私、という存在はこの世にいない、と気付かないまま生きていく人の方が多いですが、私、という存在はこの世にいません。
私が私一人だと思うならば、他人は人間ではないことになってしまいますが、人間ですから他人にとっては他人自身が「私」です。
この世に存在しているのに、見ることはできない、「私」という本人だけが知る存在。
その存在が物理的に誰かと口を利くことも見ることもできません。
しかし、確かにいる、ということは、自分自身が存在しているからわかるでしょう。
そして他人の中にいる「私」もいます。
形ある世界でのやり取りは、形だけでもやり取りできます。
ロボットのようにやり取りすることはできます。
しかし、心通うやり取りは、相手の中にいる「私」と、自分の中にいる「私」がやり取りするものです。
「私」は、誰なのかわかりません。自分でもわかりません。
意識だけの存在です。
意識については、未だに学術でも証明することができず、もしできたらノーベル賞ものだそうです。
心の世界を生きている人は、私は心の中で考えていることも含めて全部「私」で、他人は目に見えるものだけ、というやり取りをしています。
目の前にいる人はロボットのように見えていて、心が常にあると認識していないのです。
意識の存在がその体の中にいると全く考えずに、「見えるもの」とやり取りしているのです。
それが、誰とも心通わない人です。
この世に存在しているのは私だけ。他人は存在しないのです。
心の中の「私」は、誰の子でもありません。
肉体が親に貰ったものであっても、意識の存在は誰ともつながりがありません。自分でもどこから来たのか、いつからいるのかわからないはずです。
いつの間にか、気づいたら誰かの子として存在していただけです。
その「誰かわからない、一人で生まれてきた存在」が、目に見える他の人間の肉体を「意のままに操っていい気分になろう」とするのが、人を操作しようとしている人です。
私だけが特別だと考えていて、見えないものを認識していません。
これが「未発達」ということです。
見えなくても確かにいるのだから、常に「いる」と認識していないと相手は存在していることを無視されているのと同じです。
心の中にいる「私」は無視され続けていても、目に見えた何かで気を引けば他人はこっちを向く、と学習すると、安心するために常に他人に構われようとし続けます。
他人が望んだとおりにしてくれないと不安になり、気に入らないことがあると他人が許せなくなります。
しかし、これは「見えない他人の中の私」を見るようになれば解決します。
私はこの世にいない、ということを自覚する。
そして、誰からも見えない「私」を「見ている人」がいると、実際のやり取りで確認する。
それで、「私は存在しているとわかっている人がいる」と安心することができるでしょう。
今や親子、夫婦などがどんどん破綻していますが、親を恨んでいる人たちは、親の中にいた「私」と出会うことがないまま、過去の記憶を思い出してばかりです。
僕は母の中にいた「母自身の私」を知っています。
親も人間ですから、自分と同じように生まれた時から人生を生きてきた本人にしかわからない「私」が存在しています。
誰にも気づかれることがないまま死んでいくこともよくあることでしょう。
親も子も、形ある「概念上の存在」としてしか認識せず、個別に存在している「唯一無二の誰か」であるとすらわからないまま、そこに疑問も持たずに生きていくのです。
自分しかいない世界にいると、確かに「私は特別な主人公」であるかのように思えます。
しかし、その未発達な状態のまま生きていくということは、いつまで経っても心の孤独から解放されることがないということでもあり、終わりのない「誰も私をわかってくれない世界」の中で、救いを待ち続けることになるのです。
「私の中の私」と接している人に出会った時、自分自身が相手の中の「私」を見ることができるかどうか。
人間は実体験がなければ決して「実感」することはありませんから、「私」と接する人と出会った時しかチャンスはありません。
最初から「子供の中にいる「私」」を見ている親の元に生まれた人は、幸いだったと言えるかもしれません。
心の中の「私」を発見してくれる人に出会うと、「やっと私をわかってくれる人がいた!」と安心してしまうことでしょう。
親が心の中にいる「私」を無視している人であったならば、他人の中に「私」を見る人がいた時にどうしても「やっと見つけてもらえた」という感覚になり、相手が特別な私のために存在している人かのように感じます。
しかし、それこそ「心通う関係が作れる相手」であり、そこで「この人が私を救ってくれる、安心できる世界に連れて行ってくれる」と依存し始めてしまうと、せっかくの救いも無駄にしてしまうでしょう。
こうして生きていても、他人の中にいる「私」に気づいて生きている人はものすごく少ないことがよくわかります。
自分のことは考えなくてもわかります。私はいるとわかります。
しかし、他人のことは、ほんの少しでも「人の身を案じて人のことを考える」という姿勢がないと、意識してやることですからわかるようにはなりません。
学校で教わることもなく、やっているふりをしてもバレないことです。
意識の存在は、意識で見ることしかできません。
しかしそれがわかるようになったら、やっと「見えないものを確認する目」が開眼し始めたと言えるでしょう。
自分自身が「私が、私が」とどう説明しても、何をしても、どうあってもわからない人はわかりません。
他人からは、「言っているだけ」にしか見えませんから、嘘だと疑ったり、勝手に妄想されたりすれば、本当に存在している「見えない私」は誰にも存在していると認めてもらえないでしょう。
信じるか信じないかは、相手が自分を好きか嫌いかによる、と思えるかもしれませんが、現実にはそうではなく、常に「人の中にも私がいる」とわかって人と接している人がいるだけです。
「人間とは何か」
この部分の認識が、人により大幅に違います。
皆さんは、人に話しかける時、どこを意識して、誰に向かって話しているでしょうか。
どこに向かって話しているのかも意識していない、ただ「聞こえるところ」で話していればいい、そんな感覚ではないでしょうか。
どんなに「私」の存在を認められる人に出会っても、私自身が相手の中の「私」を無視していれば、やがて相手は諦めていなくなるでしょう。
しかし、自分がどんなに他人の中にある「私」を存在させず、「私だけが特別な存在だ」という世界を守り続けても、どんなに頑張って注目されることがあっても、結局「私だけが特別な存在」なので、心は孤独なままなのです。
心の世界にたった一人。
この世に確かに存在している「私」に誰も気づくことはないのです。
そして他人を見ようとせず、目に見える形で人に注目され、「私は存在している感」を味わうしかないのです。
しかし、喜んでいられるのも一瞬のこと。
注目されない時間は、やはり心の世界でたった一人なのです。
私が作り出す「私だけが特別な世界」を捨て、他人の中にも「私」はいるのだと認められれば、最初からそこにいる「私を見ていた人」にも気づくでしょう。
心の世界で私を見ている人に出会った時、それに気づくかどうかは自分次第です。
僕はずっと人の中の「私」に接していますが、母親に出会ったと勘違いする人は多かれど、何かが違うと気づいて「私」を存在させることができた人は、一人しか知りません。
「相手が頭の中で何を意識しているか」
これが、目に見えなくても自分にはできなくても、体感で全く違うと感じる理由です。
意識の力は、思うより重要なものなのです。
それは、どんなに言葉ではいいことを言われても、悪態をついてくる本当に自分を見ている人のように「実感できる温かい感覚」がないように、形あるものなど関係なく、今、起きている事実は必ず体感できるものなのです。
ただし、覚えこんだ理屈で起きたことを考える限り、形あるものだけ整えて、見えないものは何もかも捨ててしまうでしょう。
「私」という見えない存在も、自ら認めることなく、「誰か私を認めてくれ、わかってくれ」と何者かを求めて彷徨うことになるのです。
私は、私にしか認められない存在です。
その見えない存在が私の中にだけ「いる」と自覚した時、「他人の中にもいるはずだ」と思えれば、道は開けていくでしょう。
僕自身は、「私」で生きている人々を見ていて、憐れに思っています。
その不安は自分で解消させることができるので、何かを求めて彷徨う必要もないのですから。
しかし、誰かを求めて生きている時の「孤独と不安」な世界は、このまま生きていく人生には何もいいことがないと思えるほど、希望のないものとなっていることでしょう。
そこから一人でも多くの人が脱していくことを願っています。