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心理的殺人、と僕は呼んでいる。
それが「無視」である。
コミュニケーションの拒否。それが無視である。存在していることを許さないのだ。
無視、と聞くと、ただ声をかけられても返事をしないことだと思うかもしれないが、いくつか例を挙げておくので知っておいてほしい。
・声をかけても無視する。目の前にいて返事をしない。
・人の話を聞かない。話の内容を無視して自分を押し付ける。
・会話しているように見えて、返事をしたくないところは沈黙。
これらのうち、特に三番目がわかりづらい。
なんでもない会話ならば、返事をして楽しそうに話す。
しかし自分が面白くない話になると、脳内の世界に引きこもり遠くから相手を見てただ話を聞く観客に成り代わる。
目の前にいて会話しているのに、何も状況が変わらないのに、いきなり「私今から観客」は無理だ。
この手の無視をする人は、必ず言い訳をする。
「ちゃんと聞いてる」
言い訳を通用させてはならない。
この部分は返事をしたい、この部分はしたくない。
そんな都合のいいことを、生きた人間相手にやっている最低の非道徳的人間である。
今回はバッサリ斬っておく。あまりにも平気な顔で人殺しをする人がいるからだ。
「気に入らない時は、返事をしなくていいのよ。」
という教えを授けた親がいる。身をもって教えたのだ。
そして子供は「うちではこうだった」という言い訳をする。
その言い訳は通用させてはならない。
この上まだ言い訳をして、自分のしたことをなんとも思えないほどの冷酷非道さだというだけだ。
親がまともでなくても、他人の身を考えれば返事をしなくては相手が傷つくとわかる。
そのように相手の都合で無視が簡単に行われるコミュニケーションを取っていると、大変なことが起きる。
「死にたくなってくる。」
人間は存在を無視されると生きていけない。どこかで注目されたくなる。
黙っていることは大人しいことではない。
控えめと返事をしないことは全く違う。
最悪の殺人鬼は、先ほどの三つ全てを行う。
他人の身に「ならない」のが殺人鬼である。
相手の気持ちになったら負け。思いやりや優しさを持ったら負け。
心の中には怒りと憎しみ、人を見下す残虐非道な冷酷さだけが存在している。
そのような人は、見た目には優しく見えて過剰に親切である場合もある。
今書いた行いは、まともに考えて「やられる側」になって考えれば「死にたくなる」もすぐに納得できるだろう。想像すればわかることだからだ。
しかし「やっている側」ですぐに想像し、自分のことだと思って怒りを感じるのが「本当にやっている人」だ。
人間は自分の体験にある話であれば、自分の過去の体験をすぐに想起する。
だからやられた人間はやられた側の気持ちを、やってきた人間はやっている側の気持ちを考えるのだ。
まともな会話をしてきた人は、相手の話を聞きながら返事をしない、ということは「気が引けてできない」だろう。
相手の気持ちを考えながら話していれば、相手に一方的に喋らすことはできない。
相手が無視している時は、こっちが仕方なく話を続けるしかない。
幼児的な、は本物の幼児の時には幼児の行いになるが、これを大人になってやると「殺人鬼」なのである。
心理的殺人鬼である。
やられる側は「死にたくなる」のだから、「私の気持ちをわかって」と求めることがどういう意味かはわかるだろう。
「死ね」である。
過去と意志が消えたら人は死ぬ。だから「死ね」なのだ。
自分とのコミュニケーションを拒否してくる人がいたら、その時は本当に無視していい。
そうしないと、自分が自殺したくなってくるからだ。
相手が無視する、会話もろくにしてくれない、と言う人が、実は相手が当初話をしていた際に、自分の都合ばかり押し付けて相手の結論をすべて変えようとしていた、ということがある。
それならば、無視されたのは相手の方。相手は無視しているのではなく、孤独感にさいなまれているのだ。
「どうせ何を話しても、この人はまともに話なんて聞いてくれない。自分の都合のいい結論にならないと怒り狂う。不機嫌になる。悪者にして責めてくる。被害者面で嘆いてくる。」
そんな相手と口を聞きたい人がいるわけがない。
誰を相手にしても、まともなコミュニケーションをとる人はまともなコミュニケーションをとる。
人を無視している人は、「会話のやり取りは適当でいい」と考えている。
きちんと説明する、きちんと聞いて理解する。これに意味がないと思っているのだ。
意味はあるどころか、それができなくては話にならない。
なんのために日本語を覚えて、なんのために生きた本物の人間と会話しているのかわからない。
「自分に都合のいい答えを言わせるため。」
それでは、会話と呼べない。
尋問、強要、断罪。
あらゆる手段を使って、目を付けた人間を殺しにかかる人がいる。
体裁は非常に良い場合が多いのは、心理的は殺人を犯して生きているからである。
人間に対して過剰に防衛的になるのは、精神の世界では残虐非道な鬼と化しているからである。
人間に本性がばれたら困るのだ。
「隠さなくてはならないものがあると、人間は過剰に自分をよく見せようとする。」
小さな嘘なら「浮気して後ろ暗いからお土産を買って帰る」などの行動だ。
しかし、「存在そのものを隠している」場合は「すべてにおいて」である。
「この事実を隠したい」ではなく、「自分の本当の存在を隠したい」なのだ。
後ろ暗い事実がある人ではなく、後ろ暗い存在なのだ。
慣れてしまうとろくなことはない。
人を無視したらどうなるだろうか。
想像してみよう。
あなたが目の前の人に話をしている。
普通に会話になっている。
しかし、あなたが話したいある話題になったら相手は沈黙した。
こっちを見て普通の顔をしているが、先ほどのように返事はしなくなった。
または、下を向いて自分が相手を責めているかのような面持ちで黙っている。
これが「拷問」である。
断言する。
その人と離れた方がいい。
または「何黙ってんの?返事くらいしてくれる?」と怒ってもいい。
まともな人ならまず怒るところだ。または、心理的に境界線を引いて「信じられない!失礼な人間!」と蔑むところだ。
やられる側の気持ちが全くわからない、冷酷な人なのだ。
だから、接しなくていい。
会話もしなくていい。
相手のご機嫌を取るために会話しているようなやり取りにしかならない。
「強制的に自分のご機嫌を取らせる悪魔のような人」である。
普通に会話をして、気に入らない時は黙る。
罪悪感を感じるので、できるだけ楽しくしようとしてしまう。そんなことが起きる。
強制的にご機嫌を取らせる人は、人前で平気で返事をしなくなり、または不愉快そうな態度に出たり、馬鹿にしたような表情をする。
もう一度言う。
冷酷非道な悪魔のような人間である。
人間としては接してはならない。
これを断言しているのは、僕の生きている常識では僕がしないからである。
「自分の普段がどの程度か」により、どの程度ひどいと感じるかは違ってくる。
自分もやっていれば、やられても「また人の話聞いてない…」くらいになっていく。
この事実をどう判断するかで、今後の自分も変わっていく。
僕は今後、より優れた人間性を身に着けていきたいので、断言している。
何が許されて許されないか。
その基準をどこに置くかは自分の人格を決めるラインを引く行いである。
言い訳をして、理由があるからやってしまう、だから「しょうがない程度の事実」とする人は、これからもやる。
理由があればやってもいい、ということだ。
理由があれば、人を殺してもいい。
殺したくなるのもわかる。だって私も殺してるから。ということだ。
この基準は、僕の基準である。
それをどう考え、自分自身はそれをよしとするか否かはそれぞれの自由だ。
しかし、僕ならばどう考えてもやられたら嫌だし、僕は人生で二回ほど先の三つを行う人に出会い、知り合って一か月も立たずに「死にたくなる」という経験をした。
無視されると死にたくなるのは当たり前なのだ。
いじめがあり自殺した子が皆に無視されていた、という場合がある。
声をかけても返事をしてもらえない。
それは「死ね」という間接的な要求である。
その仲間に参加した人たちは、全員が死ぬまでその罪を背負って生きねばならない。
たとえ社会が法で裁かなくとも、精神の世界では必ず仏が裁いてくる。
「自分は何も嫌なことも悪いこともしていないのに、あの人がひどいことを言う。」
そんな人に出会った時も、即気づいてほしい。
嫌なことかどうかは「相手が判断すること」である。
「あの人は嫌じゃなかったよ」
と相手が言っていたらおかしい。あんた誰?だ。
酷いことかどうかは、相手がどんな目に遭ったのかを先に知らなくては判断できない。
当たり前のことを言っただけなのに、本人が「私って優しい」と独りよがりの自画自賛をしている人なのかもしれない。そしてこの場合は確実にそうだ。
「あの人は私のことが好きで、私はあの人に嫌なことひとつしていないのに、あの人は私を責めて私と口も利かない。」
そんなわけがない。
結果何が起きたかである。
「あの人が口もききたくないことがあったのだ」ということだ。
無関係な他人に「あの人がこんなにひどいことをしたの!」と懸命に知らせている。
ということは「この人はあの人にひどいことをしたのだ」ということだ。
自分がひどい目に遭ったことを、みんなに言いふらしたい。
酷い目に遭ったではなく、「嫌われた」ことを言いふらしているのだ。
人間は好きな人には優しい。
当たり前だ。
嫌いな人には冷たい。
それも当たり前だ。
口も利かなくなるならば、嫌なことが積み重なったからだ。
いじめの場合は、普通の会話で当たり前のように無視するのだ。
「気に入らない部分だけ、いないことにするために無視するね」ということだ。
この舐めた真似を当たり前のように許してはならない。
残虐非道で精神の世界では外道でしかない。
心理的殺人鬼である。
精神の世界で人を殺すということがどんなことか、心を大事にしない人は全く考えない。
心が傷ついても、目には見えないから平気~。
と思っている人がいる。
いくらでも嘘をつきまくって、人を信じ込ませればいいもんね!
という考えの人がいる。
天罰覿面である。
今後その所業に相応しい、最悪の地獄を見ることになる。
僕はこのような最低な人がこの世に存在するだけで嫌悪感しかないが、それがこの現世である。
その悲しみを受け入れて、喜びを知らなくてはならない。
人間の精神を殺して生きている輩が存在するのがこの現世なのだから、やはり地獄なのだなと。
相手の話を想像しながら聞き、ちゃんと理解したうえで考えて返事をする。意見をする。
会話のキャッチボールをする。
そんな当たり前のことも「できなくてもなんとかなる」と思っている人は、人間関係など作ろうとしていない。
動物の支配関係を作ろうとしている。
なんのために言葉を覚えたのかわからない人である。
本当に起きてもいないことを誰かにやらせて形だけ体験するがために、そんなことをするのだ。
現実に生きていて、「他人から自分がどう見えるのか知っているわけがない」のだから、自画自賛して言っているだけならばともかく、「私って優しい」と自覚して他人からそう思えると安心しているならば、ただの独りよがりのナルシストである。
「相手を存在させない」のだから。
「あの人が喜んでくれない!私は嬉しいことをしたのに!」
嬉しい時は喜ぶ。それが当然だ。
「そうだ!それが当然なのに嬉しいのに喜ばない!ひどい!意地悪でやっているのだ!」
なんのために。
ちなみに、それが言いがかりであった場合は当然覚悟しておくのだな。
くだらん!
こんな程度の低いやり取りを、いい年をした大人がするな!
僕ならば相手にしない。口も利かないが、そもそも僕はこんな人間と親しくならない。
まともに相手をするな。自分の知能の程度が下がる。
きちんと話を聞いて理解して、更に考えて話せる「言語能力がある人間」は存在している。
言語能力があり会話が成り立つ者同士で会話しないと、心理的に成長ができない。
自分が今後どこまで成長できるかもわからないのに、無駄な時間を過ごす必要性はゼロだ。
幼稚園児がグズグズ言っているようなたわ言を大人から聞き、更には無言になって返事もできない人と「部分的には成り立つ会話」をして、関係性が作れるわけがない。
ふざけるものではない。
どちらもである。
可哀想ではない。どっちもどっちである。
人生は時間との勝負だ。
残りの寿命でどれくらいの人と知り合い、会話ができるかわからないのだ。
接点があるからという理由で、すべての者と親密にならなくてはいけないわけではない。
人を責めながら「私は優しいのに」と思っている人がいる。
人を馬鹿にしている。
本人が理由を説明して本人が人を批難して、「私は優しい」なのだ。
これは、聞いている方をなめて馬鹿にしているのだ。
優しい人は、自分で理由をつけながら他人を批難して回る人である。
その人の理屈ではそうなっている。
そんなわけがない。
そして、自分都合などどんなに押し付けても道理がおかしいのだから納得するわけがないし、作り話をしても嘘なのだから事実そうなわけでもないことを、信じるわけがない。
つまり「こいつ馬鹿だから信じる」と思われていて、自分の都合を説明されているのだ。
「この人なら説明したことをそのまま信じそうだな」
という「思考能力ゼロのバカ」を探しているのだ。
思考能力ゼロのバカなら、可哀想な人だと信じ込めば殺すことができると思っているのだ。
そこまで馬鹿にされて、相手の言うことを鵜呑みにすることはないだろう。
僕ならば容赦なく見捨てる。
僕はバカではないからだ。
会話は意思の疎通が図れる程度の認知能力や思考能力、想像力や言語能力が必要だ。
現実に起きていないことを「これはこうなるものでしょ!」などとただ怒って他人を黙らせていたら、幼稚園児さながらではあるが、実際には幼稚園児ではないので、それは「虐待者」である。
物質的な世界ではそうである。
そして精神世界では、殺人鬼である。
僕は最近も子供たちの様子を見ているが、本当に残念なほどに、子供に対して親は無関心である。
無関心と言うが、要は子供を殺している親だ。
しかし、その子を殺してまで親が生き残るほど価値ある人間性ではない。
最低でも三人前は人間性に価値がなくてはならない。
二人分ではない。子供の未来は親よりあるのだから、三人前は必要だ。
子供を無視する親。声をかけても返事もしない。
子供はなぶり殺しにされるように、傷ついて精神の自分を殺されていく。
親となっても「子供の立場の私」のことしか想像しない。
心ある親ならば、既に子供がいるならば真っ先に「子供のこと」を考える。
親としての立場で想像し、「あの子を傷つけていないか」を気にするだろう。
真っ先に子供のことを考えない。現に親でありながら。
だから「存在の無視」なのだ。脳内で既に無視されているから、思い浮かばないのだ。
「無視は最悪の拷問」と言ったのは、スタンフォード大学の西先生である。
「みんなに無視されたら、死にたくなります。」と仰ったが、確かにそうなのだ。
会話しているから無視していないわけではない。会話ですらないが。
話をしてもしても、ちゃんと聞いてもらえない。
何を話しても相手の都合に合わせて「こっちの都合をないものにされる」のが、無視だ。
殺人鬼。
本当にそのような人はいる。
見分けたいならば怖くても自分の本性の姿を直視することである。
そこが入り口となり、精神の世界への扉は開く。
もし、その姿から逃げずに、言い訳して回ろうとせずに
「これが自分なのだ」
と自覚する勇気があるならば。