独りよがりな世界を脱せるかどうか。
これは簡単な問題ではなく、社会的に成功している多くの人は独りよがりな世界を脱していません。
今日、丁度世界のビリオネラと呼ばれる超富裕層たちが、なんでも手に入れているのになんにでも文句を言う、というニューヨークタイムズの記事を読んでいて、さもあらんと思っていました。
欲しいものがなんでも手に入ると、独りよがりな世界は脱せ無くなっていきます。
言う事を聞いてくれる人がいてもダメです。
独りよがりな世界に居続けるには、他人が望みを叶え続けてくれる必要があります。
そのため、「この人なら許してくれる」「この人ならなんとかしてくれる」などの依存心が強い人は、いつまで経っても相手に依存して独りよがりな世界を脱しないのです。
独りよがりな世界とは、一体なんなのか?
自分の頭の中だけに作られた世界であり、完全に空想妄想の世界です。
人間は最初はその世界を生きていますが、ブッダの教えにもある道理を考え、見えなくてもわからなくても、人のことも尊重し、我を捨てて行けばやがて脱することができます。
ただ、そこにたどり着く人は限られた人であり、誰もが心が感じる幸福になれるのかと言うと、なれるのにならない人が殆どなのです。
今まで自分が生きている、と思っていた世界そのものが「なかった」と自覚するには、相当な恐怖心との戦いに打ち勝たねばなりません。
今までの継続をしている限り、何も変わらないのです。
しかし、深く考えることがなければ、今まで生きていた世界がないなんてことは到底信じられないことでしょう。
とにかく「深く考えさえしなければ」今まで通りに生きていけるのです。
他人のせいにし、他人に何かを要求し、常に他人ありきの世界を生きていけるのです。
今までの経緯を考えれば、自分が幸せになるためには誰かが我慢しなくてならなかったり、誰かが悪者になったり、自分以外の人の幸せがどうでもいい世界になるというのに、他人が不幸になる世界を思うより平気で人間は生きて生きます。
結局は「自分さえ良ければいい」の考えなのです。
誰かを悪者にすることで、自分を良い方にする。
自分で勝手にそう決めつけているのですが、「だから自分には特別な何かがやってくる」などと思うのです。
取り返しがつかないことをしてしまった時、もうそれは「取り返しがつかないこと」です。
僕も人生では序盤でそのような体験をしましたが、もう取り返しはつきませんでした。
取り返しがつかない、ということは、もうどうにもならないということです。
何がどうなるかというと、「もう自分が良い人として生きることかできない」ということです。
理由を言おうが詫びようが、自分が良い人にはならないのです。
最初から人のことを考えずに生きてきたならば、それは当然です。
とはいえ、往生できない人はなんとかして「自分の自我イメージ」を守ろうとします。
なんとかして「いい人」になるために、他人に我慢を強い、他人のせいにし、自分は今まで通りの「いい人」で生きようとするのです。
これは「いい人」ではありませんが、自分の頭の中で「今まで通りで大丈夫」にするために、他人に手伝ってもらって脳内の世界を維持するのです。
現実は一度過ぎたらおしまいです。
後から自分の気持ちをどうしようが、意識をどう変えようが、過去は変えられません。
自分が他人の過去の体験や、他人の意識まで変えることはできないのです。
僕は本当に親切な友人とその家族に出会い、一度の失敗で往生しました。
最初は「今までのストーリー」の続きを生きるために、友達に謝りに走ろうかと思いました。
しかし、それは相手に我慢を強いるだけになります。
僕が慌てようが、相手の過去は変わっていません。
自分自身が「もうおしまいだ」と絶望の淵に立たされた時に、慌てて友達に縋りついて、「今までの無し」にしてもらいたくなったのです。
友達は、最初から僕をいじめるような子ではありませんでした。他の子よりずっと優しい子でした。
僕が謝りに行っても、友達は諦めて許してくれるでしょう。
僕が諦めないために、嫌な目に合い尊重もされなかった友達が、過去の犠牲を諦めなくてはならない。
それはおかしな話です。
僕の場合は、自分がやろうが他人がやろうが、道理が通らないことは許せないという考えでした。
自分の時だけ許されるならば、僕自身がそうであって然るべき特別恩恵を与え続ける存在でなくてはなりません。
そんなものはないどころか、こっちの方が世話になってばかりでした。
僕の一族の哲学では、そのような時は切腹です。
言い訳をせず腹を切り、命を持って償うのです。
よって僕は精神の世界で腹を切り、これまでの自分を自ら滅して心を入れ替え新しい自分に生まれ変わりました。
「今までの続き」は、今まで良い目に合ってきた自分だけが進みたい道です。
これまで通りの目的を持ったまま、何度友達に許されても何度でも同じことを繰り返すだけです。
仏教においても、往生際は大切です。
今まで自分が生きているつもりの「自分が主人公の世界」などはなから存在せず、自分一人でその気になって生きてきただけなのだ、と自覚するしかないのです。
起きていたことは何もかも当たり前。
「悪人は自分であった」
観察と分析を繰り返して冷静に現状を把握し、自分のあらゆる行動を自分の責任として判断で動かなくてはなりません。
迷惑をかけただけで、ただ迷惑だった人、で終わる時もあるでしょう。
本当にただの「嫌な人」で終わりということもあるでしょう。
しかし、それもおかしなことではないのです。
自分だけが特別な存在だ、と思って生きている人が、他人を尊重などできるわけがないのですから。
やるかやらないかではなく、本人的にはそれで当たり前だったのですから。
ただ、自分の存在を勘違いしていただけ。
この世は私のためにはなかった、というだけなのです。
そして一般的に形ばかりで人を推しはかるので、「社会的に成功している金持ち」は心理的にも成長していると考えがちです。
というより、内面を気にせず物理的なものだけしか考えずに生きている人が多いようです。
人間性、魂、精神、という存在については、考えないのでしょう。
金持ちほど庶民には理解できないほど我儘です。
なんでも思い通りにしてもらえるとなったら、ここまで酷いものかと驚くくらいです。
内面的に成長するよりも、物理的に思い通りに動かす力を得てしまった。
そして内面的には成長していないので、いつもいつもイライラしていて不幸な人なのです。
なんでも手に入る代わりに、あれもこれも気に入らない。
細かいことがいちいち気になって仕方ない。
結局、何をどんなに得ようが、満足できない人はどこまで手に入れても満足できないのです。
今あるものに満足できる人は、人間性の向上によって幸福に到達できたのです。
向上の道は死ぬまで続きます。方向性の違いでしかありませんから、終わることはなく進んでいきます。
だからこそ、より幸福になって行く人と、より不幸になって行く人に分かれてしまうのです。
僕も少しばかり「金持ちの我儘」を実際に知っていますが、お母さん相手に我儘を言う子供レベルに我儘なことを言います。
庶民ならば発想すら出てこないような内容です。
内容については実際に接してきた人が故に話せませんが、とにかく、「そんなこと頼む人がいるのか」と驚きました。
しかし、バカにすることなどできないのです。
内面的に成長に向かわない人たちは、身近な人、当てにした人に対して、「子供レベルの我儘」を言っているからです。
欲しいものをどのくらい手に入れているかの違いはあっても、内面的にはなんら変わりないのです。
庶民だから我慢するしかないとしても、金持ちになったらみな同じことをやるでしょう。
なにせ「いくらでも我儘を聞いてもらえる」のですから。
その代わり、いつまで経っても「満足しない」餓鬼の地獄が続くのです。