僕はたまたま、戦国時代から戦っていた武士の家に生まれていたので、幼い頃から禅問答みたいな教育もありましたが、とにかく「死を覚悟させる教育」がありました。
これが本物である、と自覚させる教育です。
だって、でも、なんて言い訳はさせてもらえず、自分のしたことも責任をどうつけるかという問題を突き付けられました。
取り返しがつかないのが現実である、という自覚をしなくてはなりません。
子供は軽い気持ちで行動しては、他人に迷惑をかけます。
周囲を困らせても「だって誰々が」と人のせいにして更には自分が怒って見せるほど傲慢です。
そのような時期に、これでもかというほど叩きのめして現実を自覚させなくてはならないのです。
ところが、普通の家庭ではそんなことは起きません。
起きていないようです。
親も夢を見て生きて、子供は子供で違う夢を見て生きて、誰も死を自覚することなく、妄想に浸り続けて生きていくのです。
そして、覚悟もないのにいきなりやってくる「死」です。
怖くても逃げたくても、決して逃れることができません。
どうせ死ぬんだから、それまでできるだけ遊んで暮らしたい!
そんなことを考えている人は、いつかやってくる死を無自覚に恐れ、現実を見ないように見ないようにして結局はどんどん不安になり破綻していきます。
何かのせいにして生きるから、もめごとも多いし、不満も多い。
生きる覚悟もしないから、生きる喜びすら感じない。
そんな風に現実を直視できない人たちのためにも、戦争は「起きなくてはならないものなのだ」と思いました。
考えもしないいつかではなく「今、目の前に自分が死ぬ状況がある」のです。
平和な時のように我儘など言わなくなるでしょう。
神経症というものを知った時に、思ったのです。
「この人たちは、結局死ぬのが怖いだけではないのだろうか?」
仏教を研究している先生に「そうですよ」と言われたのを覚えています。
死を考えずに生きてく人もいるんだなと知りました。
でも、死なないなら生きていないのだから、生きる喜びなんてあるわけないですよね。
蓮の花の中で眠っているようなもの。
経典にブッダがそう言ったと書かれていたなあと思い出しました。
夢を見ながら寝言を言って、生まれることもないまま死んでいく。
覚醒して花開くこともなく。
もっと人類全体が賢くなって、いつかは死ぬと自覚して生きられるようになったら、本当の意味で平和で、慈悲がある世の中になるのでしょう。