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いま、マザコンが熱い ~無料記事~

 今の世で求められている人、それはマザコン。

 仕事ばかりやっている優秀なマザコン。そんな人が求められている。

 マザコン好きな女子は、すぐにわかる。

 心の中では既に母親になっているから、保護者くらいしか言わないことを言う。

 心の中の立場で人は物を言う。だから心の中でどのポジションにいるかはわかる。

 人が悩みやうまくいかない時の話をすると「そんなの自分が悪いんでしょ」と早速母親の立場で物を言う。

 友達。恋人。対等な関係であれば「本人が悪いかどうか」など決めないし、考えもしないからそんな言葉は出てこない。

 子供のように面倒を見てもらう立場の人が言われることだ。

 そうでなければ、たた貶すだけになる。

 相手の責任を取ってあげるから、守ってあげる立場だからこそ、そんなことが言える。

 友達や恋人は、「役目が違う」からそんなことは言わない。

 面倒を見なければ一人で決められない男はモテる。

 嘘!そんなバカな!と思うかもしれないが、本当だ。

 傲慢な男がモテる。自尊心が低い女は傲慢な男が好きだからだ。

 オーストラリアでインタビューを続けるYoutuberが、「日本特有のぶりっ子女子」についてインタビューしていた。
 「これをすると可愛い」というぶりっ子ポーズは、外国の人には説明しないとわからない。漫画の真似事、昭和アイドルの真似事みたいなポーズだから、元ネタを知らないとわからない。

 上目遣いに男を見て、目を見開く。

 という説明をきちんとした上でオーストラリアの街ゆく人にインタビューしたところ、こんな答えが返ってきた。

 「傲慢な男なら嬉しいんじゃないの?」

 すごい。ズバリ言い当てた、と驚いたものだ。

 「俺がしてやるよ」と恩着せがましくしてくる男は、そういう女が好きだ。そうでなければそのポーズに靡かないからだ。

 マザコンが好きな人は、人に指図したがる。

 「あなたのために言ってるのよ」と言いながら、相手自身が考えてやるべきこと、仕事のことまで口を出す。どこにでもしゃしゃり出ていく。

 保護者になりたい。

 そんな人が沢山いる。

 聞けば「そんなことはない」と言うが、それは体裁であって実際にやっていることを見ればすぐわかる。

 説明より、現実に何をしているかだ。

 そして、責任の所在がわからない、冷静な判断か下せない人が好き。

 過去の話をいくらでも話しながら、感情的になりながら相手を責める。相手は関係のないことなのに、自分が過去にどんなに辛い目にあったか、どんなに辛い人生を歩んできたか、相手が知らない時のことを感情的に話して相手を責める。

 「わかってなくてごめんなさい」

 罪悪感にすぐに駆られる、責められたらなんでも自分が悪いと思う考えなしの人が好き。

 感情に煽られると道理を無視する人が好き。

 母親になりたいから、相手より強い立場になるのが好き。

 いつだって母親になりたい。

 だから、同じ状況で恋人なら全く違う観点で考える時にも、母親になって考える。

 相手の面倒を見て、相手がどうするかを決める立場になる。

 つまり、まだ中身が幼稚園児みたいな男が好き。

 しかし既に大人になっていて、社会的にはちゃんとやっていけるけれど、心理的には依存相手が必要となっている人が好き。

 自立している人は依存させない。依存は一方的にできるものではなく、共依存になるしかないからだ。

 心理的に自立していくよりも、共依存関係を求めるのだ。

 ドSの女王様みたいな人たちだが、本人は自分を頼りない、可愛い女子くらいに思っている。

 意識してやっているところは自分が望む女子をやっているからだ。

 相手がわかってくれないから、傷ついたから、など理由をつけて豹変する。

 感情的になった時もそれが自分だと認めない。

 極端なまでに女らしい、可愛らしい、犠牲的献身を払う女子も少なくない。

 だが、中身はドSだ。当たり前だ。

 サディストの女王様は、そもそもバランスが取れない人なのだからそれが普通なのだ。

 ずーっとサディストなわけではない。

 両面を持ち合わせているのが普通なのだ。

 だからどちらも極端なのだ。片方は理想的なまでに素晴らしい女子になっても、片方は破壊的なまでに恐ろしい女になる。

 これがたまらなく好きな人がいる。

 「いつかはきっとわかってくれる!」と相手を追いかけたいタイプだ。

 たった今は問題があるれど、ヒステリーを起こした時に言われたことを治せばなんとか変わると考える。

 「素敵な女子」部分を諦められないのだ。

 それは「演じているだけ」なのに、不自然さがわからない。

 「こんな人がいてくれたら…」という妄想が元々ある人しか惹かれない。

 健全な精神の人たちは情緒が安定している。

 泣いたりわめいたりせず、普通に冷静に話す人が好き。

 感情的になって責める人も嫌い。盛り上がってドラマチックになる人も嫌い。

 「普通でいい」からだ。

 ものすごいドラマチック展開は必要とせず、現実的に、計画的に進んでいく方が好き。

 不安になることはやりたくないのだ。

 マザコン大好き女子たちは、とにかく男にしつこく絡む。

 そしていじける。

 愛されたい女子は、相手に嫌われたくない。

 だが、マザコン大好き女子は「保護者」になりたいから全く目的が違うのだ。

 自分無しでは生きていけない男が好きなのだ。

 今を明るく生きている人は嫌い。

 既に目的があるから嫌い。明るく楽しく、健全になど生きていきたくない。

 そんなことない、と口では言うが、実際にはやっていない。

 そんなことないなら、今の生き方をとっくにやめている。

 僕はマザコン好きには全く心惹かれないが、恐らく、母親の体験も父親の体験も、乏しいからだろう。

 恐らくだが、普通に両親がいた人には何か響くものもあるのではないだろうか?

 僕は「何をしているのかわからない」のだ。

 ただ、冷静に考えても立場がおかしいことを言っているから、相手が何になりたいのか、僕を息子にしたいのだということもわかる。

 最初から全否定で来る。

 僕の生き方が間違っている、自分のような女こそ本物の女だ、と思えるようにまず言い合いをする。

 相手の考え方を変えるように責めて争って、そして相手が屈服した時は考え方が変ったのだから、自分を素敵な女子だと認めざるを得ない、と思っている。

 そういう、マゾっぽい男との関係を「素敵な恋愛」と呼んでいる。

 女子が好きな男に嫌われたら傷つく。だが、母親だから傷つかない。寧ろ怒りや恨みが生まれる。

 恩着せがましい母襲来だ。

 「こんなにしてやったのに!」

 「あんたがあんなこと言うからでしょ!」

 息子を責める。

 僕を可哀想だと思って母親になりたいのかは知らないが、わりと多い。

 男を相手に母親みたいな態度で接することを、本物の女子は「恥ずかしい」と思う。中身も乙女ならばの話だが。

 「自分が悪いんでしょ!」なんて母親のように説教する自分を、やりたくない。

 好きな人の前では、どういう自分でいたいか。

 異性としての顔は自分で生み出してその役になるものだ。

 だが、母親になりたい人もいるのだ。お母さんが好き過ぎる。

 だから、最期には必ず母親を肯定する。母親が言っていたから、母親が正しいと思う、なんとかして「母を素敵な人だとみんなにわかって欲しい人」なのだ。

 生憎、自分の母親さえ素敵だと思えず、早くに見限った僕は全く羨ましい限りとしか言えない。

 
 誰の気持ちを考えて、誰の身になって自分を客観視するかは自分で選べる。

 自分が好きで、この人の気持ちになってあげたい、この人の気持ちを知りたい、と思った人の身になって真剣に想像する。

 その時、自分の中の自分像を捨てる。

 理想の自分を捨てて、誰を選ぶか。

 誰もが好きに決められる。

 自分が、想像する側だからだ。

 人の身になって真剣に現実的に想像する時、「自分がどう見られているのかが怖い」という恐怖を乗り越えなくてはならない。

 それでも、「あの人の気持ちを理解したい」と思えた時に、人間は自分の「理想の自我イメージ」を捨てる。

 僕にとってその相手は、自分から自分の苦労話を押し付けて気持ちをわかれと言ってくる母親ではなかった。

 僕は自分を肯定的に受け入れてくれる人たちの「求められてもいない相手の気持ち」を考えた。

 相手の気持ちがわからないと、共に生きられない。

 仲間となる人を選ぶのは自由だし、親は変えられないが他人は好きに選べる。

 誰の気持ちを想像するかは好き勝手に選べるから、「他人は素晴らしい」と思った。

 自分が共に生きたい相手に認められるよう努力すればいいのであって、共に生きたくない、寧ろ変わって欲しいくらいの母親に認められる努力などする必要がない。

 そんな努力をしたら、僕が母親を認めていることになってしまうのだから。

 マザコン好きな人達は、僕のような人間が嫌いで、否定してくる。

 その人の母親に僕が似ていないからだ。

 気持ちをわかってもらえるのは、自分の母親でなくてはならない。

 自分が受け容れている人だから、大事な人は母親なのだ。または父親なのだ。

 なんと美しい親子愛か、とは思うが、何をしても親なら許されて、正しいと思えなくても選んでもらえるなど、人の道としてどうなのかと思う。

 親が正しいと思えず、かつ親だからと言って子供に虐待している親を許して甘やかしてはいけない、と僕は思うが、みんな許すのだ。

 親はすごい存在らしい。

 親に認められるために生きるということは、親とは違う人達を否定して生きなくてはならないということだ。

 今後、生涯生きていく相手を選ぶのに、そんなに簡単に、親だから、という理由で選んでいいのだろうか。

 後になって誰かが救いに来るなんてことはないし、そもそも生きている今の軌跡こそが人生そのものなのに。

 母親には散々傷つけられたとは思うが、同じ傷つくなら「この人のためなら仕方ない」と思える相手がいい。

 幸せになって然るべき行いをした人は誰か。

 自分の立場で決められることだ。

 自分が誰を受け容れていくかで、自分の中の裁きが下る。

 僕は鞍替えが早かった。

 どの道、魂は親子ではない。肉体だけの話だ。

 自分の道は自分で進むものなのだから、母親の真似などしたくはない。

 最初は親そっくりの自分を守るために他人と争いになりそうだったが、本当に守るべきは「この自分」なのか、考えた。

 自分が自分を気に入らなかった、だから捨てられた。

 誰かを守るために戦うのはカッコいい。

 だが、誰を守るかにより、納得がいかない結果になってしまう。

 自分が守ったくせに。

 だから、納得がいかないのは自分の間違いでしかない。

 母親の言う事を聞いて他人に認められたいと思うのは、最初から母親を自分の仲間として受け入れているからだ。

 母親に寄り添い、母親を受け容れてくれる人を増やしたいのだ。

 だから似た者同士が集まる。

 文句を言っても、結局は仲良し、ということだろうか。

 本当に嫌なら我慢などしない。

 性癖なのか、僕の母も突然のご機嫌みたいなことはあったが、その程度で普段の暴力的なヒステリーを忘れることはできなかった。

 あの性癖は、元々我慢して作られた人格でないと持てないものだ。

 自分も普段から我慢して、人の言うなりにならないと、受け入れられない人だ。

 口で何を言うかではなく、「いま、誰と共に生きているのか」でその人の道は決まっている。

 まずは、自分自身。

 その己こそか共に歩んでいく、全ての自分を知っている仲間なのだ。

知能の差・あなたはこれが理解できているか? 無料記事

 悩んでいる人たちと接していて、認知能力の差があまりにも激しいと思ったので、これから書くことをどれだけ理解できているかを確認してみてください。
 考えたこともない、という場合は、生きる上で必要になるので自分自身の中で自覚できるまで考え続けてください。

・立場による関係性と、内面による関係性の違いが理解できているか

 クラスメイト、生徒・先生、同僚、先輩・後輩、上司、店員・客、などは立場の関係性。獲得するための条件さえ揃えば誰でも即獲得できる関係で、変化することはない。主に特定の目的のため、契約的な合意により獲得される。卒業、退職、などにより目的が失われると関係性も失われる。内面的に良好であってもそうでなくても関係性そのものを変えることはない。他者の介入により作られることもある。

 友達、恋人、などは情による関係性。各々の自発的努力により、心の相互性が成立した際にのみ形作られ獲得できる関係。内面的な努力が必要で、内面的成長の糧となる。主に立場の関係性における接点から作られるが、立場の関係性において良好な関係が築かれた際に、並行して変化しながら作られる。立場の関係性が失われ接点が無くなっても、内面的に育ったものが失われることはない。契約的または支配的な理由で形だけ似せて作られていることもあるが、その場合は立場の関係性であり情により作られた関係性ではない。立場の関係性であった場合は、立場が失われると情による関係性が残ることはないが、どちらの場合も接点を失った際の情により心の中に残る関係性が決まる。接点が失われても本人の内面的成長により変化する場合がある。

・「私」という存在はいない、と理解しているか

 「私」という存在はこの世に実在せず、自分は常になんらかの関係性により対象者から見た立場の「私」以外の存在になっている。故に、自分は常に他者と接する際には立場上の存在の自分に能動的に「なって」いなくてはならない。
 また、親という存在は自分との関係性による立場でしかなく、自分が見ているのは自分から見て親にあたる人間の一側面であり、存在そのものではない。自分を中心に作った世界では、自分との接点で自分にとって望ましいことが起きたか起きないかで他人がどんな存在かが決まってしまうが、それは自分の心の中を映し出した世界であり、事実ではない。

・気持ちは心の中にあるものであり、形にすることはできないと理解しているか

 心の中は常にあり、言葉は心ではないので語ることはできない。人間は嘘をつくことができるので、言っていることがそのまま思っていることではない。また、気持ちは口に出さない時に育つ。過去に恨みを抱え我慢して報われようとする人は、我慢して犠牲を払うことで恨みを育てる。愛情や友情も同じく、忍耐による行動を繰り返すことで育つ。自分の中にある感情は自分しか育てられない。

 これらを全て理解し、現実の人生において実践していることで自身の内面に安寧をもたらすことができます。
 上記のものは全て冷静に思考していけば自覚可能なことですから、確認や自覚のために役立てていただければ幸いです。

 

もうすぐクリスマス!ラブホのご休憩について教えてくるAI ~無料記事~

 もうすぐクリスマスですね!

 うちではもうクリスマスツリーを出して飾りつけの最中です。

 プレゼントを用意したり、家を飾りつけしたり、外に出ても商品が変わりイルミネーションも始まり、クリスマスっぽさが感じられて楽しみになってきますね!

 というわけで、今回は雑談です。

 なぜか、事件の記事を検索していたらAIが「ラブホテルのご休憩の使い道」を教えてくれたので、そんな話もしています。

 

あなたが出会った人は?「私をみつけて」 ~無料記事~

 私、という存在はこの世にいない、と気付かないまま生きていく人の方が多いですが、私、という存在はこの世にいません。

 私が私一人だと思うならば、他人は人間ではないことになってしまいますが、人間ですから他人にとっては他人自身が「私」です。

 この世に存在しているのに、見ることはできない、「私」という本人だけが知る存在。

 その存在が物理的に誰かと口を利くことも見ることもできません。

 しかし、確かにいる、ということは、自分自身が存在しているからわかるでしょう。

 そして他人の中にいる「私」もいます。

 形ある世界でのやり取りは、形だけでもやり取りできます。

 ロボットのようにやり取りすることはできます。

 しかし、心通うやり取りは、相手の中にいる「私」と、自分の中にいる「私」がやり取りするものです。

 「私」は、誰なのかわかりません。自分でもわかりません。

 意識だけの存在です。

 意識については、未だに学術でも証明することができず、もしできたらノーベル賞ものだそうです。

 心の世界を生きている人は、私は心の中で考えていることも含めて全部「私」で、他人は目に見えるものだけ、というやり取りをしています。

 目の前にいる人はロボットのように見えていて、心が常にあると認識していないのです。

 意識の存在がその体の中にいると全く考えずに、「見えるもの」とやり取りしているのです。

 それが、誰とも心通わない人です。

 この世に存在しているのは私だけ。他人は存在しないのです。

 心の中の「私」は、誰の子でもありません。

 肉体が親に貰ったものであっても、意識の存在は誰ともつながりがありません。自分でもどこから来たのか、いつからいるのかわからないはずです。

 いつの間にか、気づいたら誰かの子として存在していただけです。

 その「誰かわからない、一人で生まれてきた存在」が、目に見える他の人間の肉体を「意のままに操っていい気分になろう」とするのが、人を操作しようとしている人です。

 私だけが特別だと考えていて、見えないものを認識していません。

 これが「未発達」ということです。

 見えなくても確かにいるのだから、常に「いる」と認識していないと相手は存在していることを無視されているのと同じです。

 心の中にいる「私」は無視され続けていても、目に見えた何かで気を引けば他人はこっちを向く、と学習すると、安心するために常に他人に構われようとし続けます。

 他人が望んだとおりにしてくれないと不安になり、気に入らないことがあると他人が許せなくなります。

 しかし、これは「見えない他人の中の私」を見るようになれば解決します。

 私はこの世にいない、ということを自覚する。

 そして、誰からも見えない「私」を「見ている人」がいると、実際のやり取りで確認する。

 それで、「私は存在しているとわかっている人がいる」と安心することができるでしょう。

 今や親子、夫婦などがどんどん破綻していますが、親を恨んでいる人たちは、親の中にいた「私」と出会うことがないまま、過去の記憶を思い出してばかりです。

 僕は母の中にいた「母自身の私」を知っています。

 親も人間ですから、自分と同じように生まれた時から人生を生きてきた本人にしかわからない「私」が存在しています。

 誰にも気づかれることがないまま死んでいくこともよくあることでしょう。

 親も子も、形ある「概念上の存在」としてしか認識せず、個別に存在している「唯一無二の誰か」であるとすらわからないまま、そこに疑問も持たずに生きていくのです。

 自分しかいない世界にいると、確かに「私は特別な主人公」であるかのように思えます。

 しかし、その未発達な状態のまま生きていくということは、いつまで経っても心の孤独から解放されることがないということでもあり、終わりのない「誰も私をわかってくれない世界」の中で、救いを待ち続けることになるのです。

 「私の中の私」と接している人に出会った時、自分自身が相手の中の「私」を見ることができるかどうか。

 人間は実体験がなければ決して「実感」することはありませんから、「私」と接する人と出会った時しかチャンスはありません。

 最初から「子供の中にいる「私」」を見ている親の元に生まれた人は、幸いだったと言えるかもしれません。

 心の中の「私」を発見してくれる人に出会うと、「やっと私をわかってくれる人がいた!」と安心してしまうことでしょう。

 親が心の中にいる「私」を無視している人であったならば、他人の中に「私」を見る人がいた時にどうしても「やっと見つけてもらえた」という感覚になり、相手が特別な私のために存在している人かのように感じます。

 しかし、それこそ「心通う関係が作れる相手」であり、そこで「この人が私を救ってくれる、安心できる世界に連れて行ってくれる」と依存し始めてしまうと、せっかくの救いも無駄にしてしまうでしょう。

 こうして生きていても、他人の中にいる「私」に気づいて生きている人はものすごく少ないことがよくわかります。

 自分のことは考えなくてもわかります。私はいるとわかります。

 しかし、他人のことは、ほんの少しでも「人の身を案じて人のことを考える」という姿勢がないと、意識してやることですからわかるようにはなりません。

 学校で教わることもなく、やっているふりをしてもバレないことです。

 意識の存在は、意識で見ることしかできません。

 しかしそれがわかるようになったら、やっと「見えないものを確認する目」が開眼し始めたと言えるでしょう。

 自分自身が「私が、私が」とどう説明しても、何をしても、どうあってもわからない人はわかりません。

 他人からは、「言っているだけ」にしか見えませんから、嘘だと疑ったり、勝手に妄想されたりすれば、本当に存在している「見えない私」は誰にも存在していると認めてもらえないでしょう。

 信じるか信じないかは、相手が自分を好きか嫌いかによる、と思えるかもしれませんが、現実にはそうではなく、常に「人の中にも私がいる」とわかって人と接している人がいるだけです。

 「人間とは何か」

 この部分の認識が、人により大幅に違います。

 皆さんは、人に話しかける時、どこを意識して、誰に向かって話しているでしょうか。

 どこに向かって話しているのかも意識していない、ただ「聞こえるところ」で話していればいい、そんな感覚ではないでしょうか。

 どんなに「私」の存在を認められる人に出会っても、私自身が相手の中の「私」を無視していれば、やがて相手は諦めていなくなるでしょう。

 しかし、自分がどんなに他人の中にある「私」を存在させず、「私だけが特別な存在だ」という世界を守り続けても、どんなに頑張って注目されることがあっても、結局「私だけが特別な存在」なので、心は孤独なままなのです。

 心の世界にたった一人。

 この世に確かに存在している「私」に誰も気づくことはないのです。

 そして他人を見ようとせず、目に見える形で人に注目され、「私は存在している感」を味わうしかないのです。

 しかし、喜んでいられるのも一瞬のこと。

 注目されない時間は、やはり心の世界でたった一人なのです。

 私が作り出す「私だけが特別な世界」を捨て、他人の中にも「私」はいるのだと認められれば、最初からそこにいる「私を見ていた人」にも気づくでしょう。

 心の世界で私を見ている人に出会った時、それに気づくかどうかは自分次第です。

 僕はずっと人の中の「私」に接していますが、母親に出会ったと勘違いする人は多かれど、何かが違うと気づいて「私」を存在させることができた人は、一人しか知りません。

 「相手が頭の中で何を意識しているか」

 これが、目に見えなくても自分にはできなくても、体感で全く違うと感じる理由です。

 意識の力は、思うより重要なものなのです。

 それは、どんなに言葉ではいいことを言われても、悪態をついてくる本当に自分を見ている人のように「実感できる温かい感覚」がないように、形あるものなど関係なく、今、起きている事実は必ず体感できるものなのです。

 ただし、覚えこんだ理屈で起きたことを考える限り、形あるものだけ整えて、見えないものは何もかも捨ててしまうでしょう。

 「私」という見えない存在も、自ら認めることなく、「誰か私を認めてくれ、わかってくれ」と何者かを求めて彷徨うことになるのです。

 私は、私にしか認められない存在です。

 その見えない存在が私の中にだけ「いる」と自覚した時、「他人の中にもいるはずだ」と思えれば、道は開けていくでしょう。

 僕自身は、「私」で生きている人々を見ていて、憐れに思っています。

 その不安は自分で解消させることができるので、何かを求めて彷徨う必要もないのですから。

 しかし、誰かを求めて生きている時の「孤独と不安」な世界は、このまま生きていく人生には何もいいことがないと思えるほど、希望のないものとなっていることでしょう。

 そこから一人でも多くの人が脱していくことを願っています。