にでも適応する自信があります。

 クラスの全員に話しかけて全員と仲良くなる実践をしたことは、以前にもお話しました。

 様々なタイプに適応していくためには、努力が必要です。

 それが「面倒くさい」と思って「向こうから適応してくれる人いないかな」と受け身で生きているのが、面倒を見てくれる他人を求める人です。

 しかしそれでは、誰とも「深い関係」にはなれません。

 適応してくれる人に対して自分も適応していかねば、親しくなることはできません。

 おんぶに抱っこの関係にしかなりません。

 自分自身が体得すればどこに行ってもそれなりにやっていけますが、相手ありきの関係しか作れないようではどこにいってもうまくいきません。

 何よりも、「私をわかってくれる人」がいればしあわせになれるという間違った考えで生きてしまいます。

 「私をわかってくれた!」ということは

 「相手は適応能力が高い!」ということでしかないのです。

 僕は母に対しても、自分が全面的に適応していくことで乗り越えていきました。

 母は最期まで誰にも適応しない人でしたが、僕が適応するからなんとかなったのです。

 「自分だけ特別な存在」という夢を諦められない人は、その他大勢が仲間に思えませんから、共同体感覚も生まれません。

 周りにいるのは「仲間ではない」という認識だからです。

 さて、皆さんはどうでしょうか。

 「自分をわかってくれる人」さえいればなんとかなると思っているならば、考えを改めた方がいいです。

 もし見つけたところでその人にだけ特別依存して、他の人がしてくれないことを色々してくれても最後には裏切られたとか、期待外れだったとか、妄想でしかない不幸に見舞われるからです。

 自分を受け入れ、人を受け入れ、自分を好きでいられるよう生きていれば、運命の人には必ずいつか出会います。

 その時のためにも、「こんな人がいてくれたら自分は好きになれる」と思う自分で生きていくことが大切なのです。