幼児は傲慢で当たり前
まだ自分では何もできないし、想像力が未発達だから自分から見たものを動かそうとしかしない。
そのまま生きると大変なことになる。
家の中を一歩出たら他人の世界である。
自分を理由に自分のために動いてくれる人は誰もいない。
そこに理由をつけて「家の中で満たされなかった何か」を、気持ちだけは子供のつもりで他人に満たされようとする。
「私が~だから」という理由で他人が何かをしてくれる。
「私をわかってくれた!」は「私に従ってくれた!」である。
私を理由に動く世界は最初からない。つまり支配に成功しただけ。
言う事を聞かせただけ。
それが成功するかしないか、自分のことをわかってくれる(私が支配できる)かどうかだけが幸せかどうかを決めると思い込んでいる。
それが、「家庭内で体験する第一の世界」である。
他人と接し始めて「第二の世界」に移行する。
想像力の発達と共に、自分の立場を理解する。
他人との関係性を理解する。
「私をわかってくれる優しい人」はいない。
それが他人の中にいたら、なんの関係性も築けなかった人だ。
人付き合いは段々と相手に対する能動的な意欲が出てくるものだが、「私をわかってくれ」の付き合いはある程度何かをしてもらえたら、もう終わる。
気持ちを満たしたいために「実際に現実を使って何かをしてもらった」だけで、現実の相手との関係性はまだ作られてもいない。
自分に合わせてあやしてもらえただけなのだ。
それがいけないかどうかではなく、そのために現実の人生を「捨てている」のだ。
幼児は根本的に求めるものが傲慢である。
自分を理由に何かをしてもらえるのが当たり前で、それをしてもらえるのが嬉しい。
幼児は何もできないから、それをしてくれるべき立場の人に求める。それが自然に成り立てば問題はない。
他人に求めたら支配である。
だから自信無さげで幼児的な感覚を持ちながら、他人に対してすごい要求をしている。
命令している。
支配しようとしている。
それなのに、本人は「自分は自信がないから何もできない」「みんなに認めてもらえない」と思っているのが、心理的に成長していない人である。
人前で平気で嘆く。
「私は何もできない!」
「私の何が悪いって言うの?!」
「私に何をさせようとしているの?!」
ヒロイン気取りも甚だしい、そんなセリフを平気で吐く。
気付いていないからできるのだ。
幼児に足りないのは羞恥心である。
まだ子供気分なので、他人を親代わりにしても平気なのだ。
区別がついていないからだ。
自分の都合で赤の他人に甘える。
話をきいてわかってくれたから、平気な相手になった!
つまり、他人が他人で無くなった!という感覚を持つ。
他人である。最初から最後まで、存在は生まれた時に決まっている。
親はこの人たちしかいない、と諦められない。
他人の中に求める。
だから、常に甘えているつもり、自信無さげなつもりで、「信じられないほど高飛車で傲慢なこと」を言っている。
そんなことは嘆きながら言うことではない。
だが、人前で「自分はこんなにできない」と嘆く。
他人は苦しんでいない、他人はできると決めつける。
「自分だけが」と特別扱いする。
嘆いている時に、同時に人をバカにしていると気づいていない。
この傲慢な態度に人は反応する。
「私たちは苦労してないとでも?」
「そこまで期待されてるとでも?」
「それでも友達やってるのにまだ不満があるの?」
そして、他人は去っていく。
それを「やっぱり私はできない人間だから、皆に見捨てられた」と勘違い。
支配的なのに謙虚だと勘違い。
卑屈なのに高飛車。それが拗ねた幼児である。
勿体ないのは、「他人に親を求めた」「他人に過去を共有してもらおうとした」ということである。
その時点で、もう他人との関係性は断絶された。現実の拒否である。
過去が大事で大事で仕方ないのが、過去を恨む人である。
今までが嘘のように明るい未来など、欲しくない。
これからの新しい人生より、今までの恨めしい過去の決着をつけることが先。
人と出会う度に、新しい人生は始まっている。
新しい場に出る度に、新しいストーリーは始まっている。
僕たちが大人になって知り合った他人を「大人」としてしか見ないように、他人も今の自分を今いるところからしか認識できない。
それを、なんとか過去まで想像して「過去に見合った自分」にしてもらおうと試みる。
つまり「親に決めつけられた自分の続き」をやりたいのだ。
親に決めつけられたことが許せない。
親に批難されたことが許せない。
だから今から知り合って全く違う好意的な見方など「されても困る」のが過去を恨む人だ。
今だけで判断されては困るのが、過去に戻りたい人。
今だけで判断してもらった方が良いのが、過去を諦めて未来に行きたい人だ。
今明るい人だと思われても困る。
幸せだと思われたら困る。
もっと不幸で可哀想な人だと思われないと、自分が困るのだ。
最初は親が自我の代理だ。代理でしかない。
自我は自分の中にあるものだから。
他人に心の中に介入されたいのが、心の中にあるものまで他人に知ってもらいたい人。
自分一人でしか感じられないのが感情だが、一緒に感じて欲しいのが子供だ。
共感は他人が勝手にするものだが、それを自ら求めてやってもらおうとするのが子供だ。
できるものだと思っているからだ。
「できないものだ」と知らない。
自分しか感じない。他人は自分の内から湧いたものを一緒になど感じない。
誰もが諦めるしかないことなのだと自覚して進むはずの、「絶対に無理」なことが起きないと嘆く。
誰もしてもらえない、誰にもできない。
それを人間相手に怒る。
幼児の傲慢さはそこだ。自分が求めることは誰かができる、知っていると思い込んでいる。
他人の中に神様みたいな存在がいると思い込んでいる。だからあれをしないこれをしない、あれをわかってくれないと不満を言う。
怒りながら言う。
「もっとこうして欲しい!」
「そんなこと思われたくない!」
遂には、人の脳内までなんとかしろとの要求だ。
「自分の脳内を自由に操ってから言え。」
という話なのだが、そんな恥ずかしいことを堂々と言ってしまう。
他人にはできる!と決めつけるのは、「私はできない!」と嘆くために必須の条件だ。
他人にどう見られようが未来を捨てようが気にしない。
自分都合で動いてもらえると思っているからだ。
他人はできると決めつけることで、安心していられるのだ。
例えば「私はこれからこうしていきたい」と一方的に自分がどうしていきたいのか話す。
それが自分にとって美しい展開ならば、皆も喜ぶと思っている。
自分を中心にしたストーリーの通りに、周りが反応すると思っている。
それが起きないことを「酷い」と思う。
自分のために皆がいるのが当たり前で、自分の脳内は「みんなのもの」だから。
私の過去を一緒に生きている他人と、私の脳内を使って生きている他人。
気持ち悪い話だが、本当にそう思っているのだ。
現実に形に出したところだけ、他人には「認識された」と考えるのが当たり前である。
だが、例えばこんな風になる。
一週間前に共同作業を行う相手に「もうできないからこれをやめる」と言った。
だが、それは感情的になっただけの適当な発言。ただの八つ当たりである。
後から自分一人であれこれ考えて自分都合で「やっぱりやめない」と決める。そこに至るまでに自分の脳内で自分が美化されるストーリーを作る。
「我儘な行動が我儘にならないつじつま合わせ」をするのだ。
すると、自分が美しい素晴らしいことをしようとしている、健気、優しい、など、良い人のように思えてくる。
そして今日になったら「そんな素晴らしいことを考えた私」の態度で、「やっぱりやめないことにする。」と理由を述べる。ナルシシズムの世界にいるからキラキラした目で状況に不一致な態度で話す。
相手は、それを説明すると「なんて偉いんだ」「なんて優しいんだ」と思ってくれる予定なのである。
私は私に対して「私って優しい!」「私って偉い!」というストーリーになるように、つじつま合わせをしたから。
だが、現実には
「先週はやめるって言ったのに…この人我儘!」
である。
何よりも、先週やめると言ったのである。
「もうやめるって言ったから、他の人に頼んじゃったよ。」
となる。
そこで「どうせ私は要らないんだよね」まで始まる。
可哀想でもなんでもないが、「心の世界と現実の区別がついていない」のだ。
自分の脳内で作った「こんなに優しい健気な私」のつじつま合わせは、自分だけのものである。
「でも向こうからしたら、我儘だよね」
と自覚できるのが現実を生きる人である。
ある母親の目が覚めたのを見ていてよくわかった。
「自然は一度拒否したら、そこから相手の行動を全部勘違いしてしまうのだな」と。
人を黙らせて言いたいことを言えなくした。
その時に自分は何を言った?
何をやった?
そこを軸にして他人は自分の様子を伺っているのだ。
優しくされているのか、自分の様子を伺っているのか。
「自分が他人に警戒される存在になっていないか」と考えないのだ。
「だって僕は怖くないよ?」と僕も子供の頃に思った。
だが、他人は違う。
いきなり自分都合を話せば嫌がるし、人を批難していたら「怖い」のだ。
「お前が悪いんだぞ」と説明したから「私が悪いんだ」と思う、そんなわけがない。
説明したら相手の脳内が書き換わるわけではない。
お前が悪いんだぞ!と責め立てるから「この人怖い」なのだ。
「この人が怖いから」という理由で、その後の自分に対する対応が決まったと知らない。
もう、そこから何が本当なのかわからない世界に行くのは、自然を拒否した本人だけなのだ。
私は特別、と思いたい人が、人の自然を拒否する。現実の他人を拒否する。
そんなことがあるわけがない。夢物語は夢の中にしかないものだ。
現実にいる自分は、立場も決まっている。それ以外の何ものでもない。
気分で好きなものになれるならば、苦労などしない。
気分に合わせて好きな役になれるのならば、苦労はしない。
理想の扱いは待っていない。
そんな扱いをされるならば、理由はひとつである。
自分の過去の辛い話をしたならば、「可哀想」と思われただけ。
それが最大限である。
「可哀想がられることで得をする」
そうなると手放せない。不幸が手放せない。
だが、何度も繰り返すと他人はさすがに去って行く。
繰り返す度に人の心は離れていく。
夢の扱いを望むより、せっかく新しい今があるのだから…とは思うが、人を恨んだ人はそうではない。
「これからの楽しいストーリー」に、「これまでの私の苦労」が絡まないと許せないのだ。
だが、「これまでの私の苦労」に合わせた話には、そことは関係なく生まれていた「楽しい話」は全く出てこないのだった。
「この人に合わせなくてはならない」
そんな時、その人の今に合わせて何かをするわけだから、その内容に見合わない明るい話や楽しい話、新しい何かは持ってこられない。
どちらを選ぶかなのだ。
僕は過去を諦めて今を生き始め、「僕はちっとも知らなかった、こんな楽しいことが沢山あったなんて」という世界を知った。
その方が遥かにマシ。と思えるのは、もう過去を諦めた人だけなのだろう。