名古屋講座にお集まりくださった皆さんに、心よりお礼申し上げます。
お忙しい中お時間を取ってお越しいただき、ありがとうございました。
とても嬉しいプレゼントをいただきました。
帰ってから開けてみて、胸の熱くなる思いでした。
本当にありがとうございました。
今回は他に用事があり、せっかく行くのだからと急遽用意した場でした。
採算度外視で行いましたが、そのお陰で東京までは来ることができない方に来ていただけたこと、本当に良かったと思いました。
どうしてもその場で実験したかったので、待つことが大嫌いな僕が並んで手に入れたお土産を持参しました。
想像力が働かないならば、今体験させるまで。
くじ引きをして、一人にだけゴディバのチョコレートをプレゼントしました。
他の皆さんには、行列ができる店のお菓子を、箱からひとつずつ配りました。
社会的価値と、心理的価値の違いを体験させるために行いました。
社会的価値、つまりブランド力や値段。
心理的価値、手に入りにくい、人気の、流行りの、そして「みんながもらった」という価値です。
僕は社会の理想を追い求めるこの価値観をなんとかしたいので、どうにかして立場の違う人たちが仲良くしようとできないものかと考えています。
人の物を欲しがる人は、自分が持たない時期があったにも関らず、金や物を持てばそれを使って「自分だって持ってるんだぞ!」と優越感に浸ろうとします。劣等感の解消をしたいのです。
悔しいから同じものを得て、「こんなものあったって何にもならない!」と今度は新たな自分を馬鹿にする、とにかく今の自分を馬鹿にすることの繰り返しです。
最初の自分が気に入らないだけです。
最初から社会的には価値あるとされる、そこしかなかった人たちとの決定的な違いです。
他人が得ていることが悔しい人は得れば見返せると思っていますが、実際には過去の自分と同じような人たちだけが悔しがります。
成金と呼べば聞こえは悪いですが、少し手に入れれば人を見下してこれまでの自分の価値を更に下げにかかる人もいます。
持つことのできない人の最大の敵だと言えます。
最初は自分たちと同じところから始まり、自分だけが得ようとした人。
得たら今度は過去の自分と同じ人たちを顧みることがありません。
最初からそこしかなかった人は、反対側にあるものが欲しいのだと教えました。
相手と自分は違うと受け入れることで、相手が欲しているものを渡し、自分が欲しているものももらうことが可能なのだと理解してほしいと思いました。
「あれさえ手に入れば!」と他人の持ち物を集めても意味がないのです。
最初から持っていた人たちは、それを持つべき役目も同時に持たされるからです。
苦労も背負わなくては、物だけ持ってもなんの意味もないのです。
最初から持っていてその意味がわからなくなった人たちは、中島誠之助さんのような目利きの天誅を食らって目を覚ました方が良いでしょう。
何か意味があるから、そこにあるのだと忘れてはいけません。
かくいう僕も、この年になって三代目仲田錦玉の作品を実際に手に取った時には感動して涙が出ました。何が素晴らしいところなのか、それを知らない者は持つ意味もありません。
豚に真珠というやつです。
意味や価値がわからない人は、持ったところで同じように嬉しいと思うこともないし、価値も感じない。そしてそれを使うことはできない。
金や物に意味がないのではなく、持つべき人が持たないと意味がないのです。
自分に相応しくないものは、いくら社会的にすごいものでも持ったところで無駄遣いにしかなりません。
自分にふさわしいものがあるのです。
憧れは見ている方がよく、手に入れたら憧れは消えてしまうのです。
芥川の芋粥です。
憧れているから憧れがいつまでも外側で輝いていてくれるのです。
憧れは自分が持つことのできないものだから美しく素晴らしく見えるのであって、持ってしまったらもう憧れは無くなってしまうのです。
人のものはなににせよ賛辞し尊敬する姿勢で生きていれば、外側には素敵なものが沢山あるように思えるでしょう。
何を手に入れたら人を見下して他人を不幸にできるか考えていたら、外側のものを如何に奪うかしか考えなくなります。
自分が何かを手に入れることで、悔しがったり傷ついたり落ち込んだりしてくれる人がいれば幸せだなと思う。それが、人を妬む人です。
物や金は奪えます。努力で手に入れることもある程度はできます。
ただ、人格だけは奪えません。
人格破綻者だが、権力も金も名声も持つ人がいます。
そんな人になりたいのが、支配的な人です。
素晴らしいものを沢山持っていても、人格が愛されないならば孤独な支配者です。
何を選ぶかどうなりたいのかは本人次第ということです。
自分にだけは目がいかない。他人の持ち物と比べてそれを集めたらあの人と同じになれると勘違いした。
そんなことは案外多くあるものです。
僕は何も持っていなかったので、幸せでした。
何も持っていないから幸せなのです。
自分一人の力で他人に張り合って身につけたかったら、一生かかっても大したものを手に入れることも体験することもできなかったでしょう。
素直に頭を下げることこそ、誇り高い人間がすること。
「知らないんだからしょうがないだろう!」と威張って足りない部分をなんとかしてもらうのが泥棒です。
「こんなに大変なんです」と惨めに見せて、人が心配して向こうから「じゃあこれをしてあげる」と言われて喜んでいるのが、乞食の子です。
そのどちらも現代日本では必要ありません。
する必要が無くなりました。良かったですね。
僕は子供のころからずっと、狭く汚いアパート暮らしで貧しさに耐えながら生きてきましたが、家に残された教育が身を救ってくれました。
馬鹿にされても笑われても、本当に持っていないのだからしょうがないと思えたのは自分が泥棒の子でも乞食の子でもない、と思っていたからです。
母の力は大きいとも思います。
学校に持っていくものも買えないと、学校で馬鹿にされました。
それも、「うちのお母さんがお前のことこう言ってた」と馬鹿にしてきた成金の子もいました。
お家の教育です。お里が知れると言われるのは、こういう時です。
まともな家では外で人様の持ち物を馬鹿にするように育てません。
思うだけで、口に出すこともありません。
この行為に口出しもしません。とにかくその家の教育がその人を作りますから。
母は僕が八歳のころに、馬鹿にされたことを話すと泣いていました。
「お前は貧しくともその辺の町民風情に馬鹿にされるような家の子ではない」と泣きながら言いました。
母も、馬鹿にされてはいけないと躍起になって働いていました。
自分の外での働きが家の格を上げたり下げたりするのだから、当然です。
ただ、現代社会ではそもそも上にいる人にただ自分がより私腹を肥やしたいような人がいるのだと思います。誰でもなれるようになりましたからね。
上に立つべき教育を受けることもなく、上に立つことも可能になりました。金さえ稼げれば。
お前は武士の子なんだ、今は貧しくとも他の家とは違うんだ、とよく言われました。
心の中では「もうそんなの関係ないのに」といつも不満でしたが、それは必要だったと思います。
誇りを捨ててしまったかもしれませんから。
「知らないの?おかしい!」と笑われることが本当によくありました。
面白いから笑っているのではなく、馬鹿にして笑っているのです。
そんなときも「知らないので教えてほしい」とお願いすれば教えてもらえました。
恥じることはありません。最初だけですから。
知らないまま生きることの方が恥なのです。
今では彼らの方が僕よりずっと持つ人たちなのだから、僕の方こそ謙虚に頭を下げて教えていただくべき、と思いました。
「好きにしていい」の意味が、ひとつも好きにできなかった僕には全く理解できませんでしたが、自分で判断して、適当にということが「存在するのだ」と教えてくれたのも、家族で大皿をつつく食事をしていた人たちでした。
僕は彼らに感謝しているので、僕が先に知っていたことは彼らにも分けていかねばと考えています。
必要とされることは無かったので、僕より持っている人たちに教える必要もないと思っていました。
僕は特に人に言えたほどのものは何も持ちません。
実際に必要となって現場を体験しながら、必要となるものを身に着け、学んでいきました。
なので人に言えることは何もありません。
同じことをすれば僕でなくともわかります。
もし、遊興に使う時間があるならばその時間に知らないことを知るために本を読めばいいし、勉強すればいいし、訓練すればいいし、特に難しいことは何もありません。
誰でもできることが、ほとんどです。
誰にでもできないことをする人が、本当にすごい人なのです。
金や物があって、時間があれば努力して誰にでもできることは、すごいと呼びません。
自分以外にも持っている人がいるものを持っても、なんでもないことです。
「金さえあれば」と言う人が昔いましたが、それで何をするのかの方が重要です。
金があれば色んなことができるでしょう。
しかし、それを使って何をするのか。
人に見せびらかす何かを得たいのか、人々に貢献するために何かしたいのか。
根っこのところで考えている動機が、人生を決めます。
ある程度のお金持ち以上は、自分を金持ちだと思わないと言います。
調査するとそのような結果が出てくるそうです。
上には上がいると知っているからです。
僕はあえて「間抜け」と呼びたい部類の人がいます。
人を羨んで自分の持つものをくだらないと全て捨てて、人の物を持っても持つべき自分がなく自分の首を絞め、なりたくないものになろうなろうとした結果、欲しくもないものに囲まれて「自分はこれで満足している!」と豪語して過去の失敗を認めないために生きる人です。
僕の身内の話です。
親を恨んだ罰です。
目に見えないものまで捨てた時、人生が終わったのだと思います。
生きているうちに伝授してもらっていて、良かったです。
魂さえあれば、たとえ生まれ変わって違う時代に違う体で生まれても、同じような人生を歩ますから。
名古屋で配ったものは、当りの方を何にするのか結構考えたんですよ(笑)
知っていた方がいた、人気のキャラメルサンドの店のものにしようかという案もありました。
しかし、必要なものは「誰もが知るブランド力」なので流行り物はやめようということになりました。
そのキャラメルサンドは、先生が持って帰りました。
おいしかったです。これが今人気なのですね。
その場で食べてもらう、をする必要があったので、お茶を用意したかったですね…。
この時間のない現代社会において、常に「呑気にしていたい」のでいつもいつも時間を長くとっていてすいません。
言っていることよりも、形よりも、魂が伝わりますようにと念じています。
感覚で感じるものが、人にはあります。
それが伝わるようにと願っています。
きちんと、ちゃんと、というものが皆さん好きです。
そうなりたいとか、そうなれるようにとか、考えているようです。
僕はもういいです。そういうのもういいです。
そんなものより、自由に、それぞれの発想で生み出せることが素晴らしいと思っています。
画期的というものに惹かれます。
しかし、そこには原点として自分自身の持つ歴史がなくては最高のものになりません。
自分の過去や歴史なくして、本当に人と違うものは生み出せませんから。
親子でも対立することはあると思います。
僕の母は家も歴史も捨てましたが、僕は捨てませんでした。
お陰で対立して生きてきましたが、僕は自分を失いませんでした。
最初にどこから始まったのかを忘れた人間に、行くべき道などわかりません。
どこからきてここにいるのか知らない人が、目指したい場所などありません。
何よりも、「もう自分は何をしても無理」とあきらめたならば、終わりです。
諦めは仏教では執着から離れる言葉。この場合は「放棄」と言った方が正確でしょう。
僕は生きている限り、親を恨むことはできません。
生きる苦痛から逃げたい人が、親を恨むのです。
僕はまだ生きたいです。やりたいことも見たいものも知りたいことも沢山あります。
だから恨めません。
親がいかに嫌でも、いなければ生きることもできなかった時期がありますから。
他の人はそうは思わなくてもいいし、実際一般的には子供には何もできないのだから仕方ないと言われてはいます。そして他人についてはそうだと思います。
ただ、僕は違います。
僕はそうは思わないし、親がいけないんだからしょうがないと僕は僕にだけは思いません。
皆さんが、親の虐待に耐えてきた人ならばそんな不幸なことはないと思います。
そして何ができなくても親が愛を注げなかったせいだと思うし、そのせいでどうにもできないのは仕方ないことだと思います。
当たり前にあるものがなかったのだから、どうにもできなくなっていても仕方ないと思います。
嘆くのも当然だし、自暴自棄になることも仕方ないです。
人を羨むことも仕方ないと思います。
ただ、僕はそんなに自分に優しくする必要がない人間なので、そこを理由にはできません。
僕は自分自身の原因があってうまくいかないのであって、親の仕打ちや選べなかった生まれのせいにして自分が生きることを放棄する権利がありません。
生まれたこと自体僕の力ではないので、思い通りにしてもらえないと恨めるほど親も楽はしていません。
僕の親や祖父母は、少なくとも自分たちも楽な生き方などできなかった人たちなので、この一族に生まれた全員が耐えなくてはならないことであって、僕だけ親を恨んで暴れることもできません。
嫌なら死ぬこともできたのに、現世に執着して生きようとしたのは自分自身ですから。
僕は母にもそして祖母にも感謝しています。
とても良い人だとは思いませんが、感謝はしています。
僕なら耐えられない、できないことを継続していた人たちなので、そこから得る恩恵について感謝しています。
過去には過去の、今には今の苦労があります。
違う時代の苦労を両親や祖父母は担っていたので、僕が今の辛さから逃げ出す限り、親に文句も言えません。
自分の問題を片付けもしないで、人に役目を果たせなど到底言えないことですから。
少なくとも親に諫言するからには、自分自身のことについてはきちんと方法を見つけて解決している必要があります。
「自分のこともできないくせに、人のことをとやかく言うな」とよく言われたものです。
最低限、自分のことは自分で努力し、考え、なんとかしている必要があります。
そうでなくては諫言することは許されませんから、躍起になって自分の目の前の問題はなんとかしていたなと子供のころを思い出します。
ちょっと理解できないと思いますが、両親と祖母は僕とは違う家の人なので、感謝しています。
魂の入れ物となる人間が必要だったのだなと、厳しい教育を思い出します。
僕は怠け者なので、強制されなければあれもこれもやらないままだったと思います。
今でもそうですが、意思が弱く強制的に行うように自分で自分を追い詰めなくてはならないことがあります。
僕よりも僕の生徒たちの方が余程強いと思います。
「人にすぐに教えてもらおうとするな」
「見せびらかすんじゃない」
「人のことをとやかく言うな、黙って自分のことだけしろ」
こうした当たり前のことを何度も言われていたことが、今ではありがたいと思えます。
親に言われたからこそ、不満でも耐えるしかなかったのですから。
優しさはないが、教えていることは正しい。
そして僕は優しくしてくれないなら言うことを聞かないと甘えたいほど、親に親近感を持っていません。
時々、もう僕一人なのかと思うことがあります。
奇妙なことで、親族はいるのにもう僕一人だと感じます。
もう教える番。もう誰にも教えてもらえないし、守ってももらえない。
責任を持つ恐怖に耐える番。
みながやってきたのだから、僕もやらねばなりません。
「なんでも順ぐりなんや。自分だけやない。なんでも順ぐりや。」
幼児のころに、親がいないころ祖母に言われました。
自分だけが辛いと思うな、みんな順番にやっていることなのだという意味です。
親を憎んでいましたが、だからこそ僕はやるまで。
「あなたはできなかったんですか?僕は耐えましたよ。」と。
生まれた時から、それぞれが背負う責任があり、それぞれがそれと戦っています。
僕は甘えていていい人間ではなかったので、親の優しさにしろすべてなかったものは「必要ないからなかった」と思っています。
他の人たちには気にしないでほしいと思っています。
実際、優しくされてもできる人間ならばともかく、僕は甘やかされていたら必要なこともきちんとやらない子供だったと思います。
わがままだったので、勉強もしないで遊んでばかりいたでしょう。
きっと後になって後悔したと思います。
今過去の自分に感謝しているくらいですから。
不満だったのに、意地になって頑張ってくれていてありがとうと。
何かに張り合うと意地になって頑張りますよね。
どんな理由でも頑張ったことは無駄にはなりません。
だから親を恨んでいる時期も必要です。
親を憎めば必ず躍起になって努力しますから。
見返したいと思うからこそ、必死になって努力するのですから。
実力を備えなくてはならないからこそ、必死になるのですから。
そして今でも大した実力はなく、見えないものなど信じる人の役にしかたちません。
この物質的なものを得るためだけに生きる現代社会においては、ほとんど意味がないでしょう。
幸せが欲しいと言いながら、実際には形あるものを集めたいだけ。
「不幸を生み出すんです。大衆は可哀想なんて言いながらも、人の不幸は蜜の味で人の不幸を見るためには金を出すんですから。」
忘れられない言葉です。ある仕事で指示された内容です。若いころに、そうやって作られた不幸で大衆を動かしていくものなのだ、それが商売なのだと知ってよかったと思います。
そして、「俺にはそんなことはできない。いくら仕事でもできない。」と判断して、良かったと思っています。
まだ若かったので、その程度のことでもショックでした。当たり前なんですけどね。まだ夢を見ていたころですね。
努力して実力を備え、少しずつでも新しい世界に進んでいたから知ることができた現実が沢山あります。
なんでも裏側がある。夢など片方から見ただけで勝手に作り上げた妄想です。
妄想などしなくなれば、当たり前に思うことばかりになり不幸も消えるでしょう。
いいなあと思うものなんて、全部作られたもの。
人間が作るものは全部、作りものですから。
本物と呼べるものだけが、後世にも残っていくでしょう。