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まだ結婚できない男

まだ結婚できない男 第五話

 あと三日で視聴期限が終わりますが、まだ結婚できない男の最新話です。

 32分あたりからのシーンについて。

 婚活しまくっている女性が、主人公桑野さんを紹介してもらうシーンです。

 本人の希望は、一人でも仕事に信念を持ってバリバリやっている、知識豊富で背の高い、常識ある男性。

 そこで、友人であった女弁護士が偶然を装って桑野さんを引き合わせます。

 この女性、うつ病かノイローゼかという女性です。なんしても結婚結婚と極端な努力をしています。

 自分で希望していた男性ならば、結婚願望など強く持っていないのが当たり前なのに、話し始めてすぐに「結婚している方が幸せだ」という考え方に変えにかかります。

 ここで桑野さんに、大変失礼なことをこの女性は言いました。

 結婚する必要がないのは、桑野さんに未来の不安がないからだ。
 桑野さんみたいに特別な才能がある人はいいけど、私のような普通の人間は一人では将来が不安だ。

 というようなことを言います。
 本人は自分中心の話し方をしているので、相手のことを考えていません。

 自分のことしか考えていないので、自分がどんなに一人でいるのが不安なのか際立たせたかったのです。ナルシストです。

 結婚しなくて良いと言っている桑野さんに対して、失礼です。
 「お前は特別だから不安がなくていいよな」と言ってしまっているのです。

 他人の苦労を無視する発言です。
 苦労も努力もなく、一人で桑野さんが今までやってきたわけがありません。

 一人で信念を持って生きたことがないのだ、とよくわかります。我慢して言う事を聞いてきたことしかないのです。自分は不幸だと思っているタイプです。

 桑野さんはこの侮辱に対し、自分の信念について語ります。
 「結婚が如何によろしくないものなのか」結婚せずにいる理由について語ります。

 自らの親族を例に挙げ、結婚した場合の妻の心配もしています。

 そして次々と過去の偉人が結婚について語った言葉を引用します。

 それを連ねていると、紹介された女性は「私が間違っていたかもしれません」と泣いて店を出て行きます。

 その後、残された桑野さんが「夢を壊した」と批難されます。

 彼が侮辱されたことについて誰も気づかないのは、「結婚するのが良いことだ」という決まりがあるからです。

 結婚さえすれば幸せ。幸せになるには結婚しなくてはならない。

 そんな風潮が伺えます。

 僕はここで彼が言った、

 「どんな夢でもつぶそうとしてくる奴はいる。それを論破できずに何が夢ですか!」

 という言葉に感動しました。その通りだなと思いました。

 紹介された女性は、自分が矛盾しているとわかっていないのです。

 結婚しなくても幸せになっている人を理想としているのに、結婚しなくてはならない自分と考え方を一致させたがっているのです。それでは相手が幸せではなくなります。

 「今が幸せ」

 その人の今を壊すのだから、相手は不幸になるでしょう。

 人間関係を目的にする人は、このようなことをよくやります。
 相手のこれまでの人生や将来を無視して、自分がなりたがっている将来こそ幸せだと決めつけているのです。

 一人で好きにしているならともかく、誰かを道連れにすることは許されません。

 この場合、似たような男性を捕まえるしかないのです。

 しかし、翌日彼女は目が覚めました。
 うつ病は治りました。

 「何をそんなに結婚結婚って言ってたのかなーと思って」

 すっかり正気に戻っています。
 一人でいいかなと思えた時に、いい出会いがありそうな気がする、と至極まともなことを述べていました。

 桑野さんには感謝していると言いますが、もう一度会いたいかと言われたら絶対に会いたくない、とも言いました。

 彼は自分の将来を考えているので、人の将来も考えています。
 適当に人に話を合わせる人ならば、これから何度も会って結婚したかもしれません。

 それはお互いのためにならないことです。

 桑野さんは父親代わりをしたのです。
 甘えている女子に信念を打ち込みました。
 この役目は指導する力がなくてはできませんから、親でもなかなかできないのが現状です。

 そして、嫌われるのも当然なのです。
 反発して出て行くのが子供ですから。

 親は嫌われていいのです。
 親代わりも嫌われていいのです。

 自立させるにはそれしかなく、甘えている子にいつまでも「そのままでいいんだよ」と言っていたら一人では生きていけなくなります。

 他人でここまでする人はなかなかいないでしょう。
 桑野さんは人間を信頼していますから、思うことが言えるのです。人間が怖くないのです。

 人間不信の人は人間が嫌いで怖いです。
 気に入らないことを言うと甘やかしを求めます。

 敵意があるからです。自分にとって居心地の良い付き合い方でなくては安心できません。

 傷ついた時に自ら「傷ついた」と相手を責める人もいますね。自分の方こそ傷つけています。それがわからないのです。

 傷ついた時に相手に「傷ついたんだからな」と恨みを持つのは甘えている証拠です。

 文句を言って優しくしてくれたら「安心」するのが他人の区別がつかない人です。普通は逆にこれから不安になります。

 彼女は甘やかしを求めて親のような人と結婚したがっていました。しかし、目が覚めたのです。

 人生に失敗しても、他人を巻き込んで幸せになろうとするものではありません。

 自分のこれまでがうまく行かなくても、「結婚で幸せになろう」と相手を巻き込みに行けば必ず相手を不幸にします。

 自分の人生を諦めると、結婚に失敗しても「今度こそ」とまた同じ失敗を繰り返しに行きます。

 一人でコツコツ始めるなど、他人を使って途中まで来てしまうと面倒なのです。

 「離婚に使う精神力は、結婚の何倍にもなる。」

 と亡くなった母が申しておりました。

 それからの自分の人生など、考えるのも面倒です。
 自力で生きるなど大変なことですから、一人でどうするか考えて一人でなんとかしていくなど、依存して生きれば生きるほど面倒になります。

 そこで「なんとか楽して」が始まると、また別の相手を捕まえようとするのです。よくあるパターンですが、もう一度失敗するでしょう。

 自力で生きなくてはならなかったのは、若い頃から当たり前です。

 自分が自立して他人の人生まで助けていこうとしたこともないのに、自分を助けるために既に自立している人に縋り付きたくなるのです。それではただの邪魔者です。

 そこで「奥さんがいないと困るでしょう」が始まるのです。相手の弱点を作ろうとしているのです。その弱点に付け込むつもりだからです。

 他にも、友達がいない人や孤立していた人は、なんとかして他人も孤立している人にしたがります。

 「私たちは特別違って他人にわかってもらえない」

 集団ナルシシズムです。この手のタイプの方が遥かによく見ると僕は思います。

 自分たちだけ、をやりたがる人は、隔離された関係を望みます。執着が強く、相手を縛ります。独占欲が強いのです。

 女弁護士がこの傾向が強く、「私たちだけ」と固まり、集団でいじめをやりたがります。

 僕が残念だったのは、カフェの女店長が依存心の強い「なんでもいいよいいよタイプ」だったと判明したことです。

 仕事の悩みを桑野さんに話し、「桑野さんなら他の人が思いつきそうにないことを考えてくれそう」と期待します。

 依存心が強いのです。
 これを見て、「ああ、愛人作られたわけだ」と納得しました。

 桑野さんは悩んでいたことについての資料だけ用意して渡しました。
 すごい、と思いました。

 彼は考えるための材料を渡すだけに留め、アイディアは出さず本人に考えさせるようにしたのです。

 一人で考え、決断してきた男なのです。

 彼がしていることがなんなのか、殆どの人にはわからないのだろうなと思いました。周囲の人もわかっていません。なんだか見ていて気の毒です。

 13年経ったこのシリーズ、周囲が現代社会に合わせてすっかり変わりましたね。

 今の世の中には、本当に必要な作品だと思いました。

まだ結婚できない男

 まだ結婚できない男 カンテレ

 推奨番組です。
 既にご覧になっている方も多いかもしれません。
 前作を観て、すっかり気に入りました。13年越しに続編だそうで、作品中でも13年経っています。

 40歳独身だった男が、53歳になって今も独身。

 しかし、この主人公桑野信介、この男が自己実現している男です。

 好きな仕事をして、一人の時間にやりたいことをやる。

 「やってみたいこと」をどんどんやる。
 一人でも十分楽しんでいます。

 子供のように、思いついたことをやっています。
 それが本当に成長している人です。成長していく人、と言った方がいいでしょう。

 大人になっていくのは子供だけです。
 子供なのに大人のふりをして無理している人は、成長できません。
 子供が子供であるから、少しずつ大人になっていくのです。
 子供の自分を失うわけではありません。

 親の親となって疑似自己を生み出した人は、自分を捨ててふりをして生きています。
 成長できませんが、疑似成長という「成長したふり」をして生きています。
 ですから、内面的には成長しておらず、現状を生きるのも我慢が必要です。周りから見たら普通に大人としてやっているので、誰もわかりません。

 本人の内面では、きちんとできているか、叱られないか、間違っていないかなど、いつまでも親の目が光っているような感覚を持って生きています。

 誰かに自分のしていることを批難されないか、ビクビクしているのです。

 それは本人の能力不足ではなく、認知の問題です。
 別に問題はないのですから、そのままでいいのです。
 本人が「これでいいのかどうか」わかっていないところに問題があるのです。
 意思で生きていない。周りが決めた正しいことを、自分が選ぶはずのことにすり替えているのです。
 結論から言うと、まだ何も決めていません。

 そして決めまくっているのが、このドラマの主人公、桑野です。

 他人が何を言っても気にしません。自分の楽しみとやりたいことを追究します。
 それでいいのです。

 自己実現的な性格の人は、周りには我儘だと思われることが多いようです。
 周りに合わせないからです。

 それは良くないことだと思うかもしれません。
 しかし、多くの人は周りに合わせること、人に従うことにストレスを感じています。自由になりたいと思う反面、人に合わせて皆と同じでいたいと思う。
 そうなると、「自分のやりたいことをやっても平気な世界」の方が先に作られないだろうかと無茶なことを願うようになります。

 反論されても好きなことを実行していくことの方が、確実です。
 反論されないこと、賛辞されながら生きることを最優先にすれば、社会の常識が変わっていくのをただ従って待ち続けるしかありません。

 ところが、社会で本当に成功していく人、また幸せになっている人は、人に合わせずに幸せになっているのです。
 彼らが選んだのは、「他人に批判される方」です。
 賛辞を最優先にしなかったのです。また、他人と同じである安心感を捨てたのです。

 同じであれば安心です。排除の危険性がないからです。
 排除の危険性があるという不安を乗り越えれば、自分が本当に好きなことをして満足する日々を送れるでしょう。

 苦労するかしないかで言えば、苦労はあるでしょう。
 しかし、不満で我慢の日々でも苦労はあります。どちらを選んでも苦労は同じ分だけあると思います。
 ただ、満足があるかどうかです。

 そして「賛辞を得る」と言っても、それは「同意」程度であり、他の人たちと同じことをしているだけに、尊敬されて特別になることはないのです。
 常に周囲には自分と同じような人がいて、望んでいた特別扱いはありません。

 他人と同じである以上、特別になどなれるわけがありません。

 まだ結婚できない男は、これを書いている現在まだ四話までしか放送されていません。
 しかし、前作とは違いました。
 13年前とは違う、現代社会を強く反映する作品となっています。

 主人公桑野を取り巻く人々の中には、キーとなる女性がいます。

 一人は女性弁護士。
 一人は離婚したカフェの女性店長です。
 弁護士の女性は、離婚した女性の離婚時の弁護をしていました。

 他にも女性キャラはいますが、この二人は幸せになる方とならない方のわかりやすい人格をしているので、参考になると思いました。
 僕がいくら説明しても、なかなかイメージがつきにくいと思います。
 そこで、是非「こんな感じだ」という参考にしてもらいたいと思いました。

 カフェの女性店長は、離婚して幸せになるタイプです。
 離婚する時も、諦めて次の人生に行く決心をしています。第二の人生に行ける人です。

 弁護士の女性は、神経症の人です。
 立派な職業についていますが、自分に満足していません。
 主人公のみならず、離婚した女性にも「こうでなくてはならない」を押し付けます。
 そして、自分は酔っぱらって「お母さんごめんなさい」と叫びます。

 「私はうまく行っている!」と説明して自分に言い聞かせる彼女、想像力が欠如しており、桑野の言う事を勘違いします。
 情緒的表現や、間接的表現が理解できないのです。
 「言ったことは全て額面上通り」で、冗談も通じません。
 桑野が自分のミスを目立たないように配慮してくれている憎まれ口を、ただ嫌味を言われたと解釈します。
 人の優しさがわからない人なのです。

 一方、カフェの女性店長は周囲が桑野の口の悪さを「額面上通り」の意味で受け取っても「悪気はないんですよね」といつも庇っています。物事を両面から捉える人です。優しい人なのです。

 離婚する時、既に諦めている彼女に対して弁護士は「私が諦めきれなくて」という理由で、彼女の夫を探りました。
 結果、夫には愛人がいて隠し財産のマンションが出てくるという事態になりました。
 弁護士は躍起になって「権利を主張しないと!」と意気込んでいましたが、彼女は「もういいんです、あの人にお金なんかもらっても」と沈んでいます。

 「そんな弱気だから舐められるんですよ!」

 と怒鳴る女性弁護士、完全に自分のためです。

 もう顔も見たくない、浮気が発覚した夫。
 自分はもう一人で生きていくから、あの人からお金をもらうために長引かせたくない。
 その精神的苦痛を計算できない人なのです。

 ただでさえ傷ついているのに、この上知らなければ知らないままで終わった「愛人を囲っていた」という事実。更に傷つくだけです。
 物や金、形ある「権利」が大事。
 見えないものがわからない弁護士と、カフェの店長は対照的です。

 13年経って、桑野はモラハラにあっていました。
 これは社会をよく表現したものだと思いました。

 彼は優しく面倒見が良いですが、口が悪いです。
 その口の悪さを皆に叩かれます。
 「悪いことを言ったら皆で叩いても良い」
 という現代の風潮です。正義を振りかざせば集団で追い詰めても良い。独裁政権の国家と同じですね。

 殆ど小学生のノリです。一対一で大人が話をしているのに、横からいちいち皆で意見します。恐ろしいことです。こんなレベルの社会で良いのでしょうか。

 大人は大人同士が話していたら、横から口出ししないものです。
 本人がどうするかは本人が決めます。
 周りから可哀想とかこうしなきゃとか、母親代わりになってヤジを飛ばす必要はないのです。

 自立していない大人たちです。

 それがうまく行かなくても行っても、本人の実力です。
 今の社会は完璧に良い結果になるように、周りが見張って皆で同じことをするようになりました。
 そしてお手本通りにできていることを「良くできた」と思い、現実の自分の人生も人間関係も、何も作れません。

 「ちゃんとやってる」はお手本があると思っている人の観点です。
 ちゃんとなんてあるわけがありません。
 全員大人です。
 偉くても偉くなくても、全員大人です。どの立場にいようと、権利はあります。そして権利も人間が与えるものではありません。

 叩かれるかもしれませんが、それは社会がどうであるかにより違います。
 やりたいならばやればいいのです。

 歴史上、周りの良い子にしていて革命を起こした人も、何かを発見した人も、功績を残した人も、いません。
 言われた通りにしていて、幸せになるならば、「言われた通りに従っているのって幸せ!」と心から感じていなくてはなりません。

 これが正しい!は誰もが知っています。

 やっているからには、大人なんだからそれがやりたくて楽しくてやってるのだろう、となります。

 やりたくないけどやってる、は言い訳です。

 やりたくないけど、~だからやる必要があり、やることに決めたから「やりたくてやっている」のです。

 ドラマの主人公桑野は、博学です。
 色んなことを知っています。建築家ですが、自分の好奇心で学ぶので、色々なことを知っています。

 好奇心の無い人は、教わったことばかり知っています。
 一人で追究したものがないのです。

 一人で追究するものは、「一銭の得にもならない」のでやらないのです。
 後から褒美が出てきそうなことしかしないならば、生きる価値は他人が決めていいと納得しているのと同じです。

 自分が無くなっている人は、時に興味深いことをしています。
 していますが、「こんなことできてもなんにもならない」と言います。

 「なんにも」とは、人生の全てが他人の評価で決まるからです。

 他人が何かしてくれるのでないならば、自分が楽しいとか満足とか、そんなことはどうでもいいことなのです。

 しかし、本当の楽しみは一人の時間にあります。
 他人との時間は、別の楽しみです。

 どちらも大切ですが、今の社会では多くの人が最も大切なものを捨てました。

 自分一人しか得しないことは、自分しか実行させられません。
 自分が命じて、自分にやらせるしかないのです。

 他人が命じたことは、確実に他人の得になることです。

 相手の得にしかならないことを望んでくれる人は、なかなかいません。

 しかし、桑野は人の幸せを望む男です。
 自分が既に満足しているから、他人の幸せも願うのです。

 自分一人でやってきたからこそ、人にも甘くありません。
 人に甘くないのは、困難を乗り越えてきたからです。
 甘やかしていていける道はない、と知っているからです。

 その分、面倒見がよく、なんだかんだ人を助けています。

 周囲にもなんだかんだ人が集まってきて、「結婚なんかできない」と言われまくっているわりには、モテています。

 しかし、周りはどうでもいいのです。
 彼は好きな仕事をして、本当にこだわりたいことにこだわり、13年経ち功績もあげ、信念を持って生きています。

 本人が自分の人生を楽しんでいることが大事なのです。

 周りのことも考えなくては、と周りのことしか考えなくなった人は、自分の楽しみもなくなり、頑張ったのに満足できないという事態です。

 他人が褒め続けていなくては幸せでないならば、一人になっただけで絶望的に不幸です。

 大人でありながら、常に誰かが話をきいて見ていてあげなくてはならないなど、面倒でなりません。

 そんな手のかかる大人を構うならば、本物の子供たちを構ってあげた方が遥かにマシです。

 大人になったら「手のかからない子」になります。
 一人でも楽しんでいられます。他人にいちいち構ってもらえなくても、平気です。

 一人でも楽しんでいられる人同士が出会って、もっと楽しい時間になるのです。

 それが、このドラマの主人公桑野です。
 そして、女性店長です。

 桑野のシンポジウムでの演説を聞いて、話の内容がたまたま自分に当てはまったので自分が馬鹿にされた気分になり女性弁護士は内心憤慨していました。自分への怒りです。
 同じ演説を聞いていたのに、二人の女性の反応は全く違いました。

 女性店長は「いい話でした。勇気がわいてきました。」と言いました。

 女性弁護士は「ああいう言い方は敵を作るので良くないと思います!」と半ギレになっていました。

 「良くないと思います!」

 ムカついたのです。しかし、自分に言われたわけではないので、「ああいう言い方は良くない!」という形で八つ当たりしているのです。
 これがモラハラです。

 良くなかろうが、評判が悪くなるのは桑野です。
 余計なお世話です。
 自分が負い目のある生き方をしているから、勝手に腹立たしくなっただけです。そんなことは桑野には関係ありません。まったく親しくもありません。
 「良くないと思う!」という言い方をし、その後も気に入らないとやたら桑野の人格否定をします。
 単に自分が気に入らないだけなのです。
 相当な神経症なので、これはわかりやすいと思いました。

 「社会的に成功する抵抗」を見せたタイプです。弁護士です。成功しています。これでうまく行っているのだ、と自分に言い聞かせるために、社会的に評価されそうなことを続けるのです。

 社会では!一般的には!普通は!が旗印の人生です。軍隊というより、宗教です。
 同じことをしない人を見つけると、そのように批判して個人攻撃に出るのです。
 それは桑野だけに限らず、あらゆるところに出ています。
 細かいことでいちいちぶつくさ言います。

 「こうしてくれって頼んでないんだけど」
 ちょっと思ったのと違う形だと、すぐに不満を口にします。
 相手が如何にも「できないやつだ」という表現で文句を言います。
 甘えているのです。

 口調と言い方がすごいので、言われた方は自分が悪いのではないかと小さくなります。威圧的な女性ですから、画面で見ていても魅力的には感じません。

 本人は、私は優しくて真面目で、思いやりがある、と思いこんでいるタイプです。全く正反対で、人の気持ちがわからない人です。

 弁護士の女性と桑野の一人の時間が対照的です。

 弁護士の女性は、嫌々勉強させられている子供のようです。グダグダです。
 お菓子を食べながら暗い事務所で仕事をし、食事にしてもおよそ楽しむということができない人です。

 一方桑野は、一人の時も活き活きしています。一人の時こそ、と言った方がいいかもしれません。
 楽しみにしていたことをやり、時に真剣に取り組んでいます。知識欲も旺盛です。色々なことにチャレンジし、学んでいます。

 社会で認められる人生とは、女性弁護士のようなものです。
 そのために生きているのですから、こう言ってはなんですが、女性弁護士は成功してお金を持っているだけまだマシで、殆どの人から見たら人生の満足なんて望むことは贅沢過ぎです。

 同じ不満な人生を送っていても、社会的にそこまで成功することもない、現代の貧困に苦しんでいる人たちもいるのですから。あれだけ手に入れてまだ欲しがるか!と思えるほど持っています。もうこれ以上は無くていいでしょう。

 と思いますが、実際社会で成功している人の殆どはこんな感じでしょう。

 皆さんが怒られた、責められた、と思う「正しいことをやたら言っては自分を駄目にしてくる人」はそんな感じです。

 桑野も正しいことを言いますが、彼の場合は「お前がどうなってもいいのか」なのです。

 女性弁護士は「そんなことをしていると皆に悪く思われるぞ」という罪悪感の操作です。

 簡単に言うと、本人のことを考えてあげている人と、そうでない人なのです。

 良いことを言っていても、なんのためになるから言っているのかはわかりません。
 言葉は目的ではありません。目的あって言葉を使っているだけです。

 どんな言葉を用いているかは、本人の表現力、センスや性格です。
 どんな言葉を使っていても、目的は変わりません。

 言った言葉で人格が決まるわけではなく、人格があって目的があって、言葉は外に出てくるひとつの形でしかありません。洋服と同じようなものです。着ている服が同じでも、目的が自分が気に入っているからなのか、何かの催しがあるのか、デートで良く見られたいのか、わかりません。

 自我の無い人は「欲しい形」が決まっています。

 自分の一部を他人に求めるからです。

 ですから、相手の人格や目的は関係なく、その時その時必要な形をくれる人とつきあっていくのです。

 相手の目的や人格は、どうでもいいのがある意味楽なところです。

 欲しい形だけくれれば誰でもいいのですから。
 それならば、そんなに難しくはありません。

 ただ、その都度他人を操作する必要がありますから、自分を捨てて次々他人を動かすために生きねばなりません。

 女性弁護士は自我がありません。自我なんてなくても、社会的に成功することはできます。そんなものはあってもなくても生きていけるものです。

 そして幸せになどならなくても生きてはいけるので、何かそれもまた「なくては立派になれない」と思っている人がいるのですが、そんなものはなくていいんですよ。

 どうしてあの人はこうなのか、となんとかしたい人もいますが、そんなものはどうでもいいのです。
 真の神経症家族は、他人にどう思われるかしか考えません。

 真骨頂という話をするならば、不幸でも楽しそうにしていればいいだけです。
 ただ言う事をきいていればいいのです。
 欲しいものでなくても欲しいと言っていればいいし、嬉しそうにしていればいいのです。
 社会的に望ましいことをやりたがればいいし、やったらやったで満足しているふりをしていればいいだけです。

 死ぬまでそれを続けるだけの、そんなに難しくない人生です。
 何をすればいいのかは、もう決まっていますから考える必要もありません。

 僕はその人生の何が不満なのかわかりません。
 女性弁護士も十分持っています。
 それ以上ないくらい、優秀だし仕事もできるし、あとは確かに結婚だけです。
 それなりの地位の人を捕まえて子供を産んで、そうしたら完璧です。

 自分の満足と言うならば、そもそも人間は社会の理想とは全く関係なくやりたいことがありますから、そんなことを言っていたら社会の理想通りにならなくなります。
 人に自慢できる人生にしなくては賛辞もされません。

 賛辞されることが目的で生きているのですから、それでいいのです。
 やりたいことなんかやったら、賛辞してもらえなくなりますよ。

 僕はハッキリしないのが嫌いなので、往生際が悪いと思えます。
 女性弁護士も見ていてイライラします。
 自分はどう思うとか、要は自分の人生はこれでいいんだと説明してくるのですが、それでいいなら人に説明しなくてもいいです。
 「こういうのがいい人生だと思う」と言いながら、それが私の人生だと言う話なのです。

 つまらない話です。
 桑野のために話しているのではないのです。正当化のためです。

 これが正しいと思うなんて話は、他人のためにするものであって自分の弁護なら聞きたくもないですよね。

 というか、そもそも「自分が如何に正しいか」など聞かなくてもいいですね。
 目の前で自分相手に言われたら迷惑です。

 相手になんの得にもならないことをするものではありません。
 相手のためになることしかしないものです。

 皆さんも、自分のためにならないことをされたいとは思わないでしょう。

 他人と接する時は相手のためにする行為だけと言っても過言ではないから、自分一人の時が一番楽なのです。

 他人を目の前にして、自分がやりたいだけのことをやられても、迷惑以外の何ものでもありません。

 どう言えばいいか、どうしてあげるのがいいか、他人を目の前にするとある意味疲れますよね。考え続けていなくてはなりませんから。

 だから気心の知れた仲間は楽でいいのです。何かしてあげる必要がないから、目の前にいても気にせず自由にしていられます。

 正直、あそこまで口は悪くないですが、桑野は日常の自分に似ていると思いました。そして娘にも友達にも似ていると言われました。

 僕は桑野に親近感を覚えますが、つまりあれを作った人が自己実現しているということです。過去のシリーズと同じ方が脚本を書いているそうです。

 食事のシーンは、特に自分に似ていると思いました。
 一人でクラシックを聴き、一人でディナー。それもレストランのようにきれいに作って満足している。

 楽しいじゃないですか。一人で気分よく食事して、いいと思います。

 一人だとつまらないと誰が決めたのでしょう。
 一人の方が楽しいですよ。

 僕はべたべたするのが嫌いなので、自分の時間を持っていて、誰も知らないことを一人でしている人の方が好きです。
 それをべらべら話す人は、底が浅くてすぐに飽きます。

 知らないことを常に知らない時間にし続けているから、その人と接していて常に驚きがあるのです。
 何をしているのかは知らないが、これだけの人ならばきっと何か色々しているのだろうなという、人としての深みがあると魅力的です。

 自分と同じとか、知らないことはないくらい教えられてしまったとか、楽しいところが何もないです。

 「知らない部分が沢山あるのがいい」のです。

 別に知らなくていいです。他人のことですから。
 自分が人に教えないのと同じくらい、自分の時間を楽しんでいて欲しいです。

 一人の時間も楽しめない大人が、他人を楽しませることなんかできるわけがないですからね。

 当たり前ですね。自分で自分を楽しませるなど一番簡単なことなのに、一番知っている自分を楽しませることもできないのに、他人など楽しませてあげられません。

 カッコ悪い人は、一人で楽しんで何かするのが恥ずかしいのです。

 なんでも人に話して見せて、一緒にやっていないと恥ずかしいのです。

 自立するのが恥ずかしい。一人で生きるのは恥ずかしい。
 親子逆転しているだけあって、概念が逆転しています。

 皆と同じが恥ずかしくない。
 一人で決めたことをしていたら恥ずかしい。

 おかしな話ですね。

 それならばこうなるべきなのです。

 皆と同じことをやっているとカッコいい!
 教えられたことをやっているのってカッコいい!
 自分のことを自分で説明しているのってカッコいい!
 自分が従っていることに従わない人を皆で批難するのはカッコいい!
 自分にも当てはまる批判をしている人を制裁しに出向いていくのってカッコいい!
 社会的に良いことをやり続けているのってカッコいい!

 そうですか?カッコ悪くないですか?

 それぞれのカッコいいですからどうでもいいのですが、個人的には違います。

 周りがどうであっても、自分の意志を貫いて一人でも夢や希望を持っているのってカッコいい!

 僕はそう思っています。桑野もカッコいいと思います。

 劇中にも出てきましたが、実は僕も流しそうめん機を買いました。
 似たような感覚で、やはり楽しそうだから買いました。

 僕の場合は、いつも子供が僕に付き合ってくれます。
 先日のトニー・ジャーの悲劇は未だかつてない不評でしたが、いつも喜んで一緒にやっています。

 基本的に放っておきます。
 好きなことをやらせています。僕が好きなことを一人でしているので、真似して一人で楽しんでいます。
 本人曰く、勉強しろと一切言わないので、逆に怖くなったそうです。
 僕は、親が勉強していれば子供も自然とするのだろうと思い、自分自身が色々と勉強することにしていました。「勉強してる?」と聞く代わりに、「そうだ、勉強しないと」と目の前でいつも勉強していました。

 心理のことだけではありません。
 勉強はやり続けるものです。
 もっとやらねばといつも思っています。まだまだ足りる足りないの話にもならないほど、知識は足りません。

 桑野を見ていても、僕も勇気をもらえます。

 13年経って変わった社会をよく描いている、素晴らしい作品だと思いました。

 まだ始まったばかりなので、今後の展開はわかりません。
 今現在放送中の部分までで考えたものですから、僕も今後の展開で驚くことになるかもしれません。

 きっと何か驚いて、後から僕も考えが変わるようなことがある、と期待しています。

 自分が正しい方がいいと思う人は多いですが、僕は自分が後から間違っていることになる展開の方が望ましいと思っています。

 驚きが無ければ、発展も発見もありませんからね。

結婚とは…

これは、あるドラマのセリフである。

高スペック男子だが結婚できない男がいた。
外科医である。

「これさえあれば」を手に入れても結婚できない男は沢山いる
その原因は、自己中で相手の気持ちを思いやれないことである。

同じく結婚相手が見つからない男が、うまく行かないことを人のせいにして生きる高スペック外科医に言った言葉である。



お前が結婚できないのはお前のせいだ!
 
俺にはお前の気持ちがよくわかる。
 
モテないのは、…辛い。
 
だがお前は、相手のことを知ろうとしたのか?!
 
自分の素晴らしさばかりを相手に押し付けたのではないか?!
 
俺もそうだった…
 
だが結婚とは、お互いを尊重し、敬い、認めあってするものだ!
 
 
 
 いいことを言った。カナロ。

 これは、ニチアサで放送中の、騎士竜戦隊リュウソウジャーの中のセリフである。
 これを聞いて「なーんだ」とがっかりしただろうか?

 子供向け特撮番組を作っている大人たちは、親も与えられない希望を子供たちに与え、また親にとっても現代社会にとっても必要なことを考え、毎年様々なものを世に送り出している。

 毎年、社会の問題について本当によく考えてくれているんだなと、僕も勇気をもらう。

 配役としてのセリフは、架空の存在が喋っているわけではない。

 彼らの口を通して、訴えようとしている人々がいることを忘れてはならない。

 どんな形でどこを通して発信するか。

 その形は違えども、方向が同じ人たちのことは見ているとわかる。

 生み出した人たちの思いを乗せ、様々な役割の人たちが力を合わせ、若い俳優たちがそれを形にして、僕たちの元に届けられる。



 今回のドラマは、子供たちより横で見ている親たちの方に刺さるのではないだろうか?

 決してこれを見て同意しても、親たちは

 「そうだよ!ちゃんと相手のことを考えないといけないんだからね!」

 と言葉で言うのではなく、その行動によって「人を思いやり尊敬するとはこういうことだ」と示して欲しい。


 思いやり、尊重している姿を実行し子供たちに見せてあげて欲しい。

 子供たちは言っていることはそこまでまだ理解できない。

 ただ、同じようにしている親を見て、ヒーローと同じようにお父さんお母さんもやっているんだ、と心強く思うのだ。

 その親自身の姿の方が、躾と称した言葉より、余程子供たちの支えになるのだ。


騎士竜戦隊リュウソウジャー 第30話「打倒!高スペック」より引用

「未来のミライ」

 先日、テレビで放送されたアニメ映画「未来のミライ」をお勧めします。

 「未来のミライ」公式サイト

 自分探しをする人に丁度良い、自分探しをしている話です。

 四歳の男の子が主人公です。

 妹が生まれ、父や母、そして祖父母の注目をさらわれていく時期の孤独や喪失感をうまく描いています。

 この幼児の様子が本当に素晴らしく「幼児」なので、お勧めします。

 神経症の人は、この時期から周りを受け入れずに「形だけ大人になった」と言えるでしょう。

 未来の妹が、主人公の見ようとしなかった世界を見せに連れて行ってくれます。

 思い通りにならずに「見捨てられた」と感じて泣きわめく主人公。

 他の子に張り合って無理して同じことをしようとする主人公。

 注目されない腹立たしさで生まれたばかりの妹に意地悪をする主人公。

 自分だけが可愛くないのだと泣く主人公。

 自分だけが注目されている世界でなくては、「幸せではない」時期の物語です。

 この喪失感は誰もが乗り越えて人との共存に向かえます。

 何よりも「自分を自分で証明しなくてはならない」というシーンが最も重要かもしれません。

 アイデンティティのことを言っているのです。

 皆さんは、自分で自分が何者なのか証明できるでしょうか?

 人はどうあっても、外側にあるものを介してしか自分を証明できません。

 名前のことではありません。それでは誰かわかりません。

 名前は自分の存在を表しているわけではなく、ただの呼び名です。変えることも可能ですから。自分ではありません。

 僕の場合ならばこうなるでしょう。

 「加賀は百万石の前田家に永らくお仕えした、武士の一族の嫡男です。」

 このように、自分が何者として存在しているのかを自覚してから「ではどう生きるべきだろうか」が始まります。

 何として生を受けた人生なのか。

 自分は「現世において何者なのか」をハッキリ自覚している。

 自分の構成要素を自覚できているかが、非常に重要なのです。

 人との違いを受け入れる度、「自分は~なのだなあ」と少しずつ自覚していくのが恐らくベターです。

 自分が我慢した、頑張った、など自分の理由で周りを拒否することで、自我はどんどん拡散し、「自分がなんのために生まれたのか」がわからなくなります。

 受け入れる度に「これは全て違いなのだ」とわかっていくのです。

 「私は~だったのに!」

 「俺はそんなつもりじゃないのに!」

 そうして他人を恨んでいる人は、この世に生を受けた意味に近づけないどころか、どんどん遠ざかっていくのです。

 自分の作る世界は、歴史がありません。

 自分が生まれる前は自己中心的な世界には何があったの?と聞かれてもわからないでしょう。

 突然始まった世界に、全部用意されていた———それが幼児の生きる世界です。

 生まれた方から見れば確かに「そう見える」ものですからね。
 幼児の世界では両親にも過去はないのです。聞いても現実のものとして想像できません。

 過去の無い世界に生きているので、言い訳ややり直しをするのです。

 「一度やったらもう終わり。」

 「現実に起きたらもう結果を消すことはできない。」

 「事実そうでないなら存在できない。」

 ということも、まだわからないのです。

 大丈夫だとわかって自分が安心したら「なーんだ、じゃあ…」と行動していればいい、という気分です。

 「本当に大丈夫なんだよね?」

 と心配になったら疑いを口に出し「大丈夫だよ」と保証してもらってから「じゃあ信じる」となるのです。

 現実には、その言葉ひとつでもう疑われて終わりです。
 ひとつでも行動した途端、結果は変わっていきます。

 そして事実そうでないのに、思わせて結果が出てくると思えるところが「実在している感覚がない」理由です。

 どんなに良いことを言っても、実際にそう思っていなければ何の意味もないのだとわからないのです。

 本当に心から思っている、真実である、ということに全く意味がないと思えています。

 恐らくはまだ、「自分が本当は何を思っているか」を確認したことがないのだと僕は考えています。
 自分の心を確認せずに、他人の反応だけ見ながらスラスラと喋っている時期があります。
 その状態なのだろうと推測できます。

 「仲良くしようと思ってたのに!」

 「親切でやってあげたのに!」

 なんて心の中でぶつくさ言っていることがありますね。

 でも、そのうち確認するのです。

 「本当にこれが親切かな。僕は心からそんなこと思っていたかな。」

 親切ってこういうもの?こういう気持ちでやるのが親切なの?

 この僕が、「優しい人」という人間なの?優しい人って僕みたいな人のことを言うの?

 こうして、自問自答して確認し始めます。自分で自分の嘘を見抜くようになるのです。
 実際にそうでないんだから、結果が出てこなくて当然だな、と思えるようになって、現実の世界に出ていきます。

 周りも一緒に動かして、望んだとおりの展開になるよう期待した。
 口先で説明して、思い込ませて人を動かそうとした。

 体裁の良いことを口走り、期待通りに褒められれば「よし、やった」と満足する気分になり、一人でいい気分を味わいます。自分はすごいんだぞ!優しいんだぞ!と自画自賛するのです。
 それがナルシシズムです。

 そういう時期が誰でもあります。
 それが今回お勧めしている映画の主人公です。

 お父さんならわかる。お母さんならできる。

 そういう感覚を大人になっても持ち続けたら、神経症です。

 「みんな人間なんだ。できるかわかるかなんて、本人にだってわからない。」

 と思うものです。

 以前から廃仏毀釈の話などをしていますが、アイデンティティを我々が自ら消し去ってしまったことは、多くの人々にとって生き方をわからなくした原因のひとつでしょう。

 江戸時代ならば士族でなくとも全員わかったはずのことですから。

 我慢した人も、周りに言う事を聞かせてしまった人も、みんなみんな、自分がわからなくなるのです。

 この世に起きたことには全て理由があるのに、自分の世界に合わせて現実を変えてしまったからです。

 褒められて、優しくされて、満足して、現実から遠ざかる。

 映画では、自分を失った人は列車に乗って「ひとりぼっちの国」に行くという話でした。

 わかっている人が描いたのだなと思いました。

 こんなに良い話だとは知らず、僕もテレビで観て驚きました。

 細田監督の作品は、「サマーウォーズ」も本当に良い話でした。

 自己の同一性、自分の根源を知ることがどれほど大切なことかよく知っているのだなと思います。本当に素晴らしい作品を生み出しておられます。

 サマーウォーズを観た方は多いかと思いますが、本当にうまくやれている旧家ならばああなるでしょう。

 本家と分家の立場が親族でも違う。
 本家の当主が指示する立場です。
 あれそのものが、小さな城ですからね。
 一族の団結とはそういうものです。

 僕も世が世なら、あのおばあちゃんのように当主として生きる人間だったでしょう。
 それぞれが分担し、役割を担う。
 そのようにできています。

 元気がない時はとりあえず皆で一緒にご飯を食べる、という教えも「正しいな」と思いました。

 昔からそういうものです。

 とりあえず、食事を出すものだなと思います。

 一族として団結していくことは大切なことです。
 それが生きるために必要であり、最も大切であることを現代社会の人々は忘れました。

 現実にそのままの自分で生きていれば、苦しい人生は終わります。

 やりたくないことをやらねばならないのは、思ってもいないことを自分が口走っているからなのだ、とわかるからです。

 現実には存在しない、自分が自画自賛できる「理想の人」として生きるにしても、実際の自分はそうでないのだからやりたくないことをやり続けては「しかし結果が出ない現実」の後始末に追われるだけになります。

 子供はみんな自分のことを可哀想な子供だと思うのです。

 最初は必ず思うのです。

 その悲劇から脱した人と脱しない人がいるだけで、誰もが最初は不幸で可哀想な世界を必ず生きるのです。

 「未来のミライ」を是非ご覧ください。